- はじめに
・おはようございます。民数記2週目です。旧約聖書・民数記11章は、荒野を旅するイスラエルの民が直面した試練と、神の応答、そして指導者モーセの苦悩を描き出しています。荒野での道のりは、単に地理的な移動ではなく、約束の地を目指して歩む信仰の旅そのものでした。同時に人間としての弱さや限界が露わになる、厳しい日々の連続でもありました。神の不思議な導きと守りを体験しながらも、民は困難や不安に直面し、そのたびに揺れ動く心を抱えて歩みを続けます。
・現代に生きる私たちもまた、人生という「荒野」を歩む中で、同じような不満や葛藤、そして祈りと神の応答という日々を繰り返しています。民数記11章の物語を通して、神の応答とモーセのつぶやきに現れる信仰の本質に迫り、現代に生きる私たちへのメッセージを聖書から聴いていきたいと思います。この物語は決して過去に起こった出来事だけではなく、現代社会に生きる私たち自身の姿とも重なり合っていると感じるからです。
・民の不満・欲望は、「肉がほしい」でした。
・イスラエルの民は、長い奴隷生活から解放され、エジプト脱出という奇跡的な出来事を経験し、神の導きのもとで荒野を進んでいました。しかし、やがて彼らの心にはさまざまな不満が芽生えはじめます。民は「誰か肉を食べさせてくれないものか。」と繰り返し訴え、エジプトでの食生活を懐かしみ、マナという天から与えられた糧にも飽き足りなさを感じるようになります(11:4)。エジプトでは魚やきゅうりやメロン、にら、葱や玉葱やにんにくを好きなだけ食べていた。という記憶が美化されて語られています(11:5)。これは単なる食欲や物質的な欲求を超え、心の根深い部分にある渇きや不安、過去への執着の現れとも言えるのです。
・民は、過去を美化し、今与えられている神の恵みを当たり前のように受け止め、感謝の心を忘れてしまいました。神の民となるべく特別に選ばれ、日々守られ養われていたにもかかわらず、困難や苦しみに直面するとすぐに不満を口にし、自分中心の要求を繰り返すようになります。この姿は、信仰の民として本来あるべき「神への信頼」と「感謝」から離れてしまった状態とも言えるでしょう。
・これは現代の私たちにも通じる姿ではないでしょうか。困難な状況に置かれると、つい今ある恵みを見失い、過去の良かったことや他人の状況と自分を見比べてしまいがちです。
(現代の不満、足りなさへの執着)
・現代社会に生きる私たちは、かつてないほど物質的に豊かになった一方で、「もっと欲しい」「まだ足りない」と感じることが多くなっています。SNSやメディアを通して他人の生活が鮮明に見える時代、他者と自分を比較し、取り残されたような気持ちや焦燥感に悩まされることが少なくありません。本来は充分に与えられているにもかかわらず、「もっと」「まだ」と欲望が次々に生まれ、心が満たされないまま不平や不満が増幅していく姿、これはイスラエルの民の姿とまさに重なります。
・神から与えられているさまざまな恵みや日々の糧に心から感謝することの大切さを、私たちは改めて思い起こす必要があります。現代の「荒野」を歩む中で、神との関係を見失わず、今与えられているものを数え、感謝と信頼の心を養っていくことが、信仰者としての歩みにつながるのではないでしょうか。
・そんな私たちの心情に重なるように、竹内まりやの「幸せのものさし」の一節が静かに響いてきます。
“今あるものを数えなさい、ないものを数えないで
自分がたくさん持っていると気づくはず…”
他人や過去の自分と比べてしまうことで、今与えられている幸せを見失いがちな私たちの日常を、この歌はやさしく見つめ直してくれます。自分自身の「ものさし」で幸せを測ることの大切さを、あらためて心に刻みながら、信仰と感謝の視点を持って歩んでいきたいと聴きながら、歌いながら感じています。
2.モーセのつぶやき、指導者の孤独と限界
・民の不満は、指導者モーセにとって耐えがたい重荷となりました。彼は神に向かって、
「 わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。」と率直に心情を吐露しています(11:14)。民の数は非常に多く、日々寄せられる訴えや不平は尽きることがありません。モーセは民の訴えを一つひとつ受け止め、彼らの苦しみや願いを神の前に持ち出しますが、その責任感の重圧は想像を絶するものでした。ついには「 どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。」とまで神に願い出るほど、彼の心は疲弊しきっていました(11:15)。
このモーセの姿は、ただの歴史上の人物のエピソードではなく、私たち現代を生きる者にも深い共感を呼び起こします。指導者として、あるいは誰かを支える立場にあるとき、自分ひとりでは背負いきれない課題や期待の重さに押しつぶされそうになることがあります。家族のため、会社組織やグループのために努力し続ける中で、限界を感じたり、孤独に陥ったりすることも珍しくないからです。
しかし、ここで注目すべきは、モーセがその弱さを隠すのではなく、正直に神に打ち明けている点です。彼は自分の限界を認め、助けを求める勇気を持っていました。信仰者であっても、リーダーであっても、常に強くある必要はありません。むしろ神の前に弱さやつまずきをさらけ出すことで、本当の力と慰め、そして支えを得ることが出来るのです。
・現代のリーダーシップは、「一人で背負わない」勇気が必要です。
・現代社会においても、家庭や職場、教会、地域社会など、さまざまな場所でリーダー的役割を果たす人がいます。理想と現実のギャップに悩み、プレッシャーや責任に押しつぶされそうになることもあるでしょう。時には自分の弱さを見せたり、周囲に助けを求めたりすることに、ためらいを感じるかもしれません。しかし、モーセの姿から学ぶべきは、弱さを認めること、助けを求めることは決して恥ずかしいことではなく、むしろ成熟した信仰や人間性の証であるということです。
私たちもまた、困難な状況に置かれたときには、自分だけですべてを背負い込もうとするのではなく、神に祈り、時には信頼できる仲間や家族、コミュニティに助けを求める大切さを思い出したいと思います。信仰の歩みも、人生の歩みも決して「孤独な旅路」ではありません。神と共に、また分かち合い励まし合う仲間たちと共に歩むことで、重荷は分散され、希望と力が新たに与えられるのです。
このように、モーセの苦悩と祈りは、現代に生きる私たちにとっても、力強い励ましと気づきをもたらしてくれます。
3.神の応答、怒りと憐れみの間で
・神は民の不満に直面したとき、ただ沈黙するのではなく、明確な反応を示しました(11:1、11:10)。イスラエルの民が繰り返し不平を訴え、満たされぬ欲望をぶつけたとき、神の怒りは燃え上がりました。しかし、神は単に怒りをもって人々を突き放すのではありません。同時に、深い憐れみと配慮をもって、彼らの弱さや限界を理解し、応答されます。
・民数記11章の16節以下で、まず、モーセの重すぎる責任感と限界の訴えに応じて、神は70人の長老を選び出し、彼らにも神の霊を分け与えるという具体的な救済策を示されます(11:16-17)。これによって、指導という重荷がモーセ一人に集中するのではなく、共同体全体で分担できる体制が整えられます。モーセの孤独や絶望に対して、神は「共に担う仲間」を与えることで励ましと支えを与えられるのです。
さらに、民が「肉を食べたい」と叫び続けたことに対しても、神はその願いに応え、うずらを大量に与えます(11:18-20、11:31-34)。しかし、これは単なるご褒美ではありません。むしろ、神の意図は、民の欲望が本当に彼らを満たすものではないこと、そして欲に溺れることの危険性を身をもって体験させることでした。民は望んだ肉を手に入れますが、その結果、疫病が起こり、苦しみを味わうことになるのです。神の応答は一見厳しくも見えますが、そこには人間の本質や限界を見つめ直させるための深い愛情と教育的配慮が含まれているのです。
・現代の神理解、応答の多様性と成長への招き
・私たちの日常生活でも、願いや祈りが思い通りに叶わないとき、神の沈黙や警告を「拒絶」と感じてしまうことがあるかもしれません。しかし、神の応答は単純な「イエス」や「ノー」ではなく、時に私たちが内面の成長や本質的な気づきを得るためのプロセスでもあるのです。あえて望みを叶えたり、逆に満たさなかったりする中で、私たちは本当の幸せや信仰の成熟とは何かを学ばされます。神の怒りや警告は、私たちを突き放すものではなく、より深い愛と導きの現れです。その中で私たちは、痛みや喜びを通して神との絆を深め、共に歩む道を新たにしていくのです。
このように、神の応答は単なる罰や報酬ではなく、私たち一人ひとりの成長と共同体の成熟を目指す愛の表現なのです。苦難や試練の中にあっても、神は見捨てることなく、さまざまな形で支えと導きを与えてくださっていることを、心に刻みたいと思います。
4.共同体としての信仰、分かち合いと支え合い
・次に、共同体としての信仰、分かち合いと支え合いについて掘り下げて考えたいと思います。先にお話しした様に、神はモーセの負担を軽くするために、70人の長老を選び、彼らにもご自身の霊を分け与えます。これにより、指導という重く困難な責任がモーセ一人に集中せず、共同体全体で担う体制が整えられます。これは信仰における大切な原則を示しています。すなわち、信仰の道は「孤独な戦い」ではなく、「共に歩む」ことでより強く、より豊かになるということです。人は弱さや限界を持つ存在だからこそ、助け合い、支え合う仲間の存在が大きな励ましとなります。
現代社会への応用として、この知恵はあらゆる場面で活かすことができます。私たちは職場や家庭、教会や地域社会など、さまざまな共同体に属していますが、すべてを自分一人で抱え込んでしまうことがあります。しかし、信頼できる仲間と課題や責任を分担し、互いの弱さや悩みを正直に分かち合うことで、気持ちが軽くなり、前向きな力が湧いてきます。これは決して弱さの現れではなく、成熟した信仰と人間性の証です。時にプライドや不安から「自分だけで頑張らなければ」と思い込むこともありますが、実際には他者のサポートを受け入れ、共に苦楽を分かち合うことこそが、共同体の本来の姿なのです。
また、民数記11章4節には「民に加わっていた雑多な他国人」が言及されており、彼らもイスラエルの旅に同行していました。
招詞に出エジプト記12章38節を選びました。皆さんと一緒にお読みしたいと思います。
―出12:38「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。」
・この「種々雑多な人々」が「民に加わっていた雑多な他国人」であり、雑多な他国人たちの存在は、共同体の中に新しい価値観や欲望が流れ込むきっかけとなり、不平や混乱の原因となることもありました。彼らが肉を求めて不満を言い始めたことで、イスラエルの民の間にも動揺が広がり、集団全体の一致が揺らぐ場面が描かれています。
こうした記述は、現代社会が直面している多様性の課題にも通じるところがあります。異なる背景や価値観を持つ人々が共に暮らす中で、時に意見や欲求の違いから摩擦や混乱が生じることがあります。しかし、そのような状況こそ、助け合いと分かち合い、対話と信頼を通じて、より強固で豊かな共同体を築くための機会(チャンス)と捉えることが大切です。共通の目的や価値観を見失わず、必要に応じてルールや役割を明確にし、協力して問題を解決していくことが求められます。多様性を受け入れながらも、互いの違いを尊重し、支え合う姿勢こそが、信仰共同体における成熟の証と言えるでしょう。
このように、民数記11章から学ぶ「共同体としての信仰」は、単なる理想論ではなく、現実社会で活かせる具体的な知恵と実践の源です。信仰の道を孤立して歩むのではなく、支え合い、励まし合いながら、ともに成長を目指すという姿勢を、日々の生活の中で大切にしていきたいと思います。
5.結論、荒野の旅を共に歩む信仰
・民数記11章は、イスラエルの民の不満、モーセのつぶやき、そして神の応答という三つの視点から、信仰の本質と共同体の在り方を問いかけています。私たちは日々の暮らしの中で、思い通りにならない現実や、自身の無力さ、また多くの課題に直面し、心が揺れ動く瞬間を何度も経験するでしょう。しかし、そのようなときにも神はすべてを見通し、時に厳しく、時に柔らかく、私たちを導いてくださる存在であると記されています。
民数記11章の物語を通して、私たちは感謝と不満、信頼と疑い、孤独とつながり、そうした心の葛藤を自らの人生の中にも見出します。信仰における共同体とは、互いの重荷を担い合い、助け合いながら、荒野の旅を共に歩む存在です。決して孤立して戦うのではなく、共に歩むからこそ、困難を乗り越え、希望を持つことができるのです。
・では、ここで実際の生活の中で私たちがどのように信仰を実践していけるか、少し分かち合いたいと思います。
まず、日々の暮らしで与えられている小さな恵みにも意識を向けて、感謝する気持ちを大切にします。そして、自分の弱さや限界を素直に認めて、神さまや信頼できる仲間に心を開くことも大事です。私たちは一人で全てを背負い込む必要はありません。困ったときは、周囲の人と助け合ったり、思いを分かち合ったりして、重荷を抱え込まないようにすることです。
また、祈りや内省の時間を持つことで、自分の「こうありたい」という思いだけでなく、神さまのご計画にも耳を傾けていき。そして、神さまの応答が時に厳しく感じられるときも、その中に愛や成長の機会が隠されていることを見出せるよう、心を整えていきたいと思います。
・結論:混乱をくぐりぬけて見出す現代的な価値
・現代社会は、情報や価値観が多様化し、時に何が正しいのか分からなくなるほどの混乱や摩擦に満ちています。人々は自分自身や他者との違いに戸惑い、孤独や不安を抱えることも少なくありません。そんな時代だからこそ、民数記11章の「共に歩む」知恵が私たちに大きな示唆を与えてくれます。
混乱の中にいるからこそ、私たちは他者と手を取り合い、分かち合い、支え合う価値の大切さを学ぶことができます。多様な意見や背景を持つ人々が集う共同体の中で、衝突や摩擦を恐れずに対話を重ねることで、より深い理解や信頼が育まれます。混乱をくぐりぬける過程こそが、人を成熟させ、社会を豊かにする原動力となるのです。
・信仰共同体だけでなく、職場や家庭、地域社会でも、この原則は生きています。個々人が完璧である必要はなく、互いの弱さや悩みを受け入れ合い、協力し合うことで、誰もが安心して自分らしく生きられる環境が生まれます。時に衝突や誤解があっても、それを乗り越えようとする意志と対話の積み重ねが、現代社会における最も価値ある財産と言えます。
民数記11章のメッセージを手がかりに、私たちもまた迷いや混乱を恐れず、助け合いと分かち合いの精神をもって、ともに前進していきたいと思います。混乱をくぐりぬける過程こそが、希望と創造力に満ちた新しい時代を切り拓く力となると信じます。
・信頼できる仲間と支え合うことで、混乱をくぐりぬけて、多様性と向き合う豊かな共同体を築く協力と分担の知恵が私たちの教会にも求められているのです。
・同じように、混乱をくぐりぬけて、イスラエルファーストではなく、「共に歩む」ことが今まさに強く求められているのです。
祈り
共に歩む恵みに感謝し、多様な価値観の中で気づく神の応答と愛を覚えて祈ります。
恵み深い真の生命の神さま、
私たちが日々抱える不平や不満の声を、あなたは静かに、
しかし確かに受け止めてくださることに心から感謝いたします。
時に私たちは自分の望みや期待が叶わないことで悩み、
心の奥底で愚痴や嘆きをこぼしてしまいますが、そのすべてを否定せず、
むしろ愛と忍耐をもって応えてくださるあなたのご配慮に、頭を深く垂れます。
私たちが気づかぬうちにも、あなたは必要なものを備え、
時には厳しさを通して成長への道を示してくださいます。
その応答の中に、あなたの深い愛と知恵が隠されていることを思い起こさせてください。
また、私たちの周りには、異なる背景や価値観を持つ多くの人々が共に暮らしています。
文化や考え方の違いに戸惑う時もありますが、そうした多様性の中でこそ、
分かち合い、学び合い、互いを豊かにし合う恵みがあることに感謝します。
あなたが与えてくださった「共に歩む」共同体の中で、私たち一人一人が自分らしく、
そして他者を受け入れ、理解しようとする心を育ててください。
どうか私たちが、困難や摩擦を恐れず、助け合いと赦し、対話と共感の精神を大切にし、
希望と平和をつなぐ存在となれますように。
あなたの寛容と慈しみに支えられて、今日も新たな一歩を踏み出すことができますように。
感謝と願いをこめて。
主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。