江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年8月9日「ヨナタンとダビデ」サムエル記上20章20~42節(参照20章1~23節)

投稿日:

【招詞】

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

(ヨハネ15:13・新共同訳)

 

【第一部】真実を知る勇気――神を信頼して立つ人

 

皆さんは、人を信じたいと思いながらも、「本当はどうなのだろう」と不安になった経験がおありでしょうか。
「あの人は本当に私の味方なのだろうか。」
「このまま進んで大丈夫なのだろうか。」
「神様は本当に導いておられるのだろうか。」
人生には、先が見えない時があります。
見えないから不安になります。
分からないから恐れます。
そして、その恐れは時として、人を疑わせ、人を傷つけ、あるいは自分自身を追い詰めてしまいます。
今日の聖書に登場するダビデも、まさにそのような状況の中にいました。
サウル王は、最初はダビデを愛し、 自分のそばに置いていました。
しかし、ダビデがゴリアトを倒し、 戦いに勝利するたびに、人々は歌いました。
「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」
この歌が、サウルの心に深い傷を残しました。
人と比べられることによって生まれた嫉妬。
その嫉妬は、やがて恐れとなり、 恐れは憎しみとなり、ついには「殺したい」という思いにまで変わっていきます。
罪とは恐ろしいものです。
最初は小さな心の揺れに過ぎません。
しかし、それを神の前に持って行かず、そのまま抱き続けるなら、罪は人の心を支配していきます。
サウルは王でした。権力もありました。財産もありました。名誉もありました。
けれども神への信頼を失った心は、どれほど多くのものを持っていても満たされません。
一方、ダビデは何も持っていません。
王でもありません。軍隊もありません。家さえ失おうとしています。
それでも彼には神がおられました。
しかし、そのダビデにも一つだけ分からないことがありました。
「なぜサウルは私を殺そうとするのか。」
彼はヨナタンに言います。
「わたしが何をしたのでしょう。お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、わたしの命をねらわれるのでしょうか。」(20章1節)
この言葉には、深い苦しみがあります。
理由が分からない苦しみです。
私たちも経験することがあります。
一生懸命やった。
誠実に生きた。
それなのに誤解される。
非難される。
距離を置かれる。
その時、人は 「どうしてですか」 と神にも問いかけたくなります。
ダビデもそうでした。
だから彼は、自分一人で判断しませんでした。
ヨナタンのところへ行きます。
ここが信仰者の姿なのです。
苦しみを一人で抱え込まない。
信頼できる兄弟姉妹に打ち明ける。
共に祈ってもらう。
神は教会を、そのために備えてくださいました。
ヨナタンもまた、すぐには信じられませんでした。
「父がそんなことをするはずがない。」
そう思っていました。
しかし彼は、自分の思い込みではなく、事実を確かめようとします。
ここにも信仰があります。

信仰とは、自分の願いを信じることではありません。
神が示される真実を受け入れることです。
二人は新月祭の日を利用し、サウルの本心を確かめる計画を立てます。
そして今日の箇所では、その約束の日がやってきます。
ヨナタンは少年を連れて野へ出ます。
弓を引きます。
一本。二本。三本。
ただ矢を放っているだけのように見えます。
少年には遊びにしか見えません。
しかしダビデにとっては命を左右する合図でした。
「矢はこちら側だ。」
それなら安全。
「矢はもっと向こうだ。」
それなら逃げなさい。
なんと静かなやり取りでしょう。
派手な奇跡はありません。
天から火も降りません。
天使も現れません。
ただ一本の矢。ただ一言の言葉。
しかし、その小さな出来事の中に神の導きがありました。
私たちは、神の導きというと、大きな奇跡を期待することがあります。
しかし神は、多くの場合、小さな出来事を通して私たちを導かれます。
聖書の一節が心に残る。
礼拝の説教の一言が忘れられない。
誰かの励ましの言葉が胸に響く。
何気なく読んだ御言葉が、その日一日の支えになる。
それは偶然ではありません。
神が私たちを導いておられるのです。
だから私たちは、大きな奇跡だけを求めるのではなく、日々の小さな恵みに目を留めたいのです。
ヨナタンは、危険を承知で真実を伝えました。
父を恐れるより、神の前に誠実であることを選びました。
そしてダビデも、その合図を見て神の導きを受け止めました。
信仰とは、未来が全部見えることではありません。
次の一歩を神に委ねて踏み出すことです。
今日、私たちの人生にも、まだ見えないことがあります。
将来への不安。家族のこと。健康のこと。仕事のこと。教会のこと。
けれども、見えないからといって、神がおられないわけではありません。
見えない時にも、神は静かに矢を放ち、私たちを正しい道へ導いておられます。
その小さな導きを聞き逃さない耳を持つ者でありたいと思います。

 

【第二部】 友情とは神の前に立つこと――契約に生きる友

 

第一部では、ヨナタンが放った三本の矢によって、ダビデはサウルの心が変わっていないことを知りました。
その合図は、単なる連絡ではありませんでした。
それは、「もう王宮へ戻ることはできない」 という知らせでした。
ダビデは、この時から長い逃亡生活へと入っていきます。
故郷を離れます。家族とも離れます。 妻ミカルとも離れます。
安心して眠る家もありません。
昨日まで当たり前だった生活が、一日で失われてしまうのです。
皆さんも、そのような経験をされたことがあるでしょうか。
昨日まで当たり前だったものが、ある日突然失われる。
病気によって生活が変わる。仕事を失う。大切な人との別れが訪れる。
人生には、自分ではどうすることもできない出来事があります。
ダビデにとって、この日がまさにその日でした。
しかし、この場面を読んでいて心を打たれるのは、「別れ」そのものではありません。
別れの中で示された「友情」の姿です。
少年が町へ帰ると、ヨナタンは一人になります。
するとダビデは、隠れていた場所から出てきました。
聖書はこう記しています。
「従者が帰っていくと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた」(20章41節)
この場面を読むたびに、胸が締めつけられます。
言葉はほとんどありません。
二人は多くを語りません。
抱き合い、涙を流します。
それだけです。
しかし、その沈黙の中に、どれほど深い思いが込められていたことでしょう。
ヨナタンは知っています。
これからダビデがどれほど苦しい道を歩むかを。
ダビデも知っています。
ヨナタンが父サウルのもとへ帰れば、 どれほど複雑な思いを抱えて生きることになるかを。
互いの苦しみを知っているからこそ、 涙が止まらなかったのです。
私たちは、人前では強く見せようとします。
「大丈夫です。」
「心配しないでください。」
そう言いながら、本当は心の中で泣いていることがあります。
けれども、本当に信頼できる人の前では、人は涙を隠しません。
弱さを見せることができます。
聖書は、そのような涙を恥とは考えていません。
主イエスご自身も、ラザロの墓の前で涙を流されました。
ゲツセマネでは「激しい悲しみ」に包まれました。
神は、人が涙を流すことを責められる方ではありません。
むしろ、その涙をご存じのお方です。
だから教会とは、「泣いてはいけない場所」ではありません。
安心して泣くことのできる場所であってほしいのです。
「助けてください。」
「祈ってください。」
そう言える教会であってほしいのです。
もし教会が、「弱さを見せられない場所」になってしまったなら、それは福音の共同体ではありません。
私たちは皆、神の恵みによって立たされている罪人です。
だから互いの弱さを受け止め、共に祈り合うことができるのです。
そして、この場面で最も大切なのは、ヨナタンが最後に語った言葉です。
「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」(20章42節)
ここに、この物語の中心があります。
二人の友情の中心は、「友情」そのものではありません。
中心におられるのは、「主」です。
もし二人が感情だけで結ばれていたなら、この別れで終わっていたでしょう。
「また会おう。」
そう言っても、会える保証はありません。
実際、この後二人が会う機会は一度だけです。
やがてヨナタンは戦場で命を落とします。
しかし、友情は終わりませんでした。
なぜでしょうか。
その友情が、「主の御名による契約」 の上に築かれていたからです。
契約とは、気持ちではありません。
約束です。しかも、人間同士だけの約束ではありません。
神の前で交わす約束です。
だから状況が変わっても、距離が離れても、簡単には壊れません。
今日の時代は、「つながり」は多くあります。
スマートフォンを開けば、何百人という人とつながることができます。
しかし、「つながっていること」と、 「支え合っていること」は違います。
聖書が語る友情は、互いに楽しむだけの関係ではありません。
互いを神へ導く関係です。
神から離れそうになったら引き止める。
罪を見たら愛をもって忠告する。
苦しみの中では黙ってそばにいる。
祈りが必要な時には共にひざまずく。
それが聖書の友情です。
皆さんには、そのような友がおられるでしょうか。
そして、皆さん自身が誰かにとって、そのような友となっているでしょうか。
教会は礼拝を守る場所であるだけではありません。
神の家族として生きる場所です。年齢も違います。育った環境も違います。
考え方も違います。
けれども、私たちを一つにしているのは、性格の一致でも、趣味の一致でもありません。
十字架の主イエス・キリストです。
だから教会の交わりは、人間関係では終わりません。
神との交わりの中で育まれる共同体なのです。
ヨナタンは、ダビデを神へ送り出しました。
自分のもとへ引き留めたのではありません。
「安心して行きなさい。」
そう送り出しました。
本当の愛とは、人を自分に結びつけることではありません。
その人を神に委ねることです。
牧師もそうです。親もそうです。友人もそうです。
「私について来なさい」ではなく、 「主に従って行きなさい」と送り出すことができる人こそ、神が喜ばれる友なのです。
どうか私たちの教会も、そのような交わりを育む群れでありたいと願います。
互いを自分に縛るのではなく、互いを主イエスへと導く共同体として歩んでいきたいと思います。

 

【第三部】 自分を手放す愛――神の御心を第一とする信仰

 

ここまで読んできますと、私たちは自然にこう思います。
「もし自分がヨナタンだったら、同じことができただろうか。」
これは簡単なことではありません。
なぜならヨナタンは、ただ友達を助けたのではないからです。
彼は、自分が本来持つはずであったものを手放しているのです。
ヨナタンはサウルの長男でした。
イスラエルでは、長男は父の跡を継ぐ存在です。

父が王なら、次に王になるのは長男です。
誰もがそう思っていました。
ヨナタン自身も、幼い頃からそのように育てられたことでしょう。
武術を学びます。政治を学びます。 民を導くことを学びます。
やがて王になるために歩んできた人生です。
ところが神は、ヨナタンではなくダビデをお選びになりました。
人間の目から見れば、不公平に思えるかもしれません。
「なぜ私ではないのですか。」
そう神に問いかけても不思議ではありません。
けれどもヨナタンは、そのようには考えませんでした。
彼は、自分の人生よりも、神の御心を大切にしたのです。
それは十八章にすでに表れていました。
ヨナタンは、自分の着ていた上着を脱ぎ、武具を渡し、剣も弓も帯もダビデに与えました。
これは単なる友情の贈り物ではありません。
王子としての立場を、自ら差し出すような行為でした。
そして二十章では、その思いがさらに深められています。
ヨナタンは父サウルに向かって言いました。
「ダビデはあなたに罪を犯していません。」
「彼のしたことは、あなたのためにも良いことばかりでした。」
父の怒りを知りながら、それでも真実を語りました。
するとサウルは激しく怒ります。
そして槍を取ってヨナタンに投げつけました。
その槍は、以前ダビデに向けられた槍でした。
今度は息子に向けられたのです。
何という悲しい姿でしょう。
罪は、人の心をここまで壊してしまいます。
王である父が、息子を殺そうとする。
嫉妬は、最も大切な関係さえ壊してしまうのです。
しかし、その場面でもヨナタンは引き下がりませんでした。
父に逆らいたかったからではありません。
ダビデを自分の味方にしたかったからでもありません。
神がダビデを選ばれたことを知っていたからです。
つまりヨナタンは、人ではなく神に従ったのです。
信仰とは、神がおられることを信じるだけではありません。
神の御心を、自分の願いよりも優先することです。
これが、とても難しいのです。
私たちは祈ります。
「神様、御心がなりますように。」
しかし心のどこかでは、
「できれば私の願いどおりになりますように。」
そう思っています。
それが私たちの正直な姿ではないでしょうか。
神が「待ちなさい」と言われても、急ぎたくなります。
神が「それは違う」と言われても、納得できません。
神よりも、自分の計画を信じてしまいます。
だからヨナタンの姿は、私たちに問いかけます。
「あなたは何を一番大切にしていますか。」
王位でしょうか。評価でしょうか。 仕事でしょうか。家族でしょうか。財産でしょうか。
もちろん、それらは大切です。
しかし、それらが神よりも上に置かれるなら、それは偶像になってしまいます。
ヨナタンは、神よりも王位を選びませんでした。
神よりも自分の未来を選びませんでした。
神よりも自分の名誉を選びませんでした。
だからこそ彼は、美しい人として聖書に記されているのです。
そして、このヨナタンの姿を見るとき、私たちはさらに大きなお方を思い起こします。
それは主イエス・キリストです。
主イエスは、天の栄光の座におられました。
すべてのものを支配する神の御子です。
その栄光は、誰にも奪われることのないものでした。
しかし主は、その栄光に固執されませんでした。
人となってこの世に来られました。
貧しい馬小屋でお生まれになりました。
弟子たちの足を洗われました。
人々から誤解され、ののしられ、裏切られ、十字架につけられました。
なぜでしょうか。
私たちを愛しておられたからです。
ヨナタンは、友であるダビデのために自分を危険にさらしました。
しかしイエス様は、それ以上のことをしてくださいました。
罪人である私たちのために、ご自分の命をお捨てになったのです。
だから招詞で読んだ御言葉が心に響きます。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
この言葉は、ヨナタンにも重なります。
しかし何よりも、この御言葉を完全に成し遂げられたのは、主イエス・キリストです。
私たちは、その愛によって生かされています。
だからこそ私たちも、自分だけの利益を求めて生きる者ではなく、主に与えられた人を愛する者へと変えられていきます。
もちろん、それは簡単なことではありません。
自分を捨てることは痛みを伴います。
赦すことも痛みがあります。仕えることも痛みがあります。
しかし、その道を主イエスが先に歩いてくださいました。
そして今も、「恐れるな。わたしが共にいる」と語ってくださいます。
ヨナタンが神を信頼して、自分の人生を神の御手に委ねたように、私たちもまた、自分の思いを握りしめるのではなく、神の御心に信頼して歩む者でありたいと思います。
その先には、自分では得ることのできない神の平安と喜びが備えられているのです。

 

【第四部】 主が私たちの間におられる――別れを越えて結ばれる恵み

 

いよいよ、別れの時がやって来ました。
二人は抱き合い、涙を流し、互いの顔を見つめます。
言いたいことは、まだたくさんあったでしょう。
もっと一緒にいたかったでしょう。
けれども、その時は終わりました。
人生には、自分では止めることのできない別れがあります。
どれほど願っても、時間は戻りません。
私たちも、そのような別れを経験してきました。
愛する家族との別れ。親しい友との別れ。教会から送り出した兄弟姉妹との別れ。
あるいは、死によって引き裂かれる別れ。
別れは、私たちの心を深く痛めます。
だから人は、「別れたくない」と願います。
けれども、聖書は今日、その別れの場面で一つの希望を語っています。
ヨナタンは最後にこう言いました。
「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」サムエル記上20章42節です。
ここでヨナタンは、「また必ず会おう」 とは言いませんでした。
「心配しなくても大丈夫だ」とも言いませんでした。
彼が語ったのは、「主がおられる」ということでした。
これが信仰です。人は離れても、主は離れません。
人との約束は、時として果たせなくなることがあります。
しかし、神は決して御自分の約束を破られることはありません。
だからヨナタンは、ダビデを自分に結びつけるのではなく、神へと委ねました。
「安心して行きなさい。」
その言葉の裏には、
「あなたは一人ではない。」
「主があなたと共におられる。」
という確信がありました。
この言葉は、今日の私たちにも与えられています。
私たちは、自分の力で未来を支えることはできません。
家族を守りたいと思っても、すべてを守ることはできません。
子どもの将来を心配しても、その人生を代わりに歩むことはできません。
教会の歩みを願っても、私たちの力だけで教会を守ることはできません。
だからこそ、私たちは委ねるのです。
「主よ、あなたが共にいてください。」
その祈りこそが、信仰の祈りなのです。
思えば、ダビデの人生は、この後も決して平坦ではありません。
荒れ野をさまよいます。洞窟に身を隠します。裏切られます。
命を狙われ続けます。
ようやく王になってからも、家庭の問題、息子アブサロムの反乱、深い悲しみを経験します。
決して「ハッピーエンド」で終わる人生ではありません。
しかし、一つだけ変わらなかったものがあります。
それは、「主が共におられた」という事実です。
だからダビデは詩編の中で繰り返し歌いました。
「主はわたしの羊飼い。わたしには何も欠けることがない。」
「たとえ死の陰の谷を歩むとしても、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」
ダビデを支えたのは、強い自分ではありませんでした。
共にいてくださる神でした。
そして、その神の約束は、新約においてさらに豊かに示されます。
復活された主イエスは、天に昇られる前、弟子たちに最後の約束を語られました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイによる福音書28章20節)
この約束は、ヨナタンの言葉よりも、さらに確かな約束です。
ヨナタンは共にいたくても、ダビデと別れなければなりませんでした。
しかし主イエスは違います。
主は決して私たちを離れられません。
病の中にも共におられます。孤独の中にも共におられます。
失敗した時にも共におられます。涙の夜にも共におられます。
そして死の向こう側にさえ、共にいてくださいます。
だからクリスチャンは、別れの中にも希望を持つことができます。
教会もまた、この約束によって立っています。
私たちは、それぞれ違う人生を歩んでいます。
年齢も違います。育った場所も違います。国籍も違います。考え方も違います。
けれども、私たちを一つにしているのは、人間の相性ではありません。
十字架につけられ、復活された主イエス・キリストです。
だから教会は、「気の合う人が集まる場所」ではありません。
キリストによって集められた 神の家族なのです。
互いに支え合い、互いに祈り合い、 互いに赦し合い、互いに励まし合いながら歩む群れです。
ヨナタンとダビデの友情は、本当に美しい友情でした。
しかし、それはこの物語の終着点ではありません。
この友情は、私たちをさらに大きな「まことの友」へと導いています。
それは、主イエス・キリストです。
主は、私たちがまだ罪人であった時から愛してくださいました。
私たちが主を求める前から、主は私たちを求めてくださいました。
私たちが主を裏切ることがあっても、 主は私たちを見捨てられません。
十字架において命を与え、復活によって永遠の命への道を開いてくださいました。
この主こそ、決して裏切ることのない友です。
決して離れることのない友です。
決して約束を破らない友です。
だから今日、私たちもこの主に信頼して歩みましょう。
喜びの日も、悲しみの日も。
健康な時も、病の時も。
出会いの日も、別れの日も。
主が共にいてくださる。
その約束を握りしめながら、一週間の歩みへと遣わされていきたいと思います。
主が私たちの間に、そして私たちの前に、いつまでも共にいてくださいます。

 

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2026 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.