1.エレミヤの神殿批判
・エレミヤ書は7章から中期預言に入ります。エレミヤが預言を始めたヨシヤ王時代は、国は政治的に安定し、経済も繁栄していました。ヨシヤ王は31年間王位にあり、国内では宗教改革を行い、国外ではアッシリアに滅ぼされた北イスラエルの一部(サマリヤ)を取り戻しました。しかし、そのヨシヤ王はエジプトとの戦い(前609年、メギドの戦い)で戦死し、その後、国をめぐる状況が流動化し始めます。ヨシヤ王の死後息子のアハズ王が即位しますが、彼はエジプト王ネコの干渉により失脚し、その兄エホヤキム(ヨヤキム)がエジプトの傀儡王として立てられます。ユダ王国はエジプトの支配下に置かれましたが、同時にバビロニア帝国の勢力が強くなり、ユダ国も親エジプト派と親バビロン派の対立で揺れ動きます。
・戦争の危機が高まり、人々はエルサレム神殿に行き、国家の安泰を祈願しました。当時の人々は「エルサレムに主の神殿がある限り、自分たちは安泰だ」と考えていました。しかし不安はあった。だから彼らは神殿に来てお参りすれば、平安が戻ると考えていました。その時、エレミヤは神殿に来た人々を批判します。それがエレミヤ7章です。エレミヤの神殿批判は26章にも並行記事がありますので、両者を並行的に読んでいきます。
・エレミヤ26章は語ります「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ『主はこう言われる。主の神殿の庭に立って語れ・・・もし、お前たちが私に聞き従わず、私が与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わした私の僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならば・・・私はこの神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする』」(26:1-6)。エレミヤ書26章以降は弟子バルクの書いたエレミヤ伝です。神殿批判に関する具体的な預言の言葉は7章にあります。エレミヤは参詣する人々に呼びかけます「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、私はお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(7:2b-4)。
・100年前のヒゼキヤ王の時代、アッシリアに攻め込まれたユダ王国は、敵軍に疫病が発生し、奇跡的に勝利しました。それ以降、「神殿に祈ればエルサレムは不滅だ」とする神話が生まれました。イザヤ書は語ります「主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かって来ることも、都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し、この都に入城することはない、と主は言われる。私はこの都を守り抜いて救う。私自らのために、わが僕ダビデのために」(イザヤ37:33-35)。エルサレム神殿が崩壊することはあり得ないと信じる人々に、エレミヤは衝撃的な預言をしました。奇跡信仰、神風信仰を否定したのです。
・エレミヤは奇跡や神風を待ち望む人々に語ります「主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」。「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、私はお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない」(7:5-8)。神殿があなたたちを護るのではなく、神が護る。しかし神は信仰を失くした民の中にはおられない。ソロモンが祈った通りです「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。私が建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王記上8:27)。神はかつて北イスラエル王国を滅ぼされ、シロの聖所も破壊されました。シロの聖所にはかつて十戒を納めた「契約の箱」が置かれた場所でした。「契約の箱」が人を守るのではなく、信仰を失った民には神の加護は与えられないのです。
・彼らは口では「主よ、主よ」と叫びますが、現実の生活では、異教の神々に香を焚き、貧しい人々を搾取し金もうけに奔走しています。そこに救いがあるのかとエレミヤは断言します。「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り。私にもそう見える、と主は言われる」(7:9-11)。
・エレミヤは神殿崩壊の預言をします。ユダヤ教の信仰の中核であるエルサレム神殿を批判することは、当時の最高権力を否定する行為であり、例えれば、戦時中に靖国神社に行き、「戦争で死んだ人の魂がこの社に集うことなどない、それは人間の造った欺瞞だ」と批判する行為です。しかしエレミヤは大胆に語ります。「私の名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、私はシロにしたようにする。私は、お前たちの兄弟である、エフライム(北イスラエル)の子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちを私の前から投げ捨てる」(7:14-15)。
・600年後にイエスが処刑された最大の理由も神殿を批判したことにありました。マルコは記します「一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ11:15-17)。イエスは怒りにまかせて商人を追い払ったのではなく、商人を追い払うという象徴行為を通して、本来の神殿のありかたを示されました。イエスはイザヤ書やエレミヤ書の預言を引用して語られます。「『私の家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである』(イザヤ56:7)。『ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった』(エレミヤ7:11)」。イエスの行為は命がけのものでした。事実、イエスはこの後に捕らえられ、裁判にかけられますが、主たる罪状は「神殿冒涜罪」でした。
2.執り成しの祈りを禁じられるエレミヤ
・神殿破壊の預言をしたため、エレミヤは神殿祭司たちに捕えられ、一時は死刑を宣告されます。「祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った。『この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました』」(26:11)。エレミヤは最後には減刑されますが(26:19)、神殿への立ち入りを禁止されます。そして主はエレミヤに、民のために執り成しの祈りをすることを禁じられます。「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげて私を煩わすな。私はあなたに耳を傾けない。ユダの町々、エルサレムの巷で彼らがどのようなことをしているか、あなたには見えないのか。子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、天の女王のために献げ物の菓子を作り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、私を怒らせている。彼らは私を怒らせているのかと主は言われる、むしろ、自らの恥によって自らを怒らせているのではないか。それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、私の怒りと憤りが、この所で、人間、家畜、野の木、地の実りに注がれる。それは燃え上がり、消えることはない」(7:16-20)。
・ヨシヤ王は宗教改革をしましたが、その子エホヤキムの時代になると、人々の信仰は形式的になり、信仰の中心が偶像礼拝、特にバビロニアの女神イシュタルト礼拝となります。人々はあまりにも厳しい父なる神の定めを避け、受容的な女神礼拝に傾いていきます。当時の人々は長子を火に奉げるモロク礼拝も行っていたようです。初子である長子を奉げることで神の関心を買おうとする異教礼拝です。「彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことを私は命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない」(7:31)。
・エレミヤは皮肉ります「あなたたちが勝手に礼拝を行うのであれば、主に捧げる『焼き尽くす捧げもの』も自分で食べたらどうか、どうせ本心から捧げていないのだから」と。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、生贄の肉に加えて食べるがよい」(7:21)。偶像礼拝とは、木や金でできた像を拝むことではなく、真の神から目を背けることです。自分たちに都合のよい神々、自分たちの欲望をかなえてくれる神々を拝むことです。彼らが求めるのは、彼らの富、彼らの健康、彼らの幸福であり、その時、隣人は見えなくなります。「神が何を与えてくれるか」のみを求めた時、その信仰は偶像礼拝になります。
3.真の捧げもの
・本当に大事な礼拝とは何か、それを考えるために、今日の招詞にルカ12:20-21を選びました。「しかし神は「『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12:20-21)。ある金持ちの畑が豊作でした。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』」(ルカ12:16-19)。原文のギリシャ語ではこの短い数節に私(ギリシャ語=ムー)と言う言葉4回も出てきます。私の作物、私の倉、私の財産、私の魂、彼の関心は私だけです。しかし、命が終る時、私の倉も、私の穀物も、私の財産も、私の魂も終ります。金持ちは自分の命が自分の支配下にあると思っていましたが、そうではありませんでした。
・私たちも老後や不治の災害に備えて貯金すれば安心だと思っていますが、命は私たちのものではない。また、努力して蓄えても、死ねばその財産は他人のものになる。何よりも、地上の財産は私たちが天の国に入るためには何の役にも立たない。だから、イエスは言われます「この金持ちは愚かではないか、本当に必要なものを持っていなかったのではないか」。私たちは良い大学に入り、良い会社に入り、良い地位を得て、良い経済生活をすることを望んでいますが、遅かれ早かれ死にます。死ぬ時には、財産も地位も名誉も何の役にも立ちません。「役にも立たないものを求め続けて生きる、それで良いのか」と問われています。「健康を与えてください、災いから守ってください、幸せにして下さい、そうすれば信じます」という信仰は、神を自分のために用いる偶像礼拝の典型です。
・では、本当の信仰、本当の礼拝はどういうものでしょうか。メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーは語ります「正直に稼ぎ、できるだけ節約し、必要以外のものは他に与えよ」。「隣人と共に生きる時、あなたは本当に生かされる」とウェスレーは語ったのです。富やお金そのものが汚れているのではなく、用い方によっては神に喜ばれるものとなる。しかし私たちがお金のとりこになった時に、それは悪に変わり得るし、人間を罪に誘うものとなる。私たちは金銭の神(マモン)から解放されなければいけない。だから私たちは痛みを感じながら、収入の十分の一を捧げる献金をするように勧められています。しかし、十分の一を捧げなければいけないと思った時、十一献金は義務になり、苦痛になります。十分の九を自分のために用いることが許されていると考える時、それは感謝と喜びの行為になります。
・礼拝が正しく行われない時、人は自分の利益のみを求めますから、必然的に社会的不正をもたらします。エレミヤは神の言葉を告げます「私は彼らに命じた『私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる。私が命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る』」(7:23)。アメリカ副大統領カマラ・ハリスさんは母親がインドからの留学生でしたが、母親シャマラは繰り返し、娘に対して語ったそうです「良い人間になるとは、自分自身の存在よりも大きな何かのために立ち上がることだ」。自分自身の存在よりも大きな何かのために、神のために働く。そのために礼拝に出て、神の言葉を聞き続ける。そして神の召しに従う決断を行う。神の言葉は私たちの生き方を問い直す力を持っています。