江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年2月24日説教(サムエル記下12:1−14、その男はあなただ)

投稿日:2002年2月24日 更新日:

1.ダビデの罪

・サムエル記は歴史書である。サムエル記上はイスラエルにどのようにして王が立てられるに到ったかを記し、サムエル記下は王として立てられたダビデの生涯を記す。その中で中心とされる出来事がサムエル記下12章に記されている。それはダビデが罪を犯し、その罪を指摘され、悔い改める物語である。
・物語は11章から始まる。当時、イスラエルはダビデの下に王国として栄え始めていた。ダビデは近隣諸国を征服し、領土を拡大して行った。事件が起きた時もアンモン人と戦争中であったが、彼自身が出陣するには及ばず、戦いは将軍ヨアブに任せ、彼はエルサレムの王宮にいた。人は得意の絶頂にある時、サタンの誘惑を受ける。ダビデに試みられたものは肉欲の誘いであった。ある日の夕暮れ、ダビデは王宮の屋上から湯浴みする一人の婦人を見た。彼女はダビデ軍の兵士ウリヤの妻バテシバ、女は大層美しかったとサムエル記は記す。夫ウリヤはアンモン人との戦いのために出征し、不在であった。ダビデは婦人を王宮に呼び、彼女と寝た。その結果バテシバは妊娠した(11:1−5)。
・困惑したダビデはウリヤを前線から呼び戻し、妻と寝させることによって自分の犯した悪をごまかそうとする。しかし、ウリヤは前線の将兵が戦いの中にあるとき、自分一人、家で妻と寝るわけには行かないと断る。ダビデの目論見は失敗した。ダビデはウリヤを前線に戻すがその時、ウリヤの上司である将軍ヨアブに手紙を持たせ、ウリヤを最前線に立たせて死なせるように命じ、ウリヤは死ぬ。こうしてバテシバはやもめとなり、ダビデはバテシバを妻として宮殿に迎え入れ、彼女は男の子を生んだ。
・サムエル記はこの事実のみを淡々と述べた後、最期に記す(サムエル下11:27)。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」。そして「主はナタンをダビデのもとに遣わされた」(12:1)。人間の歴史の中には、そして私たちの生涯においても、バテシバ事件のようなことが起こる。その時、神は人間の歴史に介入される。そして言葉が伝えられる。

2.ナタンの叱責

・ダビデの前に現れたナタンはダビデに一つの物語を語る(12:1−4)。
「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
・多くの羊や牛を持つ豊かな男が自分の羊をつぶすのを惜しみ、一匹の羊しか持たない男の羊を取り上げ、それを客に出す。物語が語ることは明白である。ダビデは多くの妻や側女を持ち、多くの子にも恵まれている。そのダビデが、自分の部下ウリヤの妻に欲情を抱き、夫ウリヤを殺してその妻を自分のものにした。しかし、ダビデはまだ、この物語が自分に向けて言われていることに気付かない。ダビデは言う「そのような無慈悲なことをした男は死罪にされるべきだ」。そのダビデにナタンは言う「その男はあなただ、あなたこそがその無慈悲なことをしたのだ」(12:7)と。
・ナタンは主の言葉を続ける「あなたをイスラエルの王にしたのは私であり、あなたを恵んできたのも私である。それなのに何故、ウリヤの妻を欲してウリヤを殺すような悪を為したのか」(7―10節)。この言葉の前にダビデは頭をたれ悔改める「私は主に罪を犯した」。

3.罪の償い

・この物語は、いろいろなことを私たちに教える。ダビデは王であった。権力者が悪を犯しても世間は何も言わない。しかし、人の目に隠れていることも神は明らかにされる。神はダビデの罪を公衆の前にさらけ出された。雪印食品が牛肉の不正販売が原因で会社を解散することになった。売上を伸ばすために、在庫でだぶついていた輸入牛肉を国産牛肉と偽って販売し、それが明るみにでて、社会的制裁を受けた。私たちは雪印だけが特別ではなく、どこの会社も似たような不正をしているのを知っている。それにもかかわらず、悪は悪であり、それは明るみに出され、罪として裁かれる。権力者であれば、ダビデがするようなことは誰でもするだろう。それにもかかわらず、ダビデは裁かれなければならない。
・そのダビデはイスラエル建国の父である。その王がある意味で個人的な罪を犯した、政治的には重要性を持たない。普通の歴史書であればこれは記述しない。しかし、聖書はこれを包み隠さず伝える。それどころか、この事実を伝えるために、あえて大きなスペースを割いている。神の目から見れば、それはアンモン人との戦いよりも重要な出来事であった。このバテシバを通じてソロモンが生まれる。そして、ダビデーソロモンの系図からイエス・キリストが生まれたことをマタイ福音書もまた、特記する。
「1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。・・・1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、・・・1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」
・マタイはあえて「ウリヤの妻によってソロモンが生まれた」と記す。単純に「ダビデはソロモンの父」と書けばよいのに、何故「ウリヤの妻によって」と記すのか。それはキリストの系図もまた、汚れていたことを示すためである。人間は罪の中に生まれ、その罪を背負って生きる存在であり、その人間の罪を背負うためにキリストは来られたことを示すためである。
・私たちの系図も罪で汚れている。仮に私たちが自分たちの過去を自伝として書こうとする時、書くのをためらう出来事、人に知られたくない出来事を多く待っていることを知らされる。私は4月から「命の電話」のボランテイアを行う予定で、事務局から応募書類を取り寄せた。応募資料の一つに自分の精神史を原稿用紙10枚以上書けというのがあった。精神史、何が今のあなたを形成したとあなたは考えるかを書けというのである。書き始めたとき、過去のいろいろの出来事が浮かんできて、ある所から筆が進めなくなった。改めて自分の生涯は、罪の歴史であったことを知らされた。正に「その罪を犯した男は私なのだ」。誰も知らない罪、隠しておきたい出来事、神は全てをご存知であり、それを承知の上で私たちを招かれている。そのことを知る時、私たちはもう自分を誇ることが出来ない。砕かれざるを得ない。


4.赦された生

・ダビデはナタンの言葉の前に頭をたれ、悔改める。ナタンはダビデに赦しを伝える「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」(13―14節)。
悔改める時、罪は許される。しかし、罪は許されても罪の事実は残り、誰かが贖わなければならない。子は死ぬ。私たちは思う、この子に何の罪があったのか。罪を犯したのは父ダビデと母バテシバではないのか。しかし、誰かが贖わなくてはならない。生まれてくる子は贖いのために死ぬ。私たちの場合もそうだ。私たちが罪を犯したとき、悔改めれば許される。しかし、罪は罪として誰かが贖わなければならない。聖書はその贖いのためにイエス・キリストが十字架につかれたと記す。私たちの許しはイエス・キリストの血によって贖われた高価な許し、代価を払って買い取られた許しなのである。このことを知るとき、私たちの人生は変る。赦された生を生き始める。
・ダビデは罪を赦された。しかし、負債は支払わなければならない。ナタンの預言どおりの出来事が起こった。ナタンは次のように預言している(サムエル下12:11−12)。
「主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」。
・ダビデは多くの妻を持ち、子供たちに恵まれていたが、その子供達は権力をめぐって争い、長男アムノンは異母妹タマルと過ちを犯し(13章)、そのために弟アブサロムに殺される。そのアブサロムは父ダビデに反乱を起こし一時はエルサレムを占領し、ダビデの側女たちを自分のものにする(15章)。11節の預言「あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える」と言う預言がこのような形で実現する。やがてダビデの軍隊はアブサロム軍を破り、アブサロムは死ぬ。ダビデはアブサロムの死を知らされた時、泣いて叫ぶ「私の息子アブサロムよ、私の息子よ、私がおまえに代わって死ねばよかった」(サムエル記下19:1)。私たちは罪のもたらす結果にぞっとする。ダビデがウリヤの妻に欲情を抱き、床に招くという罪を犯すことによって、ウリヤが死に、バテシバの子が死に、アムノンが死に、アブサロムまで死んだ。正に罪は死を招く出来事である。
・しかし、主はダビデを祝福された。罪を犯した後のダビデはそれ以前のダビデに比し、この世的には苦難の多い生涯に入ったが、信仰的には前よりも自由と平安の人になった。それはもはや己の義に頼む心が全く砕かれ、「赦されし罪人」としての自覚を持って、ただ神の憐れみの中に生きる謙遜が与えられたのである。この時、私たちは知る。罪を犯したものは神の裁きを受けるが、その裁き、人間の側からすれば苦難を通して神は私たちを祝福されることを。苦難を通して私たちは神を求める者に変えられていく。
・水野源三という詩人がいる。小さい時の病気が元で、生涯寝たきりの人生を送った人だ。彼の詩に「脳性まひなって30年」という詩がある。「33年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」。ダビデは罪を犯し、その罪のために多くのものを失い、苦しんだ。その苦しみを通して彼は清められ、救われていく。
・キリストを信じるものとそうでない人は何が違うか。ともに罪を犯す。キリスト者は罪を犯した時、それを神に指摘され、裁かれ、苦しむ。その苦しみを通して神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができる。信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとする、「その男が私である」と認めることが出来ない。そのため、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されない。罪の償いが何時までも出来ないから平安が得られない。私たちが救われるということは、死んだら天国に行くかどうかではなく、今現在、私たちが神の平安の中にいるかどうかということである。自分が赦された罪人であることを知るものはその生を変えられる。「その男はあなただ」と言う指摘に対して「私こそその男です」と悔改めた時、神の祝福が始まることを旧約聖書は繰り返し、私たちに伝える。

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