江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

025年7月6日(民数記9:15~23、「荒れ野にて」 副題:荒れ野での出来事を通して、神の導きとキリストの模範)

投稿日:

YouTube

 

  1. はじめに

・おはようございます。本日の礼拝では、篠崎キリスト教会の兄弟姉妹の皆様とともに、民数記9章15~23節「荒れ野にて」を通して、神の守りと導きの意味についてご一緒に考えたいと思います。この箇所は、イスラエルの民が長い荒れ野の旅路を歩む中で、どのように神が民を導き、また民がどのようにその導きに応えていったのかが描かれています。また、今日の主題は、この荒れ野の物語が、イエス・キリストの歩みや、私たちの人生にどのように重なり、教訓となりえるのかという点にも目を向けていきたいと思います。
・民数記は、旧約聖書の中で「モーセ五書」の一つに数えられ、イスラエルの民がエジプトを脱出し、神からいただく約束の地カナンへ向かう過程を描いた書です。英語やラテン語、ギリシア語のタイトルは「数」を意味し、これは冒頭で部族ごとに人口が数えられることに由来しています。しかし、ヘブライ語聖書のタイトルは「ベミドバル(砂漠で、荒れ野で、)」であり、まさにイスラエルの民が主に導かれながら荒れ野を彷徨した経験そのものを象徴しています。
・イスラエルの民は、シナイ山で神から律法を授かった後、40年間という途方もない年月を荒れ野で過ごしました。この間、神は昼は雲の柱、夜は火の柱として民の前に現れ、民の移動や滞在の合図を与えました。雲の動きに従うことは、イスラエルの民にとって信仰と従順の毎日の訓練であり、不確実な状況の中でも、神が確かに共にいて導いてくださることへの信頼を深める時でもありました。荒れ野での経験は、ただ地理的な移動や苦難の象徴ではなく、民が自分の力や計画に頼るのではなく、神のご計画とタイミングに身を委ねることを学ぶための霊的な旅路でもありました。
・こうしてイスラエルの民は、雲の柱に導かれながら、たとえ予測できない状況や困難に直面しても、神の臨在を感じ取り、約束の地を目指して歩み続けました。私たちもまた、人生という荒れ野の中で、日々神の導きを求めて歩みを進めているのではないでしょうか。

 

  1. 荒れ野にて、雲の柱とともに

・民数記9章15~23節には、エジプトを脱出したイスラエルの民が、広大で過酷な荒れ野の中で神の臨在と導きを日々経験していく姿が、きわめて印象的に描かれています。彼らがシナイ山のふもとで幕屋を完成させたその日から、主の雲は幕屋の上にとどまり続け、昼は雲が、夜は火のような輝きがイスラエルの全会衆の目の前に現れました。この雲の柱は、神がご自身の民と共におられ、どんな困難な状況の中でも見捨てることなく、確かな導きを与えてくださるという約束の象徴でした。
・イスラエルの民はこの雲の動きに従い、旅を続けました。雲が幕屋の上にとどまって動かなければ、彼らもまたその場にとどまり、雲が上がると、たとえそれが昼であれ夜であれ、直ちに宿営をたたみ、移動を開始しました。時には雲が長い間とどまり、民はその間、忍耐をもって待ち続けなければならなかったこともありました。逆に、ほんの一晩や数日、あるいは昼夜だけといった短い期間しか滞在できないこともあったのです。彼らは、自分たちの都合や計画ではなく、すべて主のご命令、すなわち雲の動きによってのみ進退を決めていきました。
・この荒れ野での旅は、単なる地理的な移動の連続ではありませんでした。むしろ、日々「神だけを頼りとする」信仰の訓練の連続であり、神のご計画とタイミングに身を委ねる従順の学びでもありました。雲の柱や夜の火の輝きは、視覚的にも神の臨在を確信させるものでしたが、その導きは時として予測できず、民はしばしば不安や戸惑いに直面したことでしょう。しかし、そのような中でも、彼らは神が共におられること、どんな時にも離れることなく見守り、最善の道へ導いてくださることを、体験的に学んでいったのです。
・私たちもまた、それぞれの人生の中で「荒れ野」と呼び得る時期、先が見えず不安や困難に満ちた時を経験します。しかし、イスラエルの民が雲の柱に従ったように、私たちも神の導きを信じ、日々の歩みを委ねていくならば、そこに新たな希望と信仰が生まれていくのではないでしょうか。

 

  1. 荒れ野の意味、信仰と従順の訓練

・荒れ野とは、命が危うい場所です。そこには、水も食料もほとんど存在せず、人間の知恵や努力だけでは生き抜くことが難しい、極限の環境が広がっています。しかし、まさにそのような過酷な地こそが、神がイスラエルの民をあえて導かれた場所でした。荒れ野の旅路において、彼らは自分たちの力や計画ではどうにもならない状況に幾度となく直面しました。明日をも知れぬ不安や、予想だにしない困難に囲まれる中で、民は毎日与えられるマナという奇跡の糧に頼り、神の憐れみと真実を全身で味わうことになるのです。
また、渇きに苦しむとき、神は岩から水を湧き出させ、絶望の淵にある民に新たな命の恵みを与えてくださいました。彼らは、ただ物理的な糧や水だけでなく、シナイ山で律法を授かることで、神との契約という霊的な食物も受け取ります。この40年に及ぶ荒れ野の歩みは、単なる放浪や苦難の連続ではなく、自分自身の限界を知り、神に全幅の信頼を寄せることを学ぶ、信仰の場所・信仰の学校であったとも言えるでしょう。
・雲の柱に従い、止まるべき時には静かにとどまり、進むべき時には迷いなく歩み出す。その一日一日が、神のご計画とタイミングに身を委ねる従順の訓練であり、また「主が共におられる」という確信を何度も心に刻む時間でもありました。人間の思い通りにはいかない日々の移動や停滞の中で、民は忍耐を学び、時に不安や葛藤を覚えながらも、神の導きに信頼することの大切さに目を開かれていきます。
このように、イスラエルの民にとって荒れ野は、地理的な空間以上の意味を持っています。そこは、目に見える雲の柱や夜の火の輝きを通して、神が決して民を見捨てず、どんな困難な状況にあっても共にいて守り導かれることを、体験的に学ぶ場所だったのです。まさにこの場所こそが、信仰と従順の訓練の舞台であり、神との新たな関係が築かれる特別な時間でした。果たして、その訓練はどのような実を結んだのでしょうか。

 

  1. イエスの荒れ野、新しいイスラエルの民としての出発

・荒れ野での経験は、旧約のイスラエルの民だけに限られたものではありません。新約聖書においても、イエス・キリストご自身が荒れ野で40日間を過ごされる出来事が記されています。この出来事は、すべての信仰者にとって深い示唆を与えるものです。
・招詞としてマタイによる福音書4章1節を選びましたので、ご一緒にお読みしたいと思います。
―マタイ4:1「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」
この聖句が示すように、イエスはバプテスマを授けられた直後、聖霊によって荒れ野へと導かれ、40日40夜にわたって断食された上で、悪魔からの様々な誘惑に直面されました。イエスは人間としての極限まで弱さを経験されたのです。しかし、その極限状態の中で、イエスは神の御言葉に拠り頼み、神への従順と信頼を全うされました。
・イエスの荒れ野での誘惑は、イスラエルの民がかつて荒れ野で体験した数々の試練と重なります。イスラエルの民は、飢えや渇き、忍耐の限界、また偶像礼拝や不平不満といった誘惑にしばしば負けてしまいました。しかし、イエスはそのすべての誘惑に打ち勝ち、神への完全な信頼と従順の模範を示してくださったのです。
・パンによる誘惑に対して、イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ4:4)と宣言されました。これは、目の前の必要や欲求に追われるのではなく、神の御言葉こそが人生を支える力であることを強調しています。
・続いて、神殿の頂から飛び降りて神の力を試すように仕向けられた誘惑には、「あなたの神である主を試してはならない」と答え(マタイ4:7)、信仰とは神を思い通りに動かすことではなく、御心に従順に歩むことだと示されました。
・さらに、世の栄華や富、権力を与えるという悪魔の誘惑には、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と力強く言い返されました(マタイ4:10)。ここには、どんな魅力的な誘いも、神への絶対的な忠誠に勝るものはない、という確固たる信仰が示されています。
・このようにして、イエスは荒れ野という孤独と極限の状況の中で、三度にわたる悪魔の誘惑すべてに御言葉によって打ち勝ちました。これは、イスラエルの民が荒れ野でしばしば挫折した歴史と対照的であり、イエスこそが「新しいイスラエル」として、私たちすべての希望の源となってくださったことを意味しています。
・イエスのこの勝利は、単なる過去の出来事ではありません。神を信じて歩む者が人生の荒れ野・すなわち困難や孤独、試練、誘惑の中に置かれる時、私たちもまた、イエスが示された御言葉への信頼と従順の姿勢を模範とすることができるのです。イエスが荒れ野で勝利されたように、神は私たちにも、その御言葉と聖霊によって困難に打ち勝つ力を与えてくださいます。
・こうした荒れ野での経験を通して、私たちは自分自身の力や知恵に頼るのではなく、より深く神に信頼し、神のご計画に身を委ねることの大切さを学ぶことができます。そして、イエスの勝利の歩みに連なり、「荒れ野」は私たちにとっても新たな出発と希望の場となるのです。

 

  1. 私たちの荒れ野、現代へのメッセージ

・私たちもまた、人生の中で「荒れ野」と呼べるような時を経験します。先が見えない不安、孤独、困難、試練等。しかし、神は今も変わらず私たちの前を進み、雲の柱の様に導いてくださいます。
・困難な時も、神は共におられ、その時々に最善をなしてくださること。
・信仰によって神のタイミングに従うことの大切さ。
・イエスが荒れ野で勝利されたように、私たちも御言葉により頼み、誘惑に打ち勝てること。
イスラエルの民は雲の動きに注意を払い、すぐに従うことを学んでいました。同じように、私たちも神の静かな語りかけや、御言葉を通しての導きに心を開き、日々従順に歩みたいと願います。
・私たちもまた、人生の中で「荒れ野」と呼べるような時を経験します。それは思いがけない困難、心の葛藤、将来への不安、失望や喪失、孤独や試練といった形で私たちに訪れます。自分の力ではどうにもならない局面に立たされ、頼れるものが何もなくなったかのように感じることもあるでしょう。しかし、そんな荒れ野の只中でも、神は変わらず私たちと共に歩んでくださいます。主なる神は、旧約時代に雲の柱と火の柱をもってイスラエルの民を導かれたように、今も私たち一人一人に目を留め、見えない導きの御手を差し伸べてくださっているのです。
・荒れ野で直面する困難や孤独、痛みや悲しみは、決して無意味なものではありません。むしろ、そうした厳しい状況を通してこそ、私たちは己の限界と弱さを知り、真に神により頼む心を深めることができます。自分自身の力や知恵に頼ることをやめ、神の御言葉と約束に心から信頼することの大切さを学び取るのです。主が与えてくださる平安や励ましは、どんな状況の中でも私たちを支え、前に進む勇気を与えてくれます。
・困難な時も、神は決して私たちを見放すことなく、最善をなしてくださるお方です。たとえ祈りの答えがすぐに見えなくても、神のご計画は必ず良いものとして実現します。私たちは信仰を持って、神のタイミングや導きを静かに待ち望むことが大切です。時には道が閉ざされたように思える時もありますが、それは神が私たちを守るため、新しい道を開いてくださるための備えかもしれません。
・イエスが荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ち、御言葉により頼む信仰の模範を示してくださったように、私たちもまた日々の生活の中で様々な誘惑や揺さぶりに直面します。しかし、そのたびに聖書の御言葉を心に刻み、祈りをもって神に信頼し続けるならば、必ず勝利が与えられるという希望があります。
・イスラエルの民は雲の柱の動きに細心の注意を払い、神の指示に敏感に従うことを学びました。そのように、私たちも日々の出来事や状況のひとつひとつの中に、神の静かな語りかけや御言葉による導きを見いだし、柔らかな心で従順に応答したいと願います。時に、神の導きは分かりにくく感じることがあっても、主の約束を信じて歩み続けるなら、必ず新たな希望と祝福の道が開かれていきます。
・荒れ野という厳しい環境の中でこそ、神と私たちの関係はより深められ、真の信仰が養われていきます。私たちは自分自身の力に頼るのではなく、すべてを主に委ねて歩むことの大切さを学びます。そして、イエスの勝利にあずかる者として、どんな困難の中にも新しい出発と希望を見いだすことができるのです。
・私は離婚後、独り暮らしを始め、生活のために家事を自分でこなさなければならなくなりました。最初のうちは戸惑いや不安が大きく、何をどうすればよいのか分からず、孤独と向き合う日々が続きました。しかし、そのような状況にあっても、少しずつ家事を覚え、日々の小さな変化を受け入れながら歩むうちに、導かれるようにクリスチャンとしての信仰を持つようになりました。振り返れば、この独り暮らしの期間こそが、私にとっての「荒れ野」の時代であったと感じています。
その後、私は実家に戻り、両親の介護をする生活が始まりました。当初は、この両親との生活こそが自分にとっての「約束の地」だと思い込んでいました。しかし、時が経つにつれ、本当に「約束の地」とは何なのか、深く考えるようになりました。現在、私は毎週の礼拝の準備や説教原稿の作成、そして祈祷会のための準備に日々取り組んでいます。これらの務めは決して楽なものではなく、悩みや苦しみ、葛藤に直面することもしばしばあります。思い通りにいかず、心が折れそうになる日ばかりですが、そのたびに「主がともにおられる」という実感が私の心を支えてくれます。
どんなに悩みや苦しみがあったとしても、主とともに過ごす時間はかけがえのないものであり、ひとつひとつの出来事が信仰の糧となっています。今振り返ってみると、私にとっての「約束の地」は、未来のどこかにある理想の場所ではなく、まさに今この「荒れ野」のような日々の中にこそあるのだと気づくことができました。日々の困難や葛藤の中で、神への信頼と感謝の心が育まれていることを心から証ししたいと思います。
このように、人生のさまざまな局面を通して、私たちはそれぞれの「荒れ野」を経験しますが、その中にこそ新たな希望や出発が隠されているのだと信じています。主が共に歩んでくださる恵みに感謝し、これからも信仰と希望を持って歩み続けたいと思います。

 

  1. 結び

・荒れ野は終わりではなく、約束への道です。荒れ野の旅は、決して絶望や停滞の象徴ではありません。むしろ、それは神の計画の中で不可欠な準備の期間であり、新たな祝福と使命への扉となります。イスラエルの民も、40年に及ぶ荒れ野の旅路を経て、ついに約束の地カナンへと導かれます。長い道のりは、彼らの信仰と従順、忍耐を養うためのものでした。また、イエスも荒れ野に導かれて40日間の試練を受けた後、公の働きに踏み出し、神の国の福音を宣べ伝える新しい歩みを始められました。すなわち、荒れ野は神のご計画の中で、次なるステージへと進むために必要な備えの時なのです。困難や孤独、迷いや痛みのただ中でこそ、私たちは自己中心的な価値観やこだわりから解放され、神の愛と真実に心を開くことができます。そして、日々の小さな従順や信頼の積み重ねが、やがて大きな祝福と変化を生み出す土台となるのです。
・私たち一人一人も、人生の中で避けられない荒れ野のような時を通して、より深く神に信頼し、キリストにならって従順に歩む者とされていきます。主がともにおられるという確信が、どんな暗闇や試練の中にも光となり、御言葉と御霊による導きが、迷いの時にも確かな道しるべとなります。そのような中で私たちは、神の愛と真実に触れ、自己中心的な思いを手放し、主の大きな御旨に従う心を育むことができるのです。願わくは、すべての時に、主がともにいてくださる恵みに感謝し、揺るがぬ信仰と希望をもって歩み続けたいものです。
・イスラエルの民は、40年の荒れ野の旅から約束の地へと導かれますが、その地に入った後も、神の御言葉とみ旨に従い続けることができたのでしょうか。その問いは、私たち自身にも向けられています。困難を乗り越え、願っていた場所や状況に到達したときこそ、なお神への信頼と従順を持ち続けることが求められます。日々のささやかな決断や態度の中に、神の御心を求め、主の静かな語りかけに耳を傾ける謙虚さを持ち続けましょう。荒れ野の経験が、単なる苦難の記憶ではなく、主とともに歩んだ証しとなり、私たちをさらに成長させる糧となりますように。

 

祈り2

真の生命の神のみ名を賛美します。
今、私たちがそれぞれの荒れ野を歩むとき、あなたが共にいてくださることを覚えて感謝します。
目には見えなくとも、あなたの確かな導きと守りがあることを信じます。
どうか心を静めて、あなたの御声に耳を傾けることができるよう助けてください。
困難の中にも感謝を見いだし、疑いではなく信頼によって歩む力をお与えください。
主イエスが御言葉によって勝利されたように、私たちも日々、み言葉を心に蓄え、
あなたの御霊の内により頼みながら歩ませてください。
荒れ野の道がどれほど長く感じられても、必ず約束の地へと導かれる希望を
持ち続けることができますように。
主がともにおられ、決して見捨てられることのない確信を、私たち一人ひとりの
心に深く刻んでください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2025 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.