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1.ペトロたちの離反を予告する
・イエスは、祈るためにゲッセマネに向かわれます。その道中で、イエスは弟子たちの離反を予告します。マタイは、弟子たちの離反・裏切りに遭いながらも、イエスはガリラヤでの再会を約束されたとマタイは記します。ガリラヤでの復活顕現を体験した初代教会の信仰がここに表明されています。
-マタイ26:31-32「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆私につまずく。「私は羊飼いを打つ。すると羊の群れは散ってしまう」(ゼカリヤ13:7)と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』」
・ペトロは「何が起ころうと自分はつまずくことはない」と言います。自分だけは違うと言い張るペトロに、イエスは「あなたは、今夜鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うであろう」と語ります。なおも言い張るペトロは、自分の弱さに気付いていません。他の弟子たちもペトロに皆追従して離反を否定します。
-マタイ26:33-35「するとペトロが『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう』。ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません。』と言った。弟子たちも皆同じように言った。」
2.ゲッセマネでの祈り
・一行はエルサレム滞在中の宿舎のあるゲッセマネの園に着きます。イエスの心は悲しみに溢れ、弟子たちの前で悶え苦しみ始めます。イエスは弟子たちに、この場に留まり、目を覚まして、祈るよう命じられます。
-マタイ26:36-38「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『私が向うへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。』」
・イエスは「この杯を取り除いてください」と祈られます。しかし、神からの返事はありません。イエスは「十字架刑があなたの御心であるならば、すべてを委ね、従います」と祈られます。その後、イエスは祈りを中断して、弟子たちの所に戻ると、彼らは眠り込んでいました。イエスは彼らの弱さを目の当たりにして、「誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈る」ように命じられます。
-マタイ26:39-41「少し進んで行って、うつぶせになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯を私から、過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりだはなく、御心のままに。』それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、私と一緒に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」
・イエスは園の奥へ再び戻り、二度目の祈りを始められます。祈りの後、イエスが弟子たちのところへ戻ると、彼らはまだ眠っていました。イエスは彼らから離れ、三度目の祈りに入られます。イエスは最初の苦悩の祈りから(完全に)立ち直り、眠っている弟子たちに語られた「さあ起きよ。立て、目を覚ませ。見よ。私を罪人に引き渡す者が、園の入り口まで来ている」。
-マタイ26:42-46「更に、二度目に向うに行って祈られた。『父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また、向うへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。』」
3.逮捕される
・祭司長たちの率いる集団が、イエスを捕えるため園の入り口まで迫っていました。彼らは武器を持ち、大勢で来ました。案内役になったユダは手順通り、イエスに接吻しようとしました。その時、イエスはユダに「友よ」と呼びかけられます。イエスにはユダに対する憐れみしかありませんでした。ペトロが剣で大祭司の手下に斬りかかり、片耳を斬り落とした時、イエスはペトロを制し諌められます「剣を取る者は剣で滅びる」。
-マタイ26:47-52「イエスが話しておられると、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長や民の長老の遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、『私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた。すぐイエスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した。イエスは、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕えた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる。』」
・「剣を取る者は剣で滅びる」、この地上の世界が軍事力の均衡で平和が保たれているのだとしたら、それは真の平和ではありません。軍事力の均衡で保つ平和は、やがて崩れます。初代教会はイエスが逃れようと思えば出来たのに、あえて逃れようとはされなかったと受け止めました。
-マタイ26:53-56「『私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。』またそのとき、群衆に言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒をもって捕えに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちは私を捕えなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。』このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」
4.私たちはこの箇所をどう読むか
・ゲッセマネの物語を通して私たちは人間の弱さを知ります。最初の弱さはイエス自身の弱さです。イエスは「死を前におののかれた」とあります。私たちはイエスの弱さに、慰めを覚えることが出来ます。私たちもまた、苦しみの杯を飲まなければならない時があります。重い病に冒される、不慮の事故で大怪我をする。仕事で大きな失敗をする。愛する人が亡くなる。人生の荒波の中で、私たちも「もだえ苦しむ」。その時、私たちはイエスさえおののかれたことを知り、慰められます。イエスが私たちの友となられたと感じるのは、私たちのために弱さを隠されなかったからです。人は苦難を通して神に出会う事があります。イエスは人として本当に苦しまれ、その中であっても神に従順あり続けられた故に、「神は復活という応答を与えて下さった」と私たちは信じます。
-マタイ27:46「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
・「目を覚ましている」ことができない私たちがそこにいます。「心は燃えていても肉体は弱い」、その弱い私たちのために「キリストは弱くなられた」。イエスは苦しみの中でも自分を閉じられず、弟子たちに弱さを見せて下さった。「大祭司イエスは、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」、まさにそこに救いがあります。
-へブル5:7「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
・ペトロはイエスが「今夜、あなたがたは皆私につまずく」と言われた時に「みんながつまずいても、私は決してつまずきません」と答えた。そのペトロはイエスが血の汗を流して祈っておられた時、眠りこけ、捕り手たちが来た時は剣で大祭司の手下に切りつけ、そして逃げ出し、大祭司の屋敷の人々に「おまえも仲間だ」と問い詰められると、「そんな人は知らない」と三度否認する。鶏が鳴いた時、ペトロはイエスの言葉を思い出し、外に出て、激しく泣きます。ペトロは自分の弱さに泣きました。この涙は、ペトロの悔い改めの涙か、洗礼の水であるのか。
-マタイ26:75「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」。
・ヨハネ福音書によれば、イエスが十字架で死なれた後、弟子たちは故郷ガリラヤに帰って、元の漁師に戻り、そこに復活のイエスが現れる。イエスはペトロに「私を愛するか」と三度聞かれる。ペトロは告白する「主よ、私がどんなにあなたを愛しているかをあなたはご存知です」。そのペテロにイエスは「私の羊を飼いなさい」と命じられた。イエスを裏切った自分に群れが委ねられた事を知った時、ペトロは生れ変わる。弱いペトロが、弱さを知り、祈り求め、主によって強くされるのです。
招詞にヨハネによる福音書21章17節を選びました。次のようなみ言葉です。
-ヨハネ21:17「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『私の羊を飼いなさい』」。
1度目と2度目もお読みします。
ヨハネ21:15,16「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。 二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。」
・イエスもペトロも同じ「愛している」を3回繰り返していますが、新約のギリシア語では1度目と2度目は、イエスの愛は神の愛アガパオーで記され、ペトロの愛は友愛フィレオーで記されています。3度目は二人ともに友愛フィレオーで記されています。イエスとペトロふたりが当時話していた言葉アラム語には『愛』を意味する言葉はありません。アラム語で実際に何と言っていたのかは不明ですが、三度、イエスを知らないと言ったペトロが自分の弱さを知り、自分の弱さを認め、その弱い自分に主イエス・キリストは、「人間は弱い存在でありながら、その人間を神は一方的に受容し、愛してくださっている。人間は既に神に愛され、赦されている。わたしに愛されているのだから、わたしを愛し続けて、『私の羊を飼いなさい』とイエスは3度ペトロに語り掛けているのです。この神との和解によって神との平和、そして隣人との平和をいただくことが出来ます。わたしたちも教会の中でお互いの弱さを受け入れ、神の赦しと愛を受け入れ、神を愛し、神との和解と平和をいただきます。神との和解と平和が隣人との和解と平和を導き出すのです。イエスも自身の弱さを隠しませんでした。神は弱い私たちを招き、神の業に参加することを赦されているのです。