江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年8月30日祈祷会(第一コリント1:18-31,誇る者は主を誇れ)

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1.誇る者は主を誇れ

 

・パウロはコリント教会に手紙を書いた。教会内で分派争いがあったからだ。コリントは世界有数の大都市で、「歓楽の市」と呼ばれていた。人口の70万人のうち50万人は奴隷であり、格差社会だった。当然、コリント教会のメンバーになった人たちには、下層階級の人々が多かったとみられる。

-第一コリント1:26「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。」

・教会内には、奴隷の信徒も多かった。当時の奴隷は「生きた道具」であり、主人は役に立たなくなった奴隷を棄てることも、殺すこともでき、奴隷の子供は主人の財産になった。その中で多くの奴隷たちが個人の人格を認める福音に惹かれて行った。インドでは人口の3%、3000万人がクリスチャンであるが、多くは指定カースト(不可触民)の人々だと言われている。コリントと同じ状況だ。

-ガラテヤ3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」

・神は「何者でもない者」を選ばれた。それは人の知恵ではなく、神の知恵を示すためだ。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のである。パウロは自らの知恵を誇る人たちに警告する。

-第一コリント1:27-29「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」

・宣教者も人間だから多くの破れを抱えている。その宣教者を見るから、「私はパウロへ」「私はアポロへ」と争う。「あなたのために死なれたキリストだけを見よ」とパウロは語る。

-第一コリント1:30-31「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

 

2.十字架こそ神の知恵だ

 

・パウロはキリストの十字架こそ神の知恵だと語る。

-第一コリント1:22-24「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。

・キリストは十字架で殺された。処刑された人間が、「神の子」、「メシア」であると主張することは、世の人びとから見れば、愚かであり、信じがたい事柄だ。しかし「神はイエスをあえてこの十字架につけられ、そのことを通して人間に悔い改めを迫られた」とパウロは語る。人間は有史以来戦争を続けてきた。人間は戦争を、殺し合いを止めることが出来ない。殺し合う、相手を排斥することこそが人間の本質であり、それを文字通りに実行したのがキリストの十字架刑だとパウロは語る。

・「殺さなければ殺される」、競争社会に生きるとはそのような生き方だ。その人間が十字架に直面して、おのれの罪を知らされ、救いは人から来ないことを知り、神の名を呼び求めるようになる。だからこそ十字架が、「神の知恵」、「神の力」になりうる。十字架は救いのしるしではなく、絶望のしるしだ。イエスは十字架上で「わが神、何故私を棄てられたのか」と叫んで死んで行かれた。しかし神はそのイエスを十字架死から起された。「神は悪を善に変えられた、絶望が希望に変えられた」、それを知った時、「私はパウロに」、「私はアポロに」、という言葉が出るはずがない。

・教会は世にあるが、世と一線を画す神の国共同体だ。世にある故に、世の霊と行いが教会の中に入り込んでくる。「自己実現」という世の知恵の本質が、あたかも人間の理想のように思えてくる。ウィリアム・クラークは語った「Boys, be ambitious in Christ」、クラークが語ったのは、自分のためではなく、“キリストのために大志を抱け”と語る。しかし世の人はこの「in Christ、キリストのために」を省いて伝えた。「in Christ」を削除した時、教会はこの世の団体と何も変わらない場になる。教会は会員が「自己実現する」、「自分の正しさ」を主張する場ではなく、「神の正しさ」を賛美する場だ。神の正しさという視点から見ればパウロもアポロもただの人にすぎない。

・パウロは語る「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(1:28)。コリント教会では多くの奴隷たちが教会に導かれ、信徒になって行った。教会は奴隷の人格を認め、彼らを人間として扱ったからだ。パウロは語る「(教会では)もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)。

・当時の奴隷は「生きた道具」であり、主人は役に立たなくなった奴隷を棄てることも殺すことも自由であった。その中で多くの奴隷たちが自分たちの人格を尊重してくれた教会に惹かれて行ったのは当然だ。コリントと同じ出来事がインドでも起きている。インドでは人口の3%、3000万人がクリスチャンだが、多くは指定カースト(不可触民)の人々だと言われている。インドに最初に宣教を行ったのはフランシスコ・ザビエルで、彼は貧しい人々に福音を伝えた(沖浦和光「宣教師ザビエルと被差別民」から)。ザビエルはインドにコリント教会を見出した。

・アメリカでも同様だ。マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年以上になる。アメリカでは黒人も法的には平等が保障され、黒人初の大統領も誕生したが、人々の心に潜む差別の意識や白人との格差はいぜん根強いままだ。キング牧師の追悼式典に集まった参加者の一人は語る「メンフィスでは、全米各地から集まった約1万人が『I AM A MAN』(私は人間だ)と書かれたプラカードを掲げて行進しました。私も作業員として当時のストに参加しました。それは『人間としての尊厳を取り戻す闘いだった。キング牧師のおかげで今の私がいる』(2018年4月6日朝日新聞より)。

 

3.第一コリント1章の黙想

 

・玉川キリスト教会・福井誠牧師はコリント1章を次のように読む。

-聖書一日一章から「人間は、元々裸である。しかし、成長の過程で、学歴、仕事、地位、伴侶、財産など様々なものを身に着け、そんな着膨れした自分を自分と思い、他人も自分もそれらの付属物を通して見るようになっている。しかし、本当のところ自分は裸なのだ、全ては与えられたものに過ぎず、弱さと罪性を抱えながら生きている者のだ、という現実を受け入れ、お互いに理解し、受け入れ、支えあう気持ちを大事にすべきなのである。」

・教会は人間としての尊厳を取り戻す場だ。今日の日本で、コリントの奴隷たち、インドの指定カースト、アメリカの黒人と同じような立場にあるのが「非正規労働者」といわれる人たちだ。日本は豊かな国と誤解されているが、実際は貧困率16.1%、およそ2千万人が貧困層と言われている(現代の貧困は相対的貧困、人としてふさわしい生活を送れない状態を指す)。日本では正規雇用者の平均所得は503万円だが、非正規雇用では175万円にすぎない。そして労働人口の37%、2000万人が非正規雇用者として働いている。危急の時には食べていけない水準に3割以上の人が追い込まれている現実の一端を、2009年の「年越し派遣村」で私たちは見た。不況に伴う人員整理で職場も住む所も失った人々が何百万人も出現した。今回のコロナ禍でも同じ現象がみられている。無料の食糧配布に多くの人が行列をしている。その人々に対して教会は何かができる、2千万人の人が「正義の福音」を求めている。

・私たちはイエスの言葉の中に人生を生きる力を求めて聖書を読む。「人はパンだけで生きるのではない」(マタイ4:4)、「悲しむ人々は幸いだ、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。偉大な言葉だ。しかしそれ以上に偉大な言葉があるパウロは教える「私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(2:2)。神学者モルトマンも語る「私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる」(モルトマン「無力の力強さ」)。復活されたイエスの最初の言葉は「ガリラヤに行きなさい」だった。ガリラヤとはガーリール(周辺)、周辺に行け、現場で生きよ、自分のためだけではなく、隣人と共に生きよとのメッセージに従う時、私たちは「生けるキリスト」、「十字架を担ったままのキリスト」と出会う。

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