江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年12月6日祈祷会(第一コリント15章、キリストの復活と私たちの復活)

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1.復活と体のよみがえり

 

・コリント教会の人たちは「キリストの復活」は信じていたが、「体のよみがえり」は信じることが出来なかった。キリストの復活が「私たちの復活にならなければ私たちの信仰は無駄だ」とパウロは言う。

-第一コリント15:12-14「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった・・・キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。

・パウロは、キリストが体を持ってよみがえられ使徒たちの前に現れたように、人は肉体を持ってよみがえると語る。キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられている。

-第一コリント15:3-8「キリストが・・・聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。・・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」。

・体の復活を信じない人は、自分たちもまた復活することを信じることが出来ない。「キリストが復活されたから、私たちも復活するのだ」というのが、私たちへの救いの約束なのだ。

-第一コリント15:16-19「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最も惨めな者です」。

・信仰者も死ぬ。しかし、死んでも、時がきた時に、よみがえる。

-第一コリント15:20-26「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました・・・ ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られる時に、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます・・・最後の敵として、死が滅ぼされます」。

 

2.復活信仰と日々の生活

 

・コリントの人々はパウロに反論した「死んだ後のことはわからないではないか」。その疑問に答えて、パウロは種の例えを語る「種は土に蒔かれて形をなくし、一度死ぬ。その死の中から新しい命が、新芽が生まれてくる。種と新芽は違う形をとるが、それは同じ命、同じ種だ。蒔かれた種は「新芽」と言う形でよみがえり、成長して30倍、60倍の実を結ぶ。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という不思議を見ながら、死んだ人間が再び生きる不思議を何故信じないのか」とパウロは語る。

-第一コリント15:35-38「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。

・信徒の復活を信じることを通して、私たちは霊の体を着、この世の体から自由になる。

-第一コリント15:53-55「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』」。

・死のとげ、死に対する恐怖は克服されたとパウロは語る。私たちは天の命をいただくために、この地にいる。今の生は天の生のための準備と訓練の時だと考えれば良いのではないか。

-第二コリント5:1-5「私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています・・・私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、私たちは裸のままではおりません。この幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです・・・神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」。

・私たちは死んだらどうなるのか、だれにもわからない。その時、為すべきことは、「主の業に励む。主に結ばれているならば、この苦労は決して無駄にはならない」ことを確信することだとパウロは語る。

-第一コリント15:58「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。

 

3.私たちは死んだらどうなるのか(復活についての黙想)

 

・人は死んだらどこに行くのか、誰もわからない。イエスもパウロも死後の生については多くを語らない。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「現在与えられた生を懸命に生きよ」と教える。「天国と地獄」は人間の想像の賜物であり、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という発想は聖書の考え方ではない。同時に「霊魂不滅」も、聖書的な考え方ではない。日本人の死生観は「肉体は死んでも魂はあの世に行き、里帰りする」というもので、「千の風になって」というアイルランドの歌が日本でも広く受け入れられたのは、この霊魂不滅という考えを共にするからだ。この考え方は日本人の情緒に訴えるが、何の根拠もなく、単に人間の願望(死というこの世の別れを経験しても、霊魂として愛する者たちとの再会を願う)を反映したものに過ぎない。

・私たちの肉体は朽ちる。クリスチャンも、そうでない人も同じく死ぬ。しかしキリストを信じる者はよみがえる。復活がないとすれば、私たちの生涯は死で終わり、怯えて暮らすしかないだろう。「われは身体のよみがえり、とこしえの生命を信ず」、使徒信条の一節だ。ここに私たちの信仰がかかっている。そして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と約束されている。

-矢内原忠雄「人の復活と国の復活」より「エゼキエルは敗戦の悲しみにある同胞に対して、『枯れた骨が生き返る』という復活の信仰を語りました(エゼキエル37:11-12)。今度の戦争によって、世界の至る所に、谷にも平野にも、海の底にも町にも、枯れた骨が散乱しました。これらの枯れた骨が生きた人として生き返るということは、驚くほど大きな言葉であります。科学はもちろん、これを否定するでしょう。しかし、科学の否定によって否定しきれない魅力が、この思想の中にあります。我々の愛する者の骨が白く戦場に散乱した時に、我々を慰めて、生きる力を与え、希望を与えてくれるものは、この信仰であります。「復活」を信じるならば、私どもに命があり、私どもは、再び起ち上がります。イエス・キリストによる復活の信仰、それだけがこの敗戦の焦土に立つ尽くす私どもに根本的な解決を与えてくれる」。

・終末期医療の先駆者だったキューブラー・ロス(1926〜2004)は、難民救済の奉仕団で赴いたポーランドのマイダネク強制収容所で、不思議なものを見る。虐殺された29万人もの子供たちが、人生の最後の夜を過ごした収容棟に入ってみると、その壁には子供たちが爪や石やチョークの破片で刻んださまざまな絵が残っていた。いちばん多く目にとまったのが蝶の絵である。どうして多くの子供たちが蝶を描いたのか、その時の彼女はわからなかった。やがて医師となって多数の死にゆく人を看取りながら、キューブラー・ロスは悟る。肉体はサナギのようなもので、それが修理できないくらい壊れてしまうと、内部の蝶、すなわち魂を解き放つのだ、と。彼女は言う「学ぶために地球に送られてきた私たちが、学びのテストに合格した時、卒業が許される。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、魂を閉じこめている肉体をぬぎ捨てることが許され、時が来ると、私たちは魂を解き放つ」(『人生は廻る輪のように』)。

・キューブラー・ロスの復活理解はパウロの理解に近い。どのように復活するかは、誰も知らない。パウロは語る「種が蒔かれて成長する時、種の姿と生育した植物の姿は異なるが同じ生命体であるように、自然の体が霊の体として復活しても、人格は同じ個人なのだ」と。

-第一コリント15:42-44「死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」。

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