江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年7月26日祈祷会(使徒言行録25:1-27、パウロ、皇帝に上訴する)

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1.パウロ、皇帝に上訴する

 

・パウロは2年間カイサリアのローマ総督府に幽閉された。パウロを処刑する根拠はなく、逆に釈放すればユダヤ人が騒ぐ。「あなたはローマで私を証しせよ」(23:11)と約束された主は沈黙しておられる。パウロにとっては試練の時だった。しかし、主は事態を打開される。総督の交代により、状況は動き始める。紀元60年総督フェリクスが地位を追われ、後任総督フェストゥスが赴任した。ユダヤ教指導者たちは新総督に、「パウロをエルサレムで裁判にかけよ」と求めた。

-使徒25:1-3「フェストゥスは、総督として着任して三日たってから、カイサリアからエルサレムへ上った。祭司長たちやユダヤ人の主だった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいとフェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。」

・ユダヤ人たちはパウロをエルサレム途上で殺害しようと企んだが、新総督からカイサリアに来て訴えるよう勧められ、企みは頓挫した。

-使徒25:4-5「フェストゥスは、パウロはカイサリアで監禁されており、自分も間もなくそこへ帰るつもりであると答え、『だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、私と一緒に下って行って、告発すればよいではないか』と言った。」

・フェストスが始めた裁判で、ユダヤ人たちはパウロの罪を訴えたが、何一つ立証できず、逆に訴えられたパウロが堂々と無実を主張する皮肉な結果となった。

-使徒25:6-8「フェストゥスは・・・カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すよう命令した。パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。パウロは、『私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません』と弁明した。」

・新総督フェストスも前総督フェリクスと同様、ユダヤ人の歓心を買おうとして、パウロにエルサレムでの裁判を勧めたが、パウロは皇帝への上訴を希望した。

-使徒25:10-12「パウロは言った。『私は皇帝の法廷に出ているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。私はユダヤ人に対して何も悪いことはしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、『皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとへ出頭するように』と答えた。』

・パウロは前に進むためであれば、カイサリアでの長い幽閉にも耐えた。しかし、事態が後戻りするのであれば、合法的手段を活用して道を開く。パウロがロ-マ皇帝への上訴を決意したのは、エルサレムで裁判が行われれば、ユダヤ人たちの恣意で不正な裁判が行われると考えたからだった。当時のローマ皇帝はキリスト者迫害者として悪名高い「ネロ」(在位54-68年)だった。彼の下で裁判を受けるのもまた危険な行為だったが、パウロはあえてその道をとった。田中正造が足尾鉱毒事件で明治天皇に直訴して取り押さえられたように、パウロの上告も賭けに近いものであったかも知れない。

*田中正造は帝国議会議員で、足尾鉱毒事件の被害者救済のために働いていたが、合法的活動では事態が進展しないため、1901年に天皇への直訴を行った。その後、議員を辞め、1913年に死去。遺品には新約聖書があった。

 

2.パウロ、アグリッパ王の前に引き出される

 

・新総督に挨拶するためにユダヤ王アグリッパ二世が訪ねてきた。彼はヘロデ大王のひ孫であり、祖父ヘロデ・アンティパスはバプテスマのヨハネを殺し、イエスの裁判にも臨席した。父ヘロデ・アグリッパは使徒ヤコブを殺している。ヘロデ家は初代教会とは因縁の家系だった。そのアグリッパ王に総督フェストゥスがパウロのことを相談する。

-使徒25:13-16「数日たって、アグリッパ王と妹ベルニケが、フェストスに敬意を表するためにカイサリアに来た・・・フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して言った。『ここにフェリクスが囚人として残していった男がいます。私がエルサレムへ行った時に、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです。私は彼らに答えました。「被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはロ-マ人の慣習ではない」と』」

・フェストゥスはパウロとユダヤ人を法廷で対決させた経過をアグリッパ王に説明した。

-使徒25:17-19「『それで、彼らが連れ立って当地へ来ましたから、私はすぐにその翌日、裁判の席に着き、その男を出廷させるよう命令しました。告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、私が予想していたように、罪状は何一つ指摘できませんでした。パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者・・・が生きているとパウロは主張しているのです。』」

・フェストゥスの説明で、パウロに興味をもったアグリッパ王は裁判への出席を希望した。

-使徒25:20-22「『私はこれらのことの調査の方法が分からなかったので、「エルサレムへ行き、そこでこれらの件に関して裁判を受けたくはないか」と言いました。しかし、パウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここに留めておいてほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに護送するまで、彼を留めておくように命令しました。』」

・翌日、盛装したアグリッパ王とベルニケをはじめ、千人隊長たち、町の長老など多勢を裁判に同席させ、自らの権威を誇示したフェストゥスは、裁判を公正に行うと宣言した。

-使徒25:23-26「翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町の主だった人々と共に謁見室に入ると、フェストスの命令でパウロが引き出された。そこでフェストスは言った。『アグリッパ王、ならびに列席の諸君、この男を御覧なさい。ユダヤ人がこぞって生かしておくべきではないと叫び、エルサレムでもこの地でも私に訴え出ているのは、この男のことです。しかし、彼が死罪にあたるようなことは何もしていないということが、私には分かりました。ところが、この者自身が皇帝に上訴したので、護送することに決定しました。しかしこの者について確実なことは、何も陛下に書き送ることができません。そこで、諸君の前に、特にアグリッパ王、貴下の前に彼を引き出しました。よく取り調べてから、何か書き送るようにしたいのです。』」

 

3.使徒25章の黙想

 

・苦境に立たされたパウロは、堂々と無罪を主張した。それを為さしめたのは彼の信仰である。イエスは苦境に立った時のあるべき信仰を教えている。

-マタイ10:17-20「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しすることになる。引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。その時には言うべきことは教えられる。実は話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語って下さる父の霊である。」

・パウロはローマ法に反する罪は犯していない。彼らが争っているのは「死んだイエスが今も生きているかどうか」という彼らの宗教内部の出来事なのだと総督はアグリッパに言う。フェストゥスは偶然にも、福音の本質を言い当てた。ローマ総督や大祭司は「イエスは死んだ」と認識しているが、パウロは「イエスは生きている」と主張する。復活とは「かつて起こったかではなく、イエスが今も生きておられるかどうか」が争点になっている。私たちにとっても、根源的な問いだ「イエスは今も生きておられるのか」。

-ヨハネ11:25-26「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」

・キリスト者はイエスが受難に会われたように、苦難に会う。そのことの意味を中世の修道士トマス・ア・ケンピスは著書「キリストに倣いて」の中で次のように語る。

-キリストに倣いて「時として試練や困難に合うことは、私たちにとって良いことです。何故ならそれによって、私たちは見習い中の身であり、この世のいかなるものにも希望をおくべきではないことを忘れずに済むからです。親切に、よかれと思ってしているにもかかわらず、人々から誤解されたり、反発に見舞われたりするのも良いことです。これらのことは、私たちがへりくだり、むなしい栄光から自らを守るのに役立つからです。表面上は誰からも認められない時、誰からもよく思われない時、そのような時こそ私たちは心をご覧になられる神を一層求めるようになります。ですから、人は人間からの慰めを必要としないですむように、神のなかに堅く根を張るべきです。」

・アグリッパ王は終始ローマ側に立ってユダヤを支配したが、紀元70年のユダヤ戦争でユダヤはローマの直轄領とされ、アグリッパ王は引退を余儀なくされ、ヘロデ家の支配は彼で終了した。人は役割を終えたらこの世から退出するのである。使徒言行録の主人公パウロは紀元60-62年頃、ローマで殉教したとされる(年齢は56-59歳)。パウロは多くの書簡を書いたが(ローマ、コリント、テサロニケ等)、死後の60年以降書かれた書簡は「パウロの名による手紙」(コロサイ、エペソ、テモテ、テトス等)と呼ばれ、弟子たちの書いたものとされる。

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