江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年8月2日祈祷会(使徒言行録26:1-32、パウロの最後の弁明)

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1.アグリッパ王の前でのパウロの証し

 

・総督フェストウスは、パウロを牢に止め置き、対ユダヤ人政策の道具にしようとした。それに気付いたパウロはロ-マ皇帝への直訴に踏み切る。フェストウスはユダヤ人の宗教に詳しいアグリッパ王の来訪を機に王に助言を求め、王は裁判に出席した。アグリッパ王の前でパウロの裁判が始まった。

-使徒26:1-3「アグリッパはパウロに、『お前は自分のことを話して良い』と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。『アグリッパ王よ。私がユダヤ人に訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王はユダヤ人の慣習も論争点もよくご存知だからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。』」

・パウロにやましさは何もない。彼はアグリッパ王を前に弁明を始めた。

-使徒26:4-6「『さて、私の若いころからの生活が、同朋の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初からどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中で厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。』」

・パウロが属していたファリサイ派は「終末の日における復活」(ダニエル12:1-3)を信じていた。パウロは「イエスの復活こそが終末が来たことのしるし」であると証言する。

-使徒26:7-11「『私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。』」

・「かつての自分の熱心の方向性は間違っていた。復活のイエスに出会ってそれがわかった」。パウロは自己の回心体験を、反省を込めて証ししていく。狂信は人を神から離れさせ、異端審問官に変えてしまう。

-使徒26:9-11「『実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者を牢に入れ、彼らが死刑になる時は、賛成の意志表示をしたのです。また、至る所の会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するよう強制し、彼らに対して怒り狂い、外国の町のまでも迫害の手を伸ばしたのです。』」

・そのパウロに、ダマスコ途上で復活のイエスが現れる。

-使徒26:12-15「『こうして私は・・・ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです・・・私たちが皆地に倒れた時、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う」と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、「主よ、あなたはどなたですか」と申しますと、主は言われました「私はあなたが迫害しているイエスである。」』」

・パウロは復活のイエスに出会ったことをコリント書の中でも証ししている。

-第一コリント15:3-9「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです・・・そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」。

 

2.パウロ、自分の回心を語る

 

・地に倒れたパウロに、イエスは「起き上がれ、私の証人となれ」と命じる。

-使徒26:16-18「『起き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを証人にするためである。私は、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとへ遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして、彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

・パウロは主の伝道者になり、ユダヤ人たちからは、「背教者」として命を狙われるようになった。

-使徒26:19-23「『アグリッパ王よ、私はこういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人は、神殿の境内にいた私を捕えて殺そうとしたのです。私は・・・預言者たちやモ-セが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。』」

・パウロはガラテヤ書でも復活のイエスとの顕現体験を述べている。

-ガラテヤ1:15-17「私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた時、私は、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、私より先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」。

 

3.パウロ、アグリッパ王に信仰を勧める

 

・世の人々は、「十字架の贖いを信じ、復活に希望を置くことは愚かだ」と考える。証明できない出来事を信じることなどできないからだ。総督フェストウスもそう考えた。

-使徒26:24-25「パウロがこう弁明していると、フェストウスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。』パウロは言った。『フェストウス閣下、私は頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです』」。

・パウロはアグリッパ王に入信を勧めたが、王はパウロの宣教に心が動かされない。知的で教養があり、現在に満足している者は、福音の言葉を聞こうとはしない。「間に合っている」からである。

-使徒26:26-29「『王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申しあげます。このことは、どこかの片隅で起こったことではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。』アグリッパ王はパウロに言った。『短い時間で私を説き伏せてキリスト信者にしてしまうつもりか。』パウロは言った。『短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが』」。

・アグリッパ王による審問が終わった。パウロの熱弁も総督や王を動かすことはなかった。

-使徒26:30-32「そこで、王が立ち上がり、総督やベルニケや陪席の者も立ち上がった。彼らは退場してから、『あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない』と話し合った。アグリッパ王はフェストウスに、『あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに』と言った。」

・W.H.ウィリモンは使徒言行録注解の中で述べる「私たちの証しは往々にして、『私は惨めでした』、『その私がイエスを見出した』、『今、私の生活は満たされ、私は幸福だ』というパターンになり、証しの主語は『私』となる。しかしパウロの証しは異なる『私はキリストの伝道者になることによって石を投げられた』、『私は今鎖につながれて囚人となっている』、『やがて行くローマで処刑されることも覚悟している』。パウロはそのことを卑下しない。パウロの証言の主題は『キリスト』であって、『パウロ個人ではない』」。「キリストがして下さったことを証しする」、その証しの方法を私たちは学ぶべきだ。

・証しの主語は「私」ではなく、「キリスト」であることを、ウィリモンはパウロから学んでいる。イエスの復活は科学的に証明できる事柄ではなく、「復活の主に出会う」という体験をして初めてわかる出来事だ。だから証しが必要になる。イエスはパウロに語られた「起き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」(26:16)。復活の主はパウロに顕現されたが、私たちにも顕現され、私たちが証し人として生きることを命じておられる。

・使徒言行録注解の翻訳者中村博武氏は述べる「使徒言行録は過去の物語である。それはこの世の支配の中で、信仰によってあるべき世界を呼び起こし、その世界を目指してきた人々の物語である。その背後に意味と一貫性を与えている活動主体は神である。この物語は復活の主が今も生きて働いていることを証しすることにより、私たちに新たな世界観を提示し、新たな現実を開示し、私たちの人生を変革する力を持つ」。ローマ総督がイエスを処刑し、ローマ皇帝がパウロを処刑しても、福音を語る者を沈黙させることは出来なかった。福音は「キリストにある愚者」を作り出し、彼らが「復活の主が今も生きて働いておられる」こと証し続けてきたからだ。「ヴィジョンを与えられて、死ぬ気になって生き始めた時、主の声が聞こえ、道が開ける」体験を私たちはする。私たちがキリストにある愚者としての役割を継承したその時、使徒言行録は今も続く証しの書となる。

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