1.イザヤ40章―慰めの知らせ
・イザヤ書は66章から構成されるが、40章から新しい物語が語られる。物語の背景は紀元前6世紀のバビロンである。
・紀元前587年、イスラエルはバビロニア帝国に国を滅ぼされ、主だった人々はその首都バビロンに連れて行かれた。いわゆるバビロン捕囚である。エルサレムは火に焼かれ、信仰の中心であった神殿も破壊された。人々はぼうぜんとしてたたずんでいる。この時の人々の気持ちは、1945年の東京大空襲の後、一面の焼け野原をぼうぜんと見つめる私たちの両親世代と同じ気持ちだったかもしれない。しかし、イスラエルの絶望はもっと深かった。彼らは国を亡くし、故郷を亡くし、そして神を亡くした。
・その亡国の民にたいし、イスラエル本国ではエレミヤが預言者として立てられ、捕囚地のバビロンではエゼキエルが立てられて、民に呼びかけた。「これはあなたたちの不従順に対する神の審きである。しかし、あなたたちが悔改めれば、神はあなたたちを許され、再びエルサレムに戻されるだろう」と言う慰めを彼らは語った。
・それから50年の月日が流れた紀元前540年ごろに、このイザヤ40章の預言が語られている。エルサレムの町は廃墟と化し、捕囚で連れて来られた人々の大半は死に、生き残っているものは高齢になってしまった。もう、誰もエルサレム帰還を約束したエレミヤやエゼキエルの預言を覚えているものはいない。そのような捕囚民の一人であった預言者に神の言葉が臨んだ(イザヤ40:1−2)。「あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、その咎はすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を/主の手から受けた」。
服役の時、捕囚の時は終った、時が満ちた、エルサレムに帰る時が来たと神は言われる。
・3節以下で、エルサレムへの帰還が語られる(イザヤ40:3−5)。
「 呼ばわる者の声がする、荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
・バビロンからエルサレムまで、何千キロもの荒野や砂漠を経て、帰還する道が開かれた。神が山を低くし、谷を高くし、道を整えられる。50年の沈黙を破って神が再び語られた。それがイザヤ40章の預言である。
2.帰還の約束を信じることの出来ない預言者
・しかし、語られた預言者自身が、自分の聞いたのは、本当に神の言葉かどうか確信が持てないでいる。彼は6節で言う。「 声が聞える、呼ばわれ。わたしは言った、なんと呼ばわりましょうか」。いまさら民に何を言えばよいのか。民は皆、将来に対する希望など無くしている。それは主よ、あなたのせいではないかと預言者は言う。その言葉が7節にある。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。」。
・「主よ、あなたが民を砕かれた。あなたがエルサレムを廃墟にされ、民を遠いこのバビロンまで連れて来られた。そして50年もの間、あなたは私たちを放置された」。あなたは、私たちの嘆きの声を聞かれなかった。「 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお隠れになるのですか。あなたの怒りはいつまで火のように燃えるのですか。」(詩篇89:46)。「主の息が吹いたから、草は枯れ、花はしぼんだ」(40:7)ではないのか。
・私たちも苦しみ、悲しみに圧倒された時、神が見えなくなる。神などいないのではないかと信仰が揺さぶられる時がある。この預言者も同じ思いに苦しんだ。神の沈黙ほど信仰者にとって、恐ろしいものはない。しかし、神はその預言者をねじ伏せて神の言葉を語らせる。8節がそうだ。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は/とこしえに変ることはない」(イザヤ40:8)。
3.よき知らせの告知
・神の言葉は続く(40:9−10)。
「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、あなたがたの神を見よと。見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。」
・解放の時が来た。良き訪れ、福音を伝えるものは高い山に登って呼ばわれと神が言われる。
・イスラエルの民は、彼等を通して諸国民が救われるために、神により選ばれた。申命記7:7−8は言う。「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。」
・しかし、イスラエルの民は、約束の地を与えられ、豊かになると言い始めた。「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た」(申命記8:17)と。神は預言者を通じて繰り返し、彼等に警告された。「主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう。」(申命記8:18−19)。
・私たちも順調な時には神を忘れる。「私は自分の力で学び、自分の力でこの職を得た。そして、自分の働きで食べている。私は誰の世話にもなっていない」。人が神を忘れる時、隣人も忘れる。私たちは失敗した人をみて言う「彼は努力しなかった。だから失敗して当然だ」。私たちが恵みに感謝することを忘れ、傲慢になった時、神は私たちを裁かれる。この裁き、苦しみを通して、私たちは神がおられ、神によって生かされていることを知らされる。イスラエルの民にとって、この捕囚は苦しく、つらいものであった。
・この捕囚の体験は、イスラエルの民の信仰に決定的な影響を与えた。神は何故、選ばれた私たちを捨てられたのか、何故その都と定められたエルサレムを滅ぼされたのか、彼らは父祖からの伝承を読み直し、まとめ直していった。旧約聖書の主要部分、創世記や申命記や預言書等は、この時代に編集されたと言われている。民が砕かれ、悔改めた時に、旧約聖書が書かれた。そして今、試練の時、苦しみ時は終わり、慰めの時が来たことを民は告げられる(イザヤ40:11)。「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」
・この教会も無牧の2年間、苦しい時を過ごされたと聞いた。会堂にあふれていた人も一人去り、二人去っていった。しかし、主は残るものを与えられた。イザヤ40章は、全ての苦しみは主の業であることを告げる。そして主の業は常に祝福のために与えられる。苦しみは祝福を受けるための準備の時である。新しく生まれ変わるためには一度死ななければならない。イスラエルの民が捕囚の苦しみの中で神の民とされていったように、教会も苦しみを通して神の民とされていく。そして聖書は言う「服役の時は終った。慰めの時が来た。主が牧者となって、あなたたちを飼われ、導かれる」。
4.慰めの訪れだけでは十分ではない
・この預言の1年後、時代が動く。紀元前539年、バビロニアは新興のペルシャに滅ぼされ、ペルシャ王クロスは捕囚民を解放する。今や、エルサレム帰還の道は開けた。しかし、それだけでは十分ではない。人が変えられない限り、新しく生まれ変わらない限り、人々はエルサレムに戻っても同じ過ちを繰り返すだろう。主は人の心を作り変えることを決心された。私たちは、その言葉をエレミヤ書31:31−33に見る(旧約1100P)。
「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。」
・神はその律法を私たちの心に書かれる。石や紙にではなく、直接に私たちの心に書かれる。その日が来る。苦難の後には祝福が来る。
・昔から、人々はこのイザヤ40章を、アドベント(待降節)の第二主日に聞いてきた(聖書日課)。そして、今年の待降節第二主日は今日12月9日である。暗い夜に光が来る。それを待ち望む時が待降節である。暗い夜に光が来る。光は必ず来る、イザヤ40章はそれを約束する神の言葉である。神は、この言葉を、バビロンの地で希望を失っていた人々に語られた。そして2500年経った今、私たちもこの言葉を希望のメッセージとして聞く。