1.キリスト者の自由
・ガラテヤの人々は割礼を受けなければ救われないとのエルサレム教会の伝道者の勧めで、割礼を受けようとしている。パウロは彼らに言う「割礼を受ければ、あなたはキリストと無縁の者になるのだ」
-ガラテヤ 5:1-2「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです・・・もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」。
・律法による救いとは、律法を全て守ることなのだ。しかし人には出来ない。「この小さき者にしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われて、誰が自分は無罪だと主張できよう。
-マタイ25:41-45「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ・・・この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」。
・私たちは律法を守ることは出来ない。だからキリストが死んで下さった、その恵みにすがるしかない。
-ガラテヤ5:3-5「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。私たちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。
・ユダヤ主義キリスト者たちは形のある信仰を求めた。律法は見える「割礼を受ける、安息日を守る、食べていけないと言われたものは食べない」、律法主義とは「見えるものを守ることで救いの確信を得たい」と思うことだ。彼らはキリスト者ではない、むしろキリストの福音の妨害者なのだとパウロは言う。
-ガラテヤ5:7-12「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。・・・あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます・・・ あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」。
・律法そのものは悪ではない。しかし、「律法を守れば救われる、守らない者は裁かれる」とする時に、それは悪になって行く。安息日は「休みなさい」という恵みであり、良いことだ。しかし「安息日を守らない者は呪われる」とした時、その律法が悪になって行く。割礼もそうだ。神に従うしるしとして割礼を身に帯びることは祝福である。しかし「割礼を受けない者は救われない」とする時、それは悪になって行く。人は良いものを悪に変えてしまう存在なのだ。
2.キリストの霊を受けて生きる生活
・あなたがたはキリストから自由をいただいた。その自由は「あなたがたの肉の欲を霊の愛に変える」。肉の欲は相手を自分に仕えさせようとし、愛は自分を相手に仕えさせるように導く。
-ガラテヤ5:13「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。
・キリスト者の自由は律法を否定しない。信仰によって働く愛こそが律法を全うする。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるとの言葉は真実だ。
-ガラテヤ5:14「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」。
・霊に従って歩みなさい。霊は「肉の欲」を「愛の願い」に変えるのだ。
-ガラテヤ5:16-18「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」。
・肉の業は不品行をもたらす。律法によっては、私たちは肉の欲から自由になれないのだ。
-ガラテヤ5:19-21「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」。
・霊の業は徳をもたらす。私たちはキリストと共に、肉の欲望を十字架につけたのだ。
-ガラテヤ5:22-24「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。
・原理主義者は反キリスト者となる。改心前のパウロもそうだし、キリスト教原理主義者も同じだ。原理主義者は自分とは異なる者を攻撃することによって、自分の正しさを確保する。しかし、「愛は人を責めない」、「愛は相手の罪さえも覆う」、私たちが求められているのは愛だ。
-第一ペテロ4:8「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。
3.ガラテヤ5章の黙想
・主の祈りは美しい祈りだ。私たちは祈る「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。ただある説教者によれば、「裏・主の祈り」があるという。そちらが本音に近い。
-裏・主の祈りから「側にいて下さる私の神よ。私の名を覚えて下さい。私の縄張りが大きくなりますように。私の願いが実現しますように。私に一生、糧を与えて下さい。私に罪を犯す者をあなたが罰し、私の正しさを認めて下さい。私が誘惑にあって悪に溺れても、私だけは見逃して下さい。国と力と栄えとは限りなく私のものであるべきだからです。アーメン」(平野克己、主の祈りから)。
・ルカ18章でイエスが提示されたファリサイ人の祈りはその典型だ。彼は「私の利益」しか祈らない。
-ルカ18:10 -12「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。
・これが人の本音に近い祈りであろう。しかし、イエスが肯定されたのは、ファリサイ派の人ではなく、罪びととされた徴税人の祈りだった。
-ルカ18:13-14「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
・人は自力では自我から脱出できない存在であり、自我から解放されるには、自我を十字架につけるしかない。それはキリストと共に死ぬ、キリストの十字架を背負って生きることだ。
-ローマ6:6-8「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。
・説教者村上伸は「罪からの解放」(ローマの信徒への手紙・講解)の中で述べる。
-「若い頃の私は、自分の中にうごめく肉体的な欲望を「罪」と感じていた。ローマ7章に、パウロの有名な言葉が来る「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」(7章19-20節)。この「自分の望まない悪」とか、「私の中に住んでいる罪」を、あくまでも個人の内面の問題として理解する人は少なくないであろう。キールケゴールは、「絶望が罪である」と言った。
-「しかし、私はある時、罪が「関係概念」であるということを教えられて目を開かれる思いがした。罪とは自分一人の内面の問題というよりは、他者との関係の問題だというのである。あるべき関係を歪め、互いに信じ合い、愛し合う関係を破壊するもの。それが罪なのだ。だから、バルトという神学者は罪を「高慢」に代表させた」。
-「創世記に「堕罪」の物語がある。アダムとエバが蛇に誘惑されて、神が禁じられた「善悪を知る木の実」を食べたために堕落したという話だ。この神話は、人間の根源的な罪を示唆する。善悪を「知る」とは、善悪を「支配する」ことを意味するが、人間はどうしても「神のように善悪を知る(=支配する)」(3章5節)ことを求めたがる。独裁者は特にそうだ。あたかも自分が神であるかのように、何が善であり、何が悪であるかを自ら決定し、支配しようとする。ヒトラーやプーチンはその典型だ。だがこれは彼に限ったことではない。すべての人に、もちろん我々にも、「自己絶対化」の危険がつきまとう。そして、これこそは「諸悪の根源」なのだ。地球環境の危機も、人間の高ぶりの罪が生み出した結果だ」。