江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年8月1日祈祷会(申命記32章、裁きと救い)

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1.神の選びと民の背き

 

・モーセは死ぬ前に、民の為に歌を歌った。それは人々が覚え、日々口ずさむためのものであった。最初に、「主が救いの岩である事を覚えよ」とモーセは教えるが、次に「お前たちはこの主を裏切った」と言われている。明らかに国の滅びが前提にされており、バビロン捕囚後の歌であろう。

-申命記32:4-6「主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない」。

・7節から、主がどのようにして、イスラエルを御自分の民として選ばれたかが書かれる。

-申命記32:9-10「主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」。

・主は彼らをエジプトから救い出し、保護され、養われた。荒野においては主の恵みなしに生きていけない。

-申命記32:11-13「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように。・・・主はこれを丘陵の地に導き上り、野の作物で養い、岩から野蜜を、硬い岩から油を得させられた」。

・そして、約束の地、乳と蜜の流れる地へ導きいれられた。

-申命記32:14「彼らは、牛の凝乳、羊の乳、雄羊の脂身、バシャンの雄牛と雄山羊、極上の小麦を与えられ、深紅のぶどう酒、泡立つ酒を飲んだ」。

・豊かになると彼らは主を忘れた。彼らは「主とは誰か、私こそ主ではないか」と言い始める。

-申命記32:15-18「エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。彼らは他の神々に心を寄せ、主にねたみを起こさせ、いとうべきことを行って、主を怒らせた・・・お前は自分を産み出した岩を思わず、産みの苦しみをされた神を忘れた」。

・人は豊かになると自己の栄達のみを求めて、他者を忘れる。何故、神が私たちを選ばれたのかを思わない。

-エゼキエル34:2-5「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」。

 

2.神の裁きと赦し

 

・このような民に神の裁きが下る。神ならぬものを拝んだ故に、神の民でない者たちが、民を苦しめる鞭となる。主はアッシリヤやバビロニアを用いて、イスラエルを打たれる。

-申命記32:21-25「彼らは神ならぬものをもって、私のねたみを引き起こし、虚しいものをもって、私の怒りを燃えたたせた。それゆえ、私は民ならぬ者をもって、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国をもって、彼らの怒りを燃えたたせる。・・・私は、彼らに災いを加え、私の矢を彼らに向かって射尽くすであろう。彼らは飢えてやせ衰え、熱病と激しい病魔のために弱る。私は野獣の牙を、地を這うものの猛毒と共に彼らに送る。外では剣が命を奪い、家には恐れがあって、若い男と女、乳飲み子と白髪の者を共に襲う」。

・神はしかし、民を滅ぼし尽くされない。力が失せ、頼るものが無くなった時、神は彼らを再び起こされる。

-申命記32:36-39「主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる。主が見られるからである。彼らの力がうせ去り、未成年者も成人した者もいなくなったのを。・・・私のほかに神はない。私は殺し、また生かす。私は傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない」。

・救いはかつての征服者が放逐され、イスラエルが起こされる形で為される。

-申命記32:41-42「きらめく剣を研ぎ、手に裁きを握るとき、私は苦しめる者に報復し、私を憎む者に報いる。私の矢を血に酔わせ、私の剣に肉を食らわせる。殺された者と捕らえられた者の血を飲ませ、髪を伸ばした敵の首領の肉を食らわせる」。

・主はイスラエルを回復される。正義はなされる。裁きこそ救いなのだ。この信仰が旧約を貫いている。

-サムエル記下2:6-8「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた」。

 

3.痛みこそ救い

 

・東京バプテスト神学校では毎年、夏期集中講座を開いている。2008年度年は聖学院大学・平山正実先生をお呼びして、「死生学」を学んだ。先生は精神科医として診療しながら、大学でも教えておられる。講義の中で、先生は「痛みの意味」について言われた。

-平山正美「人は死や病を喜んで受入れる事が出来ない。出来れば避けたいと思う。それを人に受容させるものが痛みである。痛みは人間存在への危険信号である。人が生まれる時、母親は陣痛の苦しみの中で子を生む。子は痛みの中で泣いて生まれる。しかし、医学の進歩はこの痛みを人生から排除した。帝王切開すれば痛みなしでの分娩が可能であり、癌の痛みも緩和ケアーで抑えられる。現代人は痛みに鈍感になり、その分、死や病の受容が難しくなっている。真理(ギリシャ語アレテイア)は隠れているものを明るみに引き出すことだ。痛みに向き合う、つらくても逃げないことが大事だ。悪性の病気ほど痛みがないことは示唆的だ。死亡率の高い膵臓癌は痛みがない。ハンセン氏病も痛みがないゆえ、敗血症等を併発して死ぬ。糖尿病は沈黙の病と言われ、無症状のままで多臓器障害を引き起こす。痛みがない、災いがないことほど恐ろしいものはない。気がつかないうちに病が進行する。若い女性がリストカットする時、彼女は自分の存在を確認するため、血を流して痛みを知るために行う。痛みを持つ意味、障害が与えられた意味を再確認することが必要だ」。

・痛みを受入れる、そこから新しいものが生まれると平山先生は語る。

-平山正美「ダウン症の子を持つ父親はかつて言った「ダウン症の子を持つことによって、多くのことを学んだ。彼によって、社会と人間の本質的なことを教えられた。人は病気を通してやさしくなれるのだ。ノーベル賞を受賞した物理学者の小柴昌俊氏は中学生の時に小児麻痺に罹り、右手の麻痺が残ったため、念願であった陸軍士官学校への進学をあきらめ、研究者になった。彼は次のように語った『小児麻痺にならなければ、今日の自分はなかった』」。

・「痛みを受入れる、苦難を神から与えられたものとして受入れる時、それは「神の御心に適った悲しみ」(第二コリント7:10)となり、人に自分を見つめさせ、自分の限界を知り、その限界を超える神の御名を呼び求める契機になる。ドイツの哲学者ヤスパースは限界状況と言う言葉を用いてこれを説明する。人は限界状況(病、貧困、老、死等)に直面して自分の限界を知り、その時初めて生きる意味を問う。そこに宗教の場がある」。

・精神医学の臨床の経験から導き出された真理は聖書の語るところとまさに一致している。そのような視点から哀歌3章を読みなした時、御言葉の持つ深さを改めて知ることが出来る「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。

-哀歌3:28-33「軛(くびき)を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵(ちり)に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。

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