江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年3月28日祈祷会(申命記14章、聖なるものと汚れたもの)

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1.浄・不浄の区分

 

・民は聖なるものであるから、それにふさわしい物を食べることが求められる。

-申命記14:3-7「すべていとうべきものは食べてはならない。食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大かもしか、ガゼル。その他ひづめが分かれ・・・反すうする動物は食べることができる。ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである」。

・食べることを禁じられたものの多くは、衛生的に食物にふさわしくないもの(ひづめの分かれていない動物は直接地に足をつけて歩く)。人間の体を護る為に、食べていけないものが禁止されたのであろう。

-レビ 11:1-3「イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである」。

・排除されている動物の多くは、肉食動物(鳥では猛禽類)だ。生きるためにやむを得ず肉を食べるとしても、他の動物の肉を食べる動物は食べるなと言われている。肉食の基本は悪であり、本来のものではない。

-創世記1:29-30「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。』そのようになった」。

・全ての創造物が調和して生きることを神は望んでおられる。

-イザヤ11:6-7「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。」

・浄・不浄の規定はやがて外面だけの遵守になり、新約においては浄・不浄の規定の撤廃が行われる。

-使徒行伝10:11-15「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。『身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません』。するとまた声が聞こえてきた。「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない。」

・汚れは外からではなく、内から来る。本当の浄・不浄とは、内を清めた生き方をすることだ。

-マルコ7:14-19「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。』・・・イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。『あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる』」。

・旧約と新約は同じ事を命じている。「神が聖であるから、あなた方も清くあれ」との命令である。

-申命記14:2「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた」。

-第一テサロニケ4:3-5「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです」。

 

2.十分の一を献げる

 

・収穫の十分の一を捧げよと命じられている。土地は神の所有であり、土地の実りをもたらすのも神だから、その一部をお返しする。

-申命記14:22-23「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない」。

・神は献げ物を必要とされない。ただ献げる心を必要とされる。だから献げ物は、銀で購入したものでも良いし、かつ共に食べることが出来る。

-申命記14:26「銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい」。

・捧げものの一部は神殿に仕えるレビ人に与えよと命じられる。レビ人は主の御用をするために、嗣業の土地が与えられないからだ。ここから「十分の一献金」が、共同体を支える献金の基本として生まれた。

-民数記18:21「私は、イスラエルで捧げられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である」。

・同じく嗣業の割り当てを持たない寄留者や孤児、寡婦にも与えよと言われている。

-申命記14:28-29「三年目ごとにその年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう」。

・律法とは神を愛し、隣人を愛することだ。その気持ちが失われたら、形式的に守っても意味がない。

-ルカ12:42「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである」。

 

3.申命記14章の黙想(共に食べることの意味)

 

・イエスは「五つのパンと二匹の魚で5千人の群衆の空腹を満たされた」と福音書は語る。

-マタイ14:17-20「弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』イエスは『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚をとり、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。そして、残ったパンの屑を集めると十二の籠いっぱいになった。食べた人は女と子供を別にして、男は五千人ほどであった。」

・現代人はパンの奇跡に納得できる解釈を求める。代表的なものが、「子供が差し出した五つのパンと二匹の魚に共感した群衆の中の有志が、次々に自分のパンなどの食料を差し出したので、全員が食べられた」との解釈である。多分、そうであったのだろう。その理解から、私たちは、今持っているものを惜しみなく、差し出し、共に生きることを願う。イエスは群衆の中から、共に生きるための隣人愛の精神を導き出した。それこそがまさにイエスの起こした奇跡なのである。

・ドイツの神学者ボンヘッファーはこの箇所について述べる「我々が我々のパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りる。誰かが自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするとき、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である。二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったという福音書の中の奇跡物語は、他の多くの意味と並んで、このような意味を持っている」(「共に生きる生活」P62)。

・ボンヘッファーの言葉は印象的だ。わずかなものでも一緒に食べるとおいしい。イエス時代の食卓は貧しいものだった。大麦のパンと塩とオリーブ油、飲み物としては水か薄めたぶどう酒、魚や肉を食するのは祭りの時だけだった。しかし家族が集まって食卓を囲み、感謝の祈りの後に食事をいただき、一日の出来事を話し合う、団欒の時だった。一方、現代の私たちの食卓には肉や魚があふれているが、家族で食卓を囲むことは少なくなった。それぞれが忙しい生活の中で、勝手な時間に、カロリーを補給するだけの食事をする、そのような家庭が増えてきた。「共に食べる」、私たちが見失ってしまった豊かさがこの物語の中にある。

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