1.パウロ、マケドニアとギリシアに行く
・パウロは困窮しているエルサレム教会への献金を届けるために、エルサレムに向かった。パウロたちの設立した異邦人教会は伝道方針をめぐって母教会のエルサレム教会(ユダヤ人教会)と対立しており、和解のためにパウロは異邦人教会からの献金をエルサレムに捧げる計画を進めていた。
-ローマ15:27「異邦人はその人たち(エルサレム教会)の霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」。
・エルサレムへの旅には、アジア州とマケドニア州の教会の代表者も同行した。当初はコリントから船出する予定であったが諸事情により、マケドニア経由となった。このコリントでの三か月間の滞在の時に、ローマ教会への手紙が書かれた、
-使徒20:1-4「(エフェソでの)騒動が治まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてから、マケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽して人々を励ましながら、ギリシア(コリント)に来て、そこで、三か月を過ごした・・・同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった」。
・パウロたちは旅の途中にトロアスに立ち寄り、主日礼拝の時を持った。信徒たちは主日ごとに集まって、主の晩餐式を持ち、説教を聴いた。その時、一人の若者が居眠りをして、三階の会堂から落ちてしまった(20:7-9)。当時、日曜日は休日ではなく、人々は昼間働き、夕方に集って愛餐の時を持ち、その後に宣教を聞いた(20:7「パウロの話は夜中まで続いた」)。昼間の労働の疲れもあり、徹夜での礼拝に疲れた一人の若者が居眠りをし、三階の窓から落ちたのであろう。礼拝は中断された。パウロは若者の手当てをした後で、三階に戻り、礼拝を続けた。礼拝は中断されることはあっても、止めることはありえない。
-使徒20:10-12「パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。『騒ぐな、まだ生きている。』そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」
2.エペソ教会の信徒との別れ
・一行はトロアスを出て、ミレトスに来た。
-使徒20:14-16「アソスでパウロと落ち合ったので、私たちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次ぎの日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬節にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。」
・パウロはミレトスにエフェソ教会の長老たちを呼び、別れの時を持った。エフェソの長老たちへのパウロの別れの挨拶は、次第にパウロの心中を吐露する言葉になっていった。パウロの遺訓である。
―使徒20:17-21「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来た時、パウロはこう話した。『アジア州に来た最初の日以来、私があなたがたとどのように過ごしてきたかは、よく御存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えして来ました。役に立っことは一つ残らず公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも証ししてきたのです。』」
・パウロはエルサレムに戻れば、迫害が起きることを予期している。ユダヤ教徒は、キリスト教の伝道者になったパウロを裏切り者として、命を狙っていた。それでも彼は霊に促されてエルサレムに戻る。
-使徒20:22-24「『そして今、私は、“霊”に促されてエルサレムへ行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。』」
・「霊に促されて」、パウロはエルサレムに向かう。エルサレムはユダヤ教の中心地であり、パウロはかっては熱心なユダヤ教徒であった。その彼がキリストと出会い、キリストの宣教者に変えられた。エルサレムのユダヤ教徒たちは、パウロを裏切り者としてその命を狙っている。しかし、「たとえ死の危険があろうとも主が行けと言われるのであれば私は行く」とパウロは語る。
・キリシタンが禁止され、迫害された江戸時代初期、多くの外国人宣教師たちが、見つかれば殺されるという状況の中で日本に潜入し、殺されていった。人々には牧会者が必要だとの信念に突き動かされてである。遠藤周作の描く「沈黙」(1966年)はそれを題材とする。宣教の召命感が彼らを危険な日本に送った。パウロも同様で、彼はその後エルサレムで捕縛され、カイザリアで投獄され、ローマに移送され、そこで処刑されて死ぬ。著者ルカはそのことを知っており、彼の殉教の生涯をここに反映させている。
・パウロは、残るエフェソ教会の人々のことが気がかりだ。外部の敵以上に、内部から異端や異なる福音を述べ伝える者が来て、教会が混乱することを心配している。
-使徒20:28-29「『どうか、あなたがた自身と群れ全体に気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。私が去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。』」
・パウロは身内からも異端者が出て、弟子たちを惑わせるであろうと警告する。
-使徒20:30-32「また、あなたがた自身の中からも邪説を唱えて、弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神と恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。この言葉はあなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がれることができるのです。』」
・パウロの心配は杞憂ではなく、テモテ書は異端による混乱がエフェソで起きたことを伝えている。エフェソ教会を混乱させたのは「グノーシス」と呼ばれるギリシア的福音だった。彼らは人が肉体を持ち、肉の欲を持つこと悪が生じるとして、肉を捨て、霊に生きることを主張し、断食し、性的交わりを避けることを勧めた。彼らはキリストが肉を持って来られたことさえ否定し、十字架の死も復活をも否定するようになる(第一テモテ1:3-6「マケドニア州に出発する時に頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように」)
3.伝道者パウロの生きざま
・パウロは自分の職業で自分の生活費を稼ぐ、自立型の伝道者だった。「受けるより与える方が幸いである」とのイエスの言葉は、パウロの生き方を示している。
-使徒20:33-35「『私は、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が「受けるより与える方が幸いである」と言われた言葉を思いだすようにと、私は身をもって示してきました。』」
・パウロが最後に、「もうこの世で再び会うことはあるまい」と語ると、一同の目に涙が溢れた。
-使徒20:36-38「このように話してから、パウロは皆といっしょにひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。」
・パウロは今まさに、伝道者の生涯を駈け抜けようとしている。それは彼が選んだ生涯ではなく、神に選ばれ、神に命ぜられた、生涯だった。パウロは福音のために生き、「福音のためなら死んでもよい」と決心していた。彼は帰国したエルサレムでユダヤ教徒に襲われ、2年間カイザリアで投獄され、獄中からローマ皇帝に上訴したため、ローマへ回送され、その地で処刑された。殉教の生涯だった。
-ロ-マ14:8「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものなのです。」
・イエスが来たのは新しい哲学を教えるためではなかった。イエスは弟子たちに「新しい生き方」を教えた。だからパウロも語る「私はいつも身を持って示してきました」。イエスの教えの真実性は彼に従って行った人々の真実性によって証明される。パウロは「(私は)自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と語った。パウロの後に従うのは、マザー・テレサであり、マルティン・ルーサー・キングであり、そして私たちだ。その決心を示すために私たちは洗礼を受けた。