【招詞】「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」
(フィリピ4:1 )
【第一部】自分の義に生きていた時代
親愛なる皆さん、
聖書を開きましょう。フィリピの信徒への手紙3章――ここには、私たちの人生の土台を揺さぶるほどの真理が記されています。パウロという男が、彼自身の人生を振り返りながら語る一つの告白。これは単なる回想ではありません。魂の深みからあふれ出た叫び、救い主との出会いによって打ち砕かれたプライドの証しなのです。
彼はこう言います。
「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」(フィリピ3:2 )
なんと激しい言葉でしょうか。しかしこれは、当時の教会に入り込んでいた偽りの教えに対する、パウロの鋭い警鐘だったのです。彼らは、神の救いが恵みによるのではなく、行いによるのだと教えていました。つまり、「あなたが救われるには、これを守り、あれを実行し、こう見えなければならない」と、人間の努力と宗教的な形式に重きを置いていたのです。
けれども、福音はそうではありません! 救いは、イエス・キリストの恵みによって与えられるのです!
パウロはかつて、まさにその偽りの価値観の中心にいた男でした。彼は誇らしげに、自分の経歴をこう語ります。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ3:5-6 )
皆さん、聞いてください。彼は「自分こそは神に近い者だ」と信じて疑わなかった。宗教的な伝統に忠実で、律法に熱心で、周囲からの評価も高かったでしょう。まさに、「正しさ」に満ちた男だったのです。
しかし――しかしです――そんな彼がこう言うのです。
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」(3:7)
なぜか? それは、ダマスコ途上で復活のキリストと出会ったからです。光に打たれ、地に伏し、イエスの声を聞いたとき、彼の目が開かれたのです。神に近いと信じていた自分が、実は神の敵となっていたことを、彼は悟ったのです。
ここに、信仰の本質があります。
あなたは何に自分の義を置いていますか?
皆さん、これをよく考えていただきたいのです。教会に通っていること、聖書を読んでいること、祈っていること――それらは大切です。しかし、それらが「自分を正しい者として神に認めさせる手段」になってはいないでしょうか?
「私はこんなに信仰的に見える。だから神も私を受け入れてくださるはずだ。」
そんな思いが、あなたの心に忍び込んでいないでしょうか?
パウロはそれをすべて捨てました。誇るべきもの、積み上げた宗教的功績、努力――そのすべてを、彼はこう言いました。
「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今ではすべてを損失と見なしています。キリストのために、すべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(3:8)
「塵あくた」――これはただのゴミではありません。役に立たず、嫌悪すべきもの。彼にとっては、誇りにしていたすべてが「価値を持たない」とはっきり認めざるを得ないほど、キリストの恵みが圧倒的だったのです。
皆さん、私たちにとっての「得であったもの」とは何でしょうか? 学歴でしょうか? 地位でしょうか? 人からの評価? あるいは、「自分は善人だ」という心の奥の自己満足?
もしそのようなものにあなたの信仰の土台を置いているとしたら、今日、この瞬間、あなたに問いかけたいのです。
それは、キリストよりもすばらしいのですか?
パウロの答えは明白でした。
「キリストを知ることが、すべてにまさる。」
兄弟姉妹の皆さん、これは理屈ではありません。これは、人生を変える出会いの証しです。キリストの愛にふれた者だけが語れる言葉なのです。あなたも、その愛に出会っていただきたい。義務でもなく、形でもなく、生けるキリストとの交わりの中で、あなたの人生の意味を見出していただきたいのです。
今こそ、あなたの義を神の前に差し出し、「キリストを知る」ことのすばらしさを人生の中心に据える時です。それこそが、真の救いと自由の扉なのです。
【第二部】キリストを知ることのすばらしさとは何か
親愛なる皆さん、
パウロという男は、人生のすべてをひっくり返すような体験をしました。かつては、自分の義、自分の正しさ、努力や宗教的熱心さに生きていた彼が、今やまったく違うことを語っています。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今ではすべてを損失と見なしています。」
兄弟姉妹の皆さん、パウロが言う「キリストを知る」とは、ただの知識ではありません。神学を学ぶこと、聖書に精通すること――それだけではないのです。それは、生きて働くイエス・キリストとの出会いです。魂が震えるような交わり。心の深みに触れる主の声。そして、人生の軌道が変わるような救いの体験です。
ここで私は、三つの側面から「キリストを知るすばらしさ」をご一緒に見ていきたいのです。
《キリストの愛に打たれた瞬間》
思い出してください。パウロがキリストに出会ったのは、彼がクリスチャンを迫害していたまさにその時でした。ダマスコへ向かう途中、突然光が彼を取り囲み、彼は地に倒れました。そして、主の声が響いたのです。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(使徒言行録9:4)
皆さん、この時パウロは良いことなど一つもしていませんでした。むしろ、神の敵として歩んでいたのです。それなのに、主は彼を裁くのではなく、呼びかけられた。彼を赦し、用いようとされた。
それがキリストの愛です!
私たちもそうではないでしょうか? 罪深く、神から遠く離れていた者。にもかかわらず、神はあなたの名を呼び、あなたを追いかけ、そして抱きしめてくださるのです。これは、私たちの行いによるのではありません。ただただ神の恵みによるものです。
皆さん、キリストの愛に触れた者は、決して同じではいられません。そこに、本当の命があるのです。
《キリストの義に生きる恵み》
次にパウロはこう語ります。
「キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ3:9 )
これはまさに、私たちが信じている福音の中心です!
人間の努力や良い行いでは、神に義と認められることはできない。どれほど道徳的に生きようとしても、私たちの内には罪がある。完全に神に喜ばれることは、自分では成し遂げられないのです。
しかし、イエス・キリストが十字架で私たちの罪を負ってくださった。私たちは信じることによって、キリストの義を着せられるのです。自分の努力で救われるのではない、信仰によって神から与えられる義に生きるのです!
皆さん、これはただの神学ではありません。これは、新しい人生の始まりです。人と比べることをやめ、罪に縛られることなく、赦された者として、感謝に満ちた自由な人生が与えられる。それが、キリストの義に生きるということなのです。
《キリストと共に歩む生涯》
そしてもう一つ、忘れてはならないのは、「キリストを知る」ことは一度限りの体験ではない、ということです。パウロは、「キリストに結ばれている者と認められたい」と言いました。それは、日々の歩みの中で、キリストと共に生きる人生を意味しています。
主との関係は、今日も、明日も、来年も続いていくのです。朝起きたとき、主に語りかけ、御言葉に耳を傾け、祈りの中で心を開く。そして、苦しみの時にも、失敗の時にも、「主よ、共にいてください」と祈りながら歩む――これが、キリストとの交わりなのです。
皆さん、信仰生活がただの習慣や行事になってしまっていないでしょうか? 教会に通うことも、祈ることも、形式になっていないでしょうか?
もしそうなら、もう一度、生きて働く主と出会い直してください。
キリストとの交わりの中でこそ、本当の変化が起こります。聖霊によって心が照らされ、愛があふれ、平安に包まれる。主と共にある人生は、どんなに困難があっても揺るがない力と希望に満ちているのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
「キリストを知る」こと――それは人生最大の宝です。あなたが何を持っていても、何を失っても、この一つのことを知っているなら、あなたは本当に豊かです。
主の愛に触れ、主の義に生き、主と共に歩む――それこそが、信仰生活の真髄なのです。
どうか今日、あなたの人生の中心にもう一度、キリストを迎えてください。そうすれば、あなたもパウロと同じように言えるようになります。
「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに…」
あなたの人生が、そのすばらしさに満ちあふれますように。
【第三部】キリストを知る者としての応答と歩み
親愛なる皆さん、
これまで私たちは、パウロの人生を通して「キリストを知る」ことのすばらしさを学んできました。それは、自分の義を捨てて、キリストの義に生きるという決断でした。そして、ただ一度の出来事ではなく、日々の交わりの中で深まり続ける生きた関係。それが「キリストを知る」ということです。
では今、あなたに問いかけます。あなたは、このすばらしい恵みにどう応答しますか? あなたの人生に、キリストを本当に迎え入れているでしょうか? もしそうであるなら――今こそ、しっかりとその恵みに生きる時です。
パウロは、苦難のただ中にあるフィリピの教会に向かってこう語りました。
「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」
(フィリピ4:1 )
何と愛情深い呼びかけでしょうか! これは、あの熱い魂を持ったパウロから、同じ信仰に生きる者たちへの、燃えるような励ましです。そしてこの御言葉は、二千年の時を越えて、今この場にいるあなたに語りかけているのです。
《キリストを誇りとする人生へ》
兄弟姉妹の皆さん、パウロはかつて、自分の誇りを「血筋」や「律法を守ること」や「人々からの評価」に置いていました。しかし、キリストに出会ったとき、そのすべてを「塵あくた」と呼びました。
この世は、「あなたは何を持っているのか」「どれだけの成果を上げたのか」で価値を測ろうとします。けれども、パウロは真実を見抜いていました。人生で最大の価値は、キリストを得ることにある。ただそれだけです。
あなたは、何を人生の中心に置いているでしょうか? 家庭? 仕事? 評価? 成功? それとも信仰の“実績”? それらすべてを感謝して受けつつも、最も誇るべきものとしてキリストを据えていただきたいのです。
あなたの存在の意味と価値は、キリストの中にあります。
《キリストを知り続ける飢え渇き》
「キリストを知る」とは、過去の出来事ではありません。パウロは晩年になっても、「キリストを知りたい」と語り続けていました。なぜなら、キリストの恵みと真理は、深く、広く、知り尽くせないものだからです。
兄弟姉妹の皆さん、あなたの信仰は、日々新しくされていますか? 形式だけの信仰に陥っていないでしょうか? 礼拝に出席し、祈りの言葉を口にしても、もし心が主から離れているなら、それは乾いた殻にすぎません。
主は、今もあなたに語っておられます。御言葉に耳を傾けましょう。祈りの中で主と対話しましょう。あなたの心が霊的に飢え渇いているなら、それはキリストとの交わりが必要だというサインなのです。
そして、あなたが心を開くなら、主は必ず応えてくださいます。どんなに小さな祈りであっても、どんなに短い御言葉の一節であっても、キリストはあなたの魂を新しくし、満たしてくださるのです。
《苦しみの中でも主にとどまる》
皆さん、パウロがこの手紙を書いたとき、彼は牢獄にいました。自由は奪われ、命さえ危うかった。それでも彼は「喜びなさい」「主にあって立ちなさい」と語ったのです。
なぜでしょうか?
それは、キリストの命が、どんな苦しみよりも強いからです。キリストを知る者は、苦しみの中で主の慰めを知ります。涙の中で、主のまなざしに気づきます。嵐の中で、主の御手に支えられていることを知るのです。
あなたの人生にも、今まさに試練があるかもしれません。病、孤独、失望、恐れ――でも、キリストを知る者には、決して見捨てられない希望があります。
だからこそ、私たちはパウロのように言えるのです。
「それゆえ、主にあってしっかり立ちなさい。」
この「立つ」という言葉は、ただ頑張ることではありません。信仰によって踏みとどまることです。キリストの愛と義と命にしがみつくことです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
キリストを知るということ――それは、あなたの人生を根底から変える招きです。そして今日、あなたもまたその招きに応えることができます。
主にあって立ちましょう。キリストを誇りとし、キリストと共に生き、キリストと苦しみを共にする人生を歩みましょう。あなたの歩みの先には、永遠の命と栄光が待っているのです。
「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」
(フィリピ4:1 )
この御言葉を、今日、あなたの心に刻みましょう。