1.アブラハムとサラの不信仰
・新約聖書は、アブラハムは信仰の父であり、サラは信仰の母であると誉め称える。それは、アブラハムが100歳になり、サラが90歳になって、もう子を持つことが出来ない状況に置かれたにも拘わらず、二人は「子を与える」との神の約束を信じ続けたからである。先週、私達はヘブル書11章を読んだが、その中には次のような記述がある。「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。」(ヘブル11:11)。またパウロもアブラハムとサラの信仰を誉めている。「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。・・・すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。」(ローマ4:18-21)。
・ところが、アブラハムとサラの出来事を記している創世記の記事を読むと、アブラハムとサラは、本当に約束を信じ続けたのだろうかと疑わせるような記述がある。それが今日読む創世記18章の記事である。今日は、この創世記18章を基に、私たちは「不可能を可能にする神」を信じ続けることが出来るのかを考えて見たい。これは私たちにとって大事なことである。私達は神が私たちを救うために一人子キリストを遣わされたと信じ、今、キリストの生誕を待ち望む待降節の中にある。これが真実の出来事であると私達は信じているが、証明することは出来ない。それを証明するのは、私たちが不可能を可能とする神の約束を信じて生きるかどうか、私たちの生き様である。私たちは、本当に信じているのかが、この問題を通して問われている。
・創世記18章は、アブラハムがマムレにある樫の木のところにいる時、主の使いがアブラハムに現れたと始める(18:1-2)。砂漠の地では、旅人があれば、丁寧にもてなすのが礼儀である。アブラハムも旅人をもてなす為に立ち上がった。サラに命じてパンを焼かせ、自らは子牛を選んで召使に調理させた。そして、牛の乳を持ってこさせ、旅人をもてなした。アブラハムがかいがいしく食事の給仕をしていた時、旅人の一人が言った。「来年の春、私はかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」(18:10)。
・子を与えるという約束はこれまでも何度も繰り返し、為されていた。しかし、実現しないうちに、アブラハムは100歳に、妻サラは90歳になっていた。いまさら子を与えると言われても信じることは出来ない。創世記18章10-12節は、サラが信じなかったと明記している。「サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。アブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った、わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。サラは信じなかった。これはサラだけでなく、アブラハムもそうであった。前に主の使いが同じような預言をした時に、アブラハムもまた、信じなかったと聖書は記す。「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」(創世記17:17)。
・100歳の夫と90歳の妻にどうして子が生れようか、ましてや妻のサラは子を産むことが出来ない不妊の女ではないか。だから彼らは人間の智恵に従って、神の約束を自分たちで先取りしていた。サラは自分に子が出来ないことを知ると、後継ぎを得るために使え女のハガルをアブラハムの寝所に入れ、彼女を通して子イシマエルを得ていた(創世記16:1-2)。
・二人が信じることが出来なかったのは、人間的には当然である。しかし主は言われた「神に不可能なことがあろうか」(18:4)。やがて、神の言葉通り、サラに子が与えられた。サラは喜び、子をイサク(=笑い、神は私に笑いを与えてくださった)と名づけた(21:6)。
・創世記はアブラハムとサラが、神の約束を信じることが出来なかったことを隠さない。人間は、絶望的な状況に置かれた時、それでも約束を信じ続けることはできないのだ。アブラハムとサラが「神には出来ないことはない」と信じるに到ったのは、子が与えられてからであることを、私たちはよく覚える必要がある。
2.信仰とは、不可能を可能にする方を信じることである。
・聖書は、人間の理性では信じることの出来ない様々の出来事が起こったと告げている。ヨハネ福音書にあるラザロの復活もそうだ。復活の前に、イエスはラザロの姉妹マルタに言われた。今日の招詞の個所(ヨハネ11:25-26)がそうである。「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
・マルタはイエスの言葉を信じていない。27節には「はい、主よ」と信じたように書いてあるが、実際には信じていない。物語の先のほうを見ると、それがわかる。イエスがラザロの墓に行き、石をどけよと言われたときにマルタは答えた。「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」(ヨハネ11:39)。マルタは兄弟ラザロが死んだが、イエスの力によって生き返るとは信じていないのだ。だから墓の蓋を開けることを拒否したのだ。誰が、死んだものが生き返るなどと信じることが出来ようか。しかし、ラザロは復活した。マルタが、イエスは神の子であり、神は不可能を可能とされる方であることを信じたのはこの時、ラザロの復活を見てからだ。
・人間は不信仰である。神に出来ないことはないと概念的に知っていても、周囲の情況から全く望みがないと思われる時に、これを信じることが出来ない。しかし、信じることの出来ない人間に恵みが与えられ、人は信じることのできるものとされて行く。アブラハムとサラは、不可能な情況の中で子イサクを与えられた。その時、二人は神に出来ないことはないと信じることが出来た。やがてアブラハムは、子イサクを燔祭のいけにえとして献げる事を要求される(創世記22章)。約束として与えられた子を、焼いて献げよと試される。しかし、この時、アブラハムの心にはためらいはなかった。不可能を可能にする神の業を見た以上、今度も最善をしてくださる神を信じることが出来た。アブラハムはイサクを献げ、イサクは生きて戻された。ここに、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる根拠がある。彼は見ずに信じたのではなく、一度神の業を見せていただいたから、信じる者とされたのである。
・信仰とは信じることの出来ない不合理なことを、理性を殺して信じることではない。「ただ、信ぜよ」というのは本当の信仰ではない。信仰は、自分が不信仰であることを知らされることから、始まる。信じることの出来ない人間に恵みが与えられ、そこから信仰が始まる。人間は信仰するから救われるのではなく、救われたから信じるのである。そして私たちも、アブラハムやサラやマルタのような恵みの体験、回心体験をした。神の業を見せていただいた。だから信じるのである。
3.この信仰の与えるもの
・今、私達は信仰を与えられて、ここにいる。何のために、更に恵みをいただく為か、違う。多くの人たちは言う「教会に行ってもつまらない。喜びもないし、満たしもない」。自分の満足を求めて教会に来ても、満たされることは少ないのではないかと思える。教会はそんな場所ではないからだ。教会は信仰を与えられたものが、神から言葉を与えられ、その言葉を持って世に出て行くための場所であり、そのために私達は集められている。教会の第一の使命は伝道である。私たちが恵みをいただいたから、まだ神の恵みを知らない人に、恵みを伝えるために、それに相応しいものとされる為に、集められている。私達は福音を、キリストの十字架と復活を宣べ伝えるために、召されている。何故ならば、ある時私たちも人生の苦難を負い、何の希望も持てない時に、キリストの十字架を見る事を許され、神が私のために一人子を十字架につけられたことを知って、絶望から甦ったことがあるからである。アブラハムとサラが子イサクの誕生を見、マルタが兄弟ラザロの復活を見たように、私たちもまたキリストの十字架と復活を自分の出来事として見た。だからここにいるのである。
・先週、私達は篠崎教会の33周年を祝った。33年の間に多くの苦労があった。それには感謝したい。しかし、私達は教会の現状に満足することが出来ない。私たちは思う、この篠崎の地は伝道の困難な地なのだろうか。多くの人がこの教会に来て御言葉を聞いた、そしてバプテスマを受けた。それにも拘わらず、この教会に残っている人は少ない。マタイ13章5-6節が述べるような石地なのだろうか(ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。)。この教会は今、試練の中にある。私たちは「この会堂が主を讃美する人で満たされ、喜んで御言葉に聞き、伝えるために出て行く時が来る」という約束を与えられている。しかし、何時その約束が成就するのか、今は見えないからだ。創世記に従えば、一人子イサクを与えられた後で、その子を献げよと命じられたアブラハムと同じ情況の中にある。何故、このような命令が与えられるのか、どのようにしてイサクが再び戻されるのか、アブラハムは知らない。彼は知らなくとも導きに従って歩み、イサクを生きて戻された。一度、不可能を可能とする神の業を見た。今、再び不可能と思えることがらが命じられている。あなたはどうするのか、あなたは約束を信じ続けるのか。「この教会の会堂が主を讃美する人で満たされ、座ることも出来ない」、そのような日が来ると約束されている。その日が一日も早く来るように、ご一緒に約束を信じ続けたいと思う。