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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年8月2日 サムエル記上17章31~47節「万物の主の名によって」

投稿日:2026年8月2日 更新日:

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招詞

詩編24編1~2節「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。

主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。」

 

本日の説教題「万物の主の名によって」に最もふさわしい招詞として、

詩編24編1~2節を選びました。ダビデがゴリアトの前に立った時、

彼がより頼んだのは自分の力でも武器でもなく、天地万物を造り、支配し、

救いを成し遂げられる主の御名でした。

この招詞は、礼拝の初めに、私たちの人生も、教会も、世界も、

すべて主のものであることを告白させ、説教の中心へと皆様を導きます。

起 恐れの谷間に立つ私たち

・愛する兄弟姉妹、主の御名を賛美します。今日は、聖霊降臨節第十一主日の礼拝として、

サムエル記上17章31~47節のみ言葉を聴きます。ここに記されているのは、よく知られているダビデとゴリアトの物語です。けれども、今日まず心に留めたいのは、

この物語は単なる「勇気ある少年の勝利物語」ではない、ということです。

「小さくても頑張れば大きな相手に勝てる」という励ましだけでもありません。

聖書が私たちに語っている中心は、ダビデの強さではなく、ダビデがより頼んだ主がどのようなお方であるか、そして主がどのように救いを成し遂げられるかという福音です。

ダビデはゴリアトに向かって、こう言いました。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、

わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」

ここに、今日の説教の中心があります。私たちは何の名によって立つのでしょうか。

何の力によって生きるのでしょうか。恐れが目の前に立ちはだかる時、

何を根拠に一歩を踏み出すのでしょうか。ダビデは、自分の名によってではなく、

サウル王の名によってでもなく、剣や槍の名によってでもなく、万軍の主の名によって立ちました。

「万軍の主」とは、天と地のすべての軍勢、見えるものも見えないものも、

すべてを治めておられる主という意味を持つ呼び名です。

詩編24編が告げるように、地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のものです。

私たちの命も、家庭も、教会も、歴史も、将来も、偶然の流れに置き去りにされているのではありません。

すべては主の御手の中にあります。だからこそ礼拝は、まずこの主の前に立つことから始まります。

私たちが主を招くのではなく、主がご自分の民を招いてくださいます。

私たちは主のものとして、主の御前に集められているのです。

説教を聞く私たちも、礼拝堂に座りながら、実はいろいろな谷間に立っています。表情には出さなくても、心の中には心配があります。家族のこと、健康のこと、仕事のこと、教会の将来のこと、世界の不安定さのこと。誰にも言えない重荷を抱えている方もおられるでしょう。

信仰があるから何も怖くない、というわけではありません。信仰がある人にも涙があります。

祈る人にも不安があります。だからこそ、今日のみ言葉は私たちに必要なのです。

サムエル記上17章の背景には、イスラエルとペリシテの戦いがあります。

イスラエルの軍勢は一方の山に、ペリシテの軍勢は向こうの山に陣取り、その間には谷がありました。

その谷間に、ゴリアトという戦士が立ちはだかります。彼は大きな体、重い鎧、鋭い武器を持ち、

毎日イスラエルを挑発しました。彼の声は恐れを生みました。彼の姿は人々の心を縮ませました。

サウルもイスラエルの全軍も、その言葉を聞いて恐れおののきました。

ここで大切なのは、イスラエルが神を知らない民ではなかったということです。彼らは主の民でした。

契約の民でした。主がエジプトから救い出し、荒れ野を導き、

約束の地へ入れてくださった歴史を持つ民でした。それにもかかわらず、

彼らは目の前のゴリアトだけを見ていました。神の約束よりも、敵の大きさが大きく見えたのです。

神の臨在よりも、ゴリアトの声の方が現実的に響いたのです。

私たちにも同じことが起こります。私たちは主を信じています。礼拝に集い、祈り、聖書を読み、賛美します。それでも、目の前に大きな問題が立ちはだかる時、私たちの心は恐れに支配されます。

病、老い、孤独、家族の課題、仕事の重荷、経済的な不安、将来への心配、教会の弱さ、社会の混乱、戦争や災害の知らせ。ゴリアトのような現実が、朝な夕な、私たちの心に語りかけます。

「お前には無理だ。神は本当に助けるのか。もう希望はないのではないか。」恐れは、ただ心を暗くするだけではありません。恐れは、私たちの視線を奪います。神を見上げる代わりに、問題だけを見つめさせます。

御言葉を聞く代わりに、不安の声を聞かせます。祈りに向かう代わりに、諦めの中に座り込ませます。

イスラエルの兵士たちは武器を持っていました。戦列も整えていました。しかし心はすでに退いていました。

信仰の戦いにおいて、外側の備えだけでは足りません。

私たちがどこを見ているか、誰の言葉を聞いているかが問われます。

 

承 ダビデは主の名によって見た

・そこへダビデが登場します。ダビデは戦士としてではなく、父の羊を飼う者として、

兄たちへの食べ物を届けるために戦場へやって来ました。人間の目には、

彼は戦いの中心人物ではありません。会議に呼ばれた将軍でもなく、訓練された兵士でもありません。

しかし、神の物語においては、主が用いられる人は、しばしば人の目には小さく見える者です。

ダビデは、誰もが恐れている言葉を聞きました。しかし彼は、同じ言葉を聞いても、

他の人々とは違うところを見ていました。

ダビデは言います。「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」

ダビデにとって問題は、ゴリアトが大きいか小さいかではありませんでした。

武器が強いか弱いかでもありませんでした。問題は、この戦いが主の民を侮り、

生ける神の御名を侮るものとなっていることでした。ダビデは現実を軽く見ていたのではありません。

彼はゴリアトの大きさを知らなかったのではありません。けれども彼は、ゴリアトよりも大いなる主を知っていました。

信仰とは、現実を見ないことではありません。信仰とは、現実を主の御前で見ることです。

病を病でないと言うことではありません。弱さを弱さでないと言い張ることでもありません。

むしろ信仰は、弱さを弱さとして認めながら、なおその弱さの中で主が生きて働かれることを信じることです。ダビデは、自分が少年であることを否定しませんでした。サウルが「お前にはできない」と言った時、

ダビデは「私は強い」とは言いませんでした。彼が語ったのは、

自分の経験を通して主が救い出してくださったという証しでした。

ダビデは言いました。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、

わたしを守ってくださるにちがいありません。」ここでダビデは、過去の主の恵みを思い起こしています。

羊飼いとしての日々は、人の目には小さな務めだったかもしれません。王宮の表舞台ではなく、

荒れ野の目立たない場所でした。しかしそこでダビデは、主に信頼することを学びました。

主が守り、助け、救い出してくださることを、日々の務めの中で経験していたのです。

信仰は、突然大きな舞台でだけ試されるものではありません。日々の小さな務めの中で養われます。

家庭での忍耐、職場での誠実、病床での祈り、誰にも知られない奉仕、子どもを育てる日々、

高齢の家族を支える日々、一人で御言葉に向かう時間。そうした場所で、主は私たちを訓練し、支え、

救いの記憶を刻んでくださいます。そして大きな恐れが現れた時、私たちは過去の自分の成功ではなく、

過去に主が真実であられたことを思い起こすのです。

ここで私たちも、自分の歩みを振り返ってみたいと思います。

主は、私たちをいきなり大きな舞台に立たせるだけではありません。むしろ、日々の小さな場所で、信仰を養ってくださいます。朝の短い祈り、誰にも知られない奉仕、家族への一言の忍耐、

疲れていても礼拝に向かう一歩。そうした小さな積み重ねの中で、

主は「わたしはあなたと共にいる」と教えてくださいます。そしてある日、恐れが目の前に立ちはだかった時、

私たちは思い出します。「あの時も主が助けてくださった。ならば今も、主は見捨てられない。」

サウルはダビデに自分の鎧を着せます。青銅の兜をかぶせ、鎧を着けさせ、剣を持たせます。

サウルにとって、それが戦いの常識でした。強い敵に向かうなら、強い武器を持たなければならない。

大きな相手に勝つには、こちらも大きくならなければならない。しかしダビデは、それを脱ぎます。

「慣れていませんから」と言って、サウルの装備を脱ぎ、

自分の杖と石投げと五つの滑らかな石を持って進みます。これは単なる戦術の問題ではありません。

ダビデは、サウルの鎧によって自分を大きく見せる必要がありませんでした。

神の民は、この世の力をそのまま借りて勝利を得るのではありません。もちろん、知恵や備えは大切です。

責任ある準備を軽んじてよいわけではありません。しかし、私たちの最終的な拠り所は、人間の力、制度、財産、能力、評判ではありません。主の名です。主の恵みです。主の救いです。

教会も同じです。教会は大きさによって勝つのではありません。人数、予算、建物、プログラム、

社会的な影響力だけが教会の力ではありません。教会の力は、十字架につけられ、

よみがえられたイエス・キリストの福音にあります。小さな群れであっても、弱さを抱えていても、

主の名によって集められ、主の言葉を聞き、主の食卓にあずかり、主の愛を証しするなら、

そこに神の国のしるしがあります。主は、小さな石を用いても、ご自身の救いを現されるお方です。

ダビデがゴリアトに近づくと、ゴリアトは彼を侮りました。若く、美しい少年に見えたからです。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」ゴリアトは自分の神々によってダビデを呪い、彼を脅します。

ここに、世の力の特徴があります。世の力は、見える大きさで人を量ります。弱く見える者を侮ります。

脅しによって支配しようとします。恐れを植えつけ、沈黙させ、退かせようとします。

しかしダビデは、ゴリアトの言葉に飲み込まれません。彼は言います。

「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしは万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」

これは勝利宣言であると同時に、礼拝の告白です。ダビデは戦場で礼拝をしているのです。

彼はゴリアトに向かって語っているようでありながら、実は全地に向かって、

主こそ神であると宣言しているのです。「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。

主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。」

 

転 まことの代表者キリストを見る

・ここに福音の光が輝きます。ダビデはイスラエルの代表として、恐れて動けない民の前に進み出ました。

民は自分でゴリアトに勝つことができませんでした。誰も前に出られませんでした。

しかし一人の代表が前に出て、民のために戦いました。そしてその勝利は、彼一人だけのものではなく、

民全体の勝利となりました。この構造は、やがて来られるまことの王、イエス・キリストを指し示しています。

私たちには、自分では倒すことのできない敵があります。それは罪です。死です。神から離れた心です。

自分を中心にして生きたいという深い反逆です。

どれほど努力しても、私たちは自分の罪を完全に消すことはできません。どれほど強くなろうとしても、死に勝つことはできません。どれほど立派に見えても、神の前に自分の義を誇ることはできません。

私たちは、イスラエルの兵士たちのように、真の敵の前で立ち尽くすしかない者です。

しかし神は、私たちのためにまことの代表者を送ってくださいました。主イエス・キリストです。

イエス様は、私たちの罪と死の前に立たれました。剣や槍ではなく、十字架によって戦われました。

人々に侮られ、捨てられ、弱く見える姿で、神の救いを成し遂げられました。

世の目には十字架は敗北に見えました。しかし神の目には、そこに罪の赦しがあり、死への勝利があり、

悪の力に対する決定的な勝利がありました。

ダビデがゴリアトの前に小さく見えたように、十字架のキリストも、この世の権力の前には弱く見えました。

けれども、神の力は弱さの中で完全に現れます。イエス様は十字架で死なれ、三日目によみがえられました。罪と死は最後の言葉を持ちません。最後の言葉を持つのは、よみがえりの主です。

だから福音とは、「あなたがもっと強くなれば救われる」という知らせではありません。

「あなたのために、キリストがすでに戦い、勝利してくださった」という知らせです。

ですから、私たちはこの物語を読む時、最後にはダビデで止まってはいけません。

ダビデの勇気をまねるだけでは、私たちはすぐに行き詰まります。私たちの心は弱いからです。

昨日は信じられても、今日は恐れてしまうからです。

けれども、聖書は私たちを、ダビデよりも大いなるお方へ導きます。

それは、私たちのために罪と死の前に立ってくださった主イエス・キリストです。

キリストこそ、私たちのまことの代表者です。

私たちはこの福音を信じる時、もはや自分の名によって生きる必要がありません。自分の功績、自分の正しさ、自分の強さ、自分の評判によって立とうとしなくてよいのです。

私たちは、イエス・キリストの御名によって神の前に立つことができます。

祈る時も、悔い改める時も、試練に向かう時も、奉仕に遣わされる時も、

私たちはキリストの御名によって立ちます。これがキリスト者の自由です。

聖霊降臨節にこの御言葉を聞くことにも深い意味があります。

聖霊は、私たちを自分の力で強く見せる霊ではありません。聖霊は、キリストを証しする霊です。

恐れて閉じこもっていた弟子たちを立ち上がらせたのは、彼らの性格が急に勇敢になったからではありません。復活の主が彼らに聖霊を注ぎ、福音の証人として遣わされたからです。

今日も聖霊は、弱い私たちを、主の名によって立つ者へと造り変えてくださいます。

聖霊降臨節にこの福音を聞く時、

私たちは、自分の力で信仰深くならなければならないという重荷から解放されます。

聖霊は、私たちを自分の力で立派に見せる霊ではありません。

聖霊は、キリストを私たちに示し、キリストへ結びつけ、キリストの勝利に生きるよう導いてくださる霊です。

だから、弱いままで主の前に出てよいのです。恐れを抱えたまま祈ってよいのです。

主は、そのような私たちを見捨てず、御言葉と聖霊によって立ち上がらせてくださいます。

では、私たちは今日、どのように応答すればよいのでしょうか。

◎第一に、私たちは自分のゴリアトを主の御前に差し出すことです。

恐れを隠す必要はありません。信仰者だから不安を持ってはいけない、ということではありません。

主の前で正直に、「主よ、私は恐れています。私は弱いです。私は自分では勝てません」と祈ってよいのです。そして、その祈りの中で、私たちの視線は恐れから主へと向け直されます。

◎第二に、過去の主の恵みを思い起こすことです。ダビデは獅子と熊から守られた経験を語りました。

私たちにも、主が支えてくださった日々があります。倒れそうで倒れなかった時、赦されて立ち上がった時、

誰かの祈りに支えられた時、御言葉に慰められた時、道がないと思ったところに道が開かれた時。

それらは偶然ではありません。主が共におられたしるしです。

過去の恵みの記憶は、未来への信頼を支えます。

◎第三に、私たちはサウルの鎧ではなく、主が与えてくださった賜物を用いることです。

他人の姿になろうとしなくてよいのです。誰かの信仰の形をそのまま身に着けようとして、

身動きが取れなくなる必要はありません。主は、あなたに与えられた言葉、あなたに与えられた祈り、

あなたに与えられた小さな奉仕、あなたに与えられた経験を用いてくださいます。

大切なのは、それが大きく見えるかどうかではなく、主の御手にゆだねられているかどうかです。

◎第四に、私たちは主の勝利を証しする者として遣わされます。

ダビデの戦いの目的は、自分の名を上げることではありませんでした。

「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。」私たちの生活もまた、主を証しする場所です。家庭で、学校で、職場で、地域で、病の中で、老いの中で、喜びの中で、涙の中で、

私たちは言葉と行いをもって告白します。

「主は生きておられる。主は救われる。主は剣や槍によらず、恵みによって救われる。」

 

 

結 洗礼への招きと主の名による派遣

・ここで、静かに主の御前に心を向けたいと思います。

恐れの中にも、弱さの中にも、私たちを招いてくださる主の声を聴くために、会衆の皆さん目を閉じてください。これは人に見せるための時間ではありません。主の前に、ひとりひとりが正直に立つための時間です。

まだ洗礼を授かっておられない方、初めて教会に来られた方、

あるいはこれまで信仰に関心を持ちながらも一歩を踏み出せずにいた方に、今、心からお勧めします。

洗礼は、自分が強くなった証明ではありません。

すべての疑いがなくなった人だけが授かる資格でもありません。

洗礼は、罪と死に勝利されたイエス・キリストに結ばれ、

父と子と聖霊の御名によって新しく生きる者とされる恵みのしるしです。

もし今、心のどこかで「イエスさまを信じたい」「洗礼について考えてみたい」

「主の招きに応えたい」という思いが与えられているなら、その思いを大切にしてください。

あなたが完全になってから主のもとへ来るのではありません。

主が、不完全なままのあなたを招いておられます。

「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう」と、主は今も招いておられます。

もし今、「イエスさまを信じたい」「洗礼について考えてみたい」「主の招きに応えたい」という思いが与えられている方がおられましたら、目を閉じたままで結構です。誰かに見せるためではなく、主への小さな応答として、静かに手を挙げてください。私はその手を見て、後ほどあなたのために祈ります。

……ありがとうございます。手を下ろしていただいて結構です。

主は、その小さな応答を確かに受け止めてくださいます。礼拝の後で、どうぞ牧師にお声がけください。

すぐにすべてを決めなければならないということではありません。

教会は、あなたを急がせるためではなく、共に祈り、共に学び、共に主の招きを聴くためにあります。

ここで、すでに洗礼を授かっている教会員の皆さんにも、あらためて主の前で問いかけたいと思います。

あなたは今日も、イエス・キリストを主と信じますか。

あなたの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主として、主イエスを信頼しますか。

あなたは、自分の名によってではなく、主イエス・キリストの御名によって生きることを願いますか。

恐れの中でも、弱さの中でも、主の恵みに立ち帰り、聖霊の助けによって歩み続けることを願いますか。

もし心の中で「はい、主よ、信じます。私を助けてください」と祈る思いがあるなら、

洗礼の恵みに立ち帰る応答として、また主イエスをあらためて主・救い主として告白するしるしとして、

静かに手を挙げてください。

……ありがとうございます。手を下ろしていただいて結構です。

声に出さなくても、主はその応答を聞いてくださいます。

私たちの信仰を始めてくださった主が、これからも聖霊によって支え、歩ませてくださいます。

それでは、挙手された方々のために、またここに集うすべての者が主の御名によって歩むことができるように、しばらく静かに祈りましょう。

……

目を開けていただいて結構です。

愛する兄弟姉妹、ダビデは万軍の主の名によって立ちました。

私たちは、十字架と復活の主イエス・キリストの御名によって立ちます。

万物の主は、私たちを恐れの奴隷としてではなく、神の子として生きるように招いてくださいます。

聖霊は、私たちの内に「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りを与え、主の民として歩ませてくださいます。

ですから、この一週間も、私たちは主の名によって遣わされていきます。大きなことができなくてもよいのです。ひとつの祈り、ひとつの赦し、ひとつの訪問、ひとつの励まし、ひとつの証しを、

主の御名によって差し出しましょう。

戦いは主のものです。救いは主のものです。そして私たちもまた、主のものです。

地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの。私たちの命も、教会も、未来も、主のものです。

主の御名によって立ち、主の御名によって歩み、主の御名によって遣わされていきましょう。

 

結びの告白

・愛する兄弟姉妹、今日、私たちは何の名によって立つのでしょうか。自分の名でしょうか。

人の評価でしょうか。過去の実績でしょうか。持ち物でしょうか。能力でしょうか。

それらは、時には私たちを助けるかもしれません。しかし、それらは私たちを救うことはできません。

私たちを神の前に立たせ、罪を赦し、死を越えて希望を与えることができるのは、ただ主の御名だけです。

ゴリアトの声は今も聞こえます。「お前には無理だ。お前は弱い。未来は暗い。」

しかし、福音の声はさらに深く響きます。

「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。戦いは主のもの。救いは主のもの。あなたはわたしのもの。」

この声を聞きましょう。この御言葉に立ちましょう。そして、万物の主の名によって、

今日も遣わされていきましょう。主は、剣や槍によらず救われます。主は、十字架によって救われます。

主は、復活によって新しい命を与えられます。主は、聖霊によって私たちを立ち上がらせます。

だから私たちは告白します。地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの。私たちの命も主のもの。教会も主のもの。未来も主のもの。私たちは、万物の主の名によって歩みます。

・ですから、この一週間も、私たちは小さな石を手に取るように、

主が今日与えてくださる小さな務めを受け取りましょう。大きなことができなくてもよいのです。

ひとつの祈り、ひとつの赦し、ひとつの訪問、ひとつの励まし、ひとつの証し。

それを主の御名によって差し出す時、主はそれを用いてくださいます。戦いは主のものです。

救いは主のものです。そして私たちもまた、主のものなのです。

 

 

 

 

祈り

・お祈りします。

万物の主なる神さま、地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものはあなたのものです。

私たちの命も、教会も、今日という日も、あなたの御手の中にあります。

私たちはしばしば目の前の恐れに心を奪われ、あなたの大きさを見失ってしまいます。

どうか御言葉によって私たちの視線をあなたへと向け直してください。

・主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪と死に勝利してくださったことを感謝します。

まだ洗礼を授かっていない方々の心に、あなたの招きを響かせてください。

洗礼を授かった私たちをも、洗礼の恵みに立ち帰らせ、キリストの御名によって歩ませてください。

聖霊によって私たちを励まし、恐れの中にも主の証人として遣わしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 

 

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