江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年3月2日(マタイ18:21-35、七の七十倍)宣教:鬼澤神学生

投稿日:

https://www.youtube.com/watch?v=Fdv5T1KkrUQ

 

 

1.赦しの限界はどこにあるのか
・今日は「赦し」について考えてみましょう。私たちが誰かに傷つけられたり、裏切られたりしたとき、心の中にはさまざまな思いが巡ります。「こんなことをされたのに、また赦さなければならないのか?」「何度も傷つけられて、もう限界だ。」そんなふうに感じたことはないでしょうか?
・聖書の中で、ペトロも同じような問いをイエスに投げかけました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回まで赦せばよいのでしょうか。七回まででしょうか?」(マタイ18:21)ペトロは、七回という数字が十分な赦しの回数であると思っていたのかもしれません。あるいは、「七回も赦せば、もう十分だろう」と考えていたのでしょう。彼の心の中には、「赦しには限度があるのではないか」という思いがあったのかもしれません。
・しかし、イエスの答えは、それをはるかに超えたものでした。「七回ではなく、七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:22)これは「490回までは赦しなさい」という意味ではありません。イエスはここで、「赦しには限界を設けてはならない」と教えておられるのです。
・私たちの心は弱く、ときに赦すことが難しく感じられるものです。裏切られた痛み、信頼を壊された悲しみ、それらを乗り越えて赦すのは簡単なことではありません。でも、イエスは私たちに「赦し続けることの大切さ」を示されました。それは、ただ相手のためだけではなく、私たち自身が憎しみや怒りに囚われず、心の平安を得るためでもあるのです。
・では、どうすれば赦し続けることができるのでしょうか?その答えは、神の恵みの中にあります。私たち自身も、神に何度も赦されてきました。私たちは完全な存在ではなく、日々、過ちを犯します。それでも神は、私たちを見捨てることなく、何度でも赦してくださるのです。その愛と恵みを思うとき、私たちもまた、他者を赦す力を与えられるのではないでしょうか。
・今日、心の中に「もう赦せない」と思う相手がいるかもしれません。しかし、イエスの言葉に耳を傾け、神の恵みを思い出してください。赦すことによって、あなたの心も自由になるのです。神の愛のうちに生きる者として、今日も赦しの道を歩んでいきましょう。

2.神の憐れみと赦しの広さ
・皆さん、今日、私たちは神の赦しがどれほど広く、深いものなのかを改めて考えてみましょう。
・イエスは、ある王と家来のたとえ話を通して、この真理を教えてくださいました。このたとえの中で、一人の家来が王に対して「一万タラントン」というとてつもない額の借金を負っていました。一万タラントン——それは当時の人々にとって、想像もつかないほどの大金です。たとえ一生をかけても、いや何世代にもわたって働き続けても到底返済できる額ではありません。それほどの負債を抱えた家来が王の前にひれ伏し、「どうかお待ちください。必ずお返しします」と懇願しました。しかし、実際には返せる見込みなどありません。それでも王は憐れみを持ち、彼の借金をすべて帳消しにしたのです。
・この王の姿は、私たちの罪を赦される神の姿と重なります。皆さん、私たちもまた、この家来と同じではないでしょうか。私たちは、意識するとしないとに関わらず、神に対して数えきれない罪を犯し、到底返すことのできない「借金」を負っています。しかし、神は私たちがどれほどの負債を抱えていようとも、それを責めたり、見捨てたりするのではなく、驚くほどの憐れみをもって赦してくださるのです。それは、私たちが努力して勝ち取るものではなく、ただ神の愛と恵みによるものです。
・神はどのようにして私たちの罪を赦されたのでしょうか? それは、イエス・キリストの十字架を通してです。イエスは私たちが負うべき罪の罰をすべて引き受け、その命を捧げられました。その犠牲によって、私たちの罪は完全に赦され、神との関係は回復されたのです。これは、自分の力でどうにかできるものではありません。ただ神の恵みによって、無条件に与えられたものなのです。
・では、私たちはこの赦しをどう受け止め、どう生きるべきでしょうか? エフェソの信徒への手紙4章32節には、こう書かれています。
・「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」
・私たちは神から、はかり知れない赦しを受けました。それならば、私たちもまた、他者を赦し、憐れみをもって接する者でありたいと思いませんか? 私たちが日々出会う人々の中には、私たちを傷つける人、誤解する人、裏切る人もいるかもしれません。しかし、そのときこそ、神の赦しを思い出してください。私たちが赦されたように、私たちもまた赦す者となるのです。
・赦すことは、決して簡単なことではありません。しかし、それを可能にするのは、私たち自身の力ではなく、神の憐れみです。神の赦しを受けた者として、今日もまた、憐れみと愛をもって歩んでいきましょう。

3.赦しを忘れた家来の姿
・私たちは「赦された者が、赦す者となる」という大切な教えについて、もう一度深く考えてみたいと思います。
・イエスのたとえ話の中で、一万タラントンもの借金を帳消しにしてもらった家来がいました。彼は、決して自力では返すことのできない大きな負債を抱えていましたが、王の憐れみによって、すべて赦され、自由の身となったのです。しかし、その直後に彼が取った行動は、私たちの心をざわつかせるものでした。
・彼は外へ出ると、自分にたった百デナリオン(当時の労働者の約3か月分の賃金)を借りている仲間に出会いました。すると彼は、その仲間の首を絞め、借金を返すように激しく迫ったのです。仲間がひれ伏して「どうか待ってください。必ずお返しします」と懇願しても、彼の心は冷たく閉ざされたままでした。彼は、仲間を牢に投げ込むことを選びました。
・彼は、ついさっきまで自分が王にひれ伏し、赦しを願っていたことを忘れてしまったのでしょうか?
・彼は、自分が受けた王の憐れみを心に留めることなく、仲間には厳しい態度をとってしまったのです。
〈私たちも、この家来のようになっていないだろうか?〉
・皆さん、私たちはこの家来の姿を、ただ批判することができるでしょうか?実は、私たちもまた、同じようなことをしてしまうことがあるのではないでしょうか。
・私たちは、神から無条件の赦しを受けています。イエス・キリストの十字架のゆえに、私たちの罪はすべて赦され、神の愛の中に生かされています。私たちは自分の力で罪を償うことはできませんが、神はそのすべてを赦してくださったのです。
・しかし、その恵みを受けたにもかかわらず、私たちはどうでしょうか?誰かが私たちを傷つけたとき、誰かが私たちの期待を裏切ったとき、私たちはすぐに怒り、心を閉ざしてしまうことがあります。
・「こんなことをされたのだから、もう赦せない。」
「私は傷ついたのだから、相手にもその苦しみを分からせるべきだ。」
そんな思いが心に湧き上がることはないでしょうか?
・もちろん、傷ついた心は簡単には癒えませんし、赦すことが難しいと感じるのも当然です。しかし、そのとき、もう一度思い出したいのです。
私たちもまた、神から赦された者であるということを。
・神は、私たちのすべての罪を赦してくださいました。それならば、私たちもまた、神の憐れみに倣い、他者に対して憐れみをもって接するべきではないでしょうか?
・たとえ傷つけられたとしても、怒りや憎しみに囚われるのではなく、神の愛を思い出して、赦す道を選ぶこと。それが、神が私たちに望んでおられることなのです。
・赦しとは、決して弱さではありません。むしろ、赦すことで私たちは自由になり、神の愛の中で生きることができるのです。今日、私たちの心の中に赦しを必要としている誰かはいないでしょうか?もし心に重荷を感じているなら、神の前にその思いを持っていきましょう。そして、神の赦しの恵みをもう一度思い出し、私たちもまた、赦しの道を歩んでいきましょう。

4.赦しを通して現れる神の栄光
・では、「赦し」がもたらす祝福と、それを通して現れる神の栄光について考えてみたいと思います。
・イエスはペトロに、「七の七十倍までも赦しなさい」と教えられました(マタイ18:22)。これは単なる数字の問題ではなく、「限りなく赦し続けなさい」というイエスの深いメッセージでした。なぜ、イエスはここまで強調して赦しを教えられたのでしょうか? それは、赦しが神の愛と憐れみを現す力を持っているからです。
・赦すことは、単に相手の過ちを見過ごすことではありません。赦しとは、神の愛に基づいて相手を解放すること。そして、それは同時に赦す側の心も解放するものなのです。
・私たちは、怒りや憎しみを抱えたままでは、本当の意味で自由になることはできません。傷ついた心をそのままにしておくと、やがてそれは私たちの内側に根を張り、苦しみとなります。しかし、イエスは私たちに「赦しなさい」と命じられました。それは、私たちがただ耐えるためではなく、むしろ赦しを通して本当の平安を得るためなのです。
〈赦しは神の恵みを体験する道〉
・皆さん、赦しは決して簡単なことではありません。ときには、赦すことがあまりにも困難に思える状況もあるでしょう。しかし、神は私たちにただ「赦しなさい」と求めるだけではありません。むしろ、赦しを選ぶとき、神の恵みをより深く体験できるようにしてくださいます。
・赦すとき、私たちは不自由にしていた怒りや憎しみから解放されます。傷ついた過去に縛られていた心が、神の愛の中で癒されていくのです。赦しは、私たちに「真の平安」をもたらします。それは、何もなかったことにするのではなく、神の愛の力によって、新しい関係へと導かれるための道なのです。
・そして、もう一つ忘れてはならないことがあります。
赦しを選ぶとき、私たちを通して神の栄光が輝くのです。
・私たちが人間の力では到底できないこと——憎しみではなく愛を選び、仕返しではなく赦しを選ぶとき、そこには神の恵みが働いています。世の中では、「目には目を、歯には歯を」という考えが当たり前かもしれません。しかし、イエスは私たちに違う道を示されました。憎しみに憎しみで応えるのではなく、愛をもって応える道です。
・皆さん、今、心の中に赦しを必要としている誰かはいませんか? 赦しは決して弱さではありません。それは、神の愛の力を体験する機会です。私たちが赦しを選ぶとき、神の愛がそこに現れ、神の栄光が輝くのです。
・どうか、神の恵みによって赦しの力を受け取りましょう。そして、その赦しの恵みを通して、神の栄光が私たちの人生に現れることを信じて歩んでいきましょう。

5.赦しの力を信じて生きる
・「七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:22)
・この言葉は、単なる数字の話ではありません。それは、私たちが限界を超えて赦すことへと召されているということを示しています。人間の力だけでは難しく思えるかもしれません。しかし、イエスがこの言葉を語られたのは、私たちが神の力によって、赦しを生きることができるからなのです。
〈赦しは、神の愛を映し出すもの〉
・赦しとは、ただ相手の過ちを見過ごすことではありません。それは、神が私たちに与えてくださった憐れみを、私たちもまた他者に示すことです。
・皆さん、思い出してください。神は私たちをどれほど深く赦してくださったでしょうか? 私たちは、数え切れないほどの過ちを犯しながらも、神の憐れみによって日々赦されています。神は、私たちの罪を責めるのではなく、愛によって包み込んでくださいます。その恵みを受けた私たちは、同じように他者を赦すことへと招かれているのです。
・赦すことは、神の力によって可能となります。しかし、赦すことは簡単ではありません。ときには、深く傷ついた心が、「どうしても赦せない」と叫ぶことがあるでしょう。怒りや悲しみが消えず、赦すことがまるで自分を裏切ることのように感じるかもしれません。
・でも、ここで大切なことがあります。
赦しは、私たちの力で行うものではなく、神の力によって可能になるのです。
・イエスは、私たちに不可能なことを求めているのではありません。むしろ、神の愛が私たちの内に働くときに、赦しが実現することを教えておられるのです。神が私たちの心を癒し、赦す力を与えてくださる。そのことを信じて、私たちは赦しの道を歩むことができるのです。
〈赦しの力を信じ、歩み続けよう〉
・皆さん、今日のイエスの言葉を心に刻みましょう。私たちは、自分の力ではなく、神の恵みによって赦すことができます。そして、その赦しを通して、私たちの心は自由になり、神の愛がより深く私たちを満たしていきます。
・もし、今あなたの心に赦せない誰かがいるならば、まず神の前に出て祈りましょう。「神さま、私には赦す力がありません。でも、あなたの力によって赦せるようにしてください」と。神は必ず、あなたの心に働き、赦しの恵みを与えてくださいます。
・赦しは、決して弱さではありません。それは、神の愛が私たちを通して現れる力強い行いです。私たちが赦しを選ぶとき、そこには神の栄光が輝きます。
・今日も、神の赦しの力を信じ、赦しの道を歩んでいきましょう。あなたのその歩みの中に、神の恵みが豊かに注がれることを信じて。

 

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