1.ローマの信徒への手紙
・復活節第二主日の今週から、「ローマの信徒への手紙」を聴いていきます。この手紙は、パウロ自身が訪れたことない、ローマの「家の教会」に宛てた手紙です。ギリシア語で書かれたこのローマ書はマルチン・ルターやカール・バルト、内村鑑三らに大きな影響を与えた書簡です。ルターはローマ3:28「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」との言葉から、「信仰のみ(ソラ・フィデ 、Sola fide)」の真理を見出して、宗教改革を始める契機になりました。現代神学の祖といわれるカール・バルトの出発点もこのローマ書です。バルトは第一大戦後の信仰の荒廃の中で(キリスト者同士が殺し合いをした、何故だ)、ひたすらローマ書を読み込み、その成果を1919年に出版し、当時の神学を書き替えていきました(1919年「ローマ書」第一版、22年第二版)。この書が何故そんなにも大きな影響を与えて来たのか、それは中心の課題が、「人はどのようにして救われうるのか」になっているからです。
・この手紙を書いているパウロは港町のコリントでエルサレム教会へ行くための船を待っています。異邦人教会からのエルサレム教会への献金を持参するためです。パウロの身体はエルサレムへ、心はローマに向いています。手紙の宛先はローマの信徒たちです。最初期のキリスト者たちはユダヤ教ナザレ派としてユダヤ教会堂(シナゴーグ)で活動していたようです。そのため、会堂内でユダヤ教徒とキリスト教徒の対立で騒乱が起こり、時の皇帝クラウディウスは49年ローマからユダヤ人を追放します。アキラとプリスカ(愛称プリスキラ)もローマを追放されコリントに移り、後にエフェソへ移ってパウロと共にテント造りをしながら宣教の働きをします(16:3)。パウロはこの夫妻からローマ教会の状況を聞いていたと思われます。
2.ローマ教会への挨拶
・パウロは自らをキリスト・イエスの僕(デュウーロス・絶対服従の奴隷)と記し、福音(良い知らせ)を宣べ伝えるために選ばれた人(使徒)、神の選び・召命があったと自己紹介の挨拶をします。パウロは福音のために聖なる者とされ、「聖別され」ました。献身は神の選びに対する人間の応答です。選び別つのは神のみであり、神は僕を聖別され、パウロはそれに献身をもって応じました(1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから)。
・預言者は神が人々を救うメシアを遣わすという神の約束について語りました。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(イザヤ9:5-6)。福音は人間の手によるものではなく、神からのもの、神に属するもので、神は救いの成就のためにイエス・キリストを遣わされました。パウロは記します「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」(1:1-2)、神から出、預言され、キリストを中心とする福音は、そのままキリスト者の規範となります。パウロとローマの信徒を結ぶものは、「私たちのイエス・キリスト」です。「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです」(1:4)。
3.ローマ訪問の願い
・パウロは挨拶の言葉の後、ローマ教会の信仰が全世界に言い伝えられていることを感謝し、ローマ訪問の強い希望を記します。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について私の神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。私は、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、私は、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(1:8~10)。パウロは続けます「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたと励まし合いたいのですと。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたと私が互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」(1:11~13)
・パウロはギリシア語を話さない西方地域(イスパニア等)の人々を含めた伝道を志し、その拠点としてローマに行くこと熱望しています。「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(1:14-15)。彼は語ります「私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(1:16)。福音は「イエスの十字架と復活を通して、神が救済の業を示された」という喜ばしい知らせです。かつてパウロはギリシアのアテネで説教し、「神はイエスを死人から甦らせ、その救済の業を示された。」と説教しましたが、アテネの人はあざ笑いました「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った」(使徒17:32)。パウロはアテネでの宣教活動に失敗しているのです。
4.福音の力を信じる
・今日の招詞にヨハネによる福音書9章1~3節を選びました。次のような言葉です「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」イエスは道端に、生まれつきの盲人が座って、物乞いをしているのを見られました。「生まれつき目の見えない」、その人は盲目という障害を負わされて生まれてきました。人生はこのような不条理で満ちており、人はこの不条理に苦しみます。他人はこのような不条理に対して「あきらめ」という知恵を説きます「あきらめなさい。そのような運命なのだ。仕方がないではないか」。弟子たちもこの人の障害を運命ととらえています。
・当時の人々は、罪を犯したから、病気や障害になると考えていました。しかしイエスはそのような前世の因縁、運命を否定して、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と言われます。物心が付く年齢からこの時まで、この盲人は「お前は自分の罪のために目が見えないのだ」。「お前の両親が罪を犯したためにお前は盲目なのだ」と数え切れないほど聞いて来たでしょう。イエスの「本人の罪でも両親の罪でもない」というこの言葉はどれほど生まれつき目の見えない人の心を癒したでしょうか。そしてイエスは言われます「神の業がこの人に現れるためである」。
・イエスは語られます「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のある内に行わねばならない。だれも働けない夜が来る。私は世にいる間、世の光である」(ヨハネ9:4-5)。イエスは彼の心と目の両方を癒されたのです。彼はイエスも神も知りません。信仰も有りませんでした。彼は神を知らず、信仰もないまま、イエスの「神を信じる信仰」によって救われたのです。イエスの十字架の贖いによって、ユダヤ人もサマリア人にもギリシア人も全ての人間も救われるのです。そしてその救いは無償でなされます「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(3:24)。私たちはこの福音に感動し、感謝し、神に対する応答として洗礼を受け、信仰に生きるようになるのだと思います。
・しかし、現実の生活では、生まれつき盲の、あるいは中途失明した人の目が開けられることは、ほとんどありません。それにもかかわらず、多くの視覚障害の方々がこのイエスの言葉に慰められて、洗礼を受けています。それは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と言われたイエスの言葉に感謝・感激して、障害を与えられたことの意味を教えられたからではないでしょうか。視覚や他の障害を持ちながら、神を信じ続ける人こそ「信仰の人とよばれる人」だと信じます。
・パウロは語ります「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(1:17)。新しい聖書協会共同訳ではこの個所を次のように訳します「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(1:17)。また3章28節では
パウロはローマ教会のユダヤ人信徒に「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」と記します。人は罪を背負った存在ですが、その人間を神は一方的に受容される。これこそが福音であり、教会や信徒はこの福音を宣べ伝えます。教会や信徒がその応答(信仰や洗礼)を救いの条件にしていた時、それは福音・良い知らせと言えなくなります。
・「神は不信仰者さえも救われる」というのが、私たちの信仰です。何故ならば、「私たちの信仰によって義とされるのではなく、イエス・キリストによる贖いの業を通して、私たちは価なしに義とされる」(3:24)からです。マルコ9章「てんかんの子の癒し」の時、父親はイエスに言います「お出来になるなら、私どもを憐れんでお助けください」(マルコ9:22)。「お出来になるなら」、この父親は不信仰です。でも当然の不信仰です。何故ならば父親はイエスが誰であるかをまだ知らないからです。その父親に対してイエスは答えられます「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(マルコ9:23)。「癒されるのは神である。そして神は私にその力を与えて下さった。これを信じるか」とイエスは問われました。父親は即座に言います「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:24)。
・私たちの信仰もこの父親と同じです。私たちは日曜日に教会に来ても、残りの6日間は世の人と同じ生活をし、同じ価値観を生きています。私たちは、神が養ってくださることを教えられながら、子供の教育費はどうしたらよいのか、家のローンの支払いは大丈夫か、このままでは老後が心配だ、と毎日わずらっています。私たちは神を知ってはいますが、神に人生を委ねてはいません。つまり神を信じていないのです。その私たちも病気や苦しみの中で、神を求めます。神以外に頼る方はいないからです。
・そして私たちが求めた時、私たちは神と出会います。マルコ9章父親は子の病があるからイエスを求め、出会いました。子の病があったからこそイエスに出会えたとしたら、子の病(てんかん)は恵みなのではないでしょうか。私たちを本当に満たすものは外部情況の変化ではありません。外部情況が変化しても、例えば病が癒されても私たちは満たされません。当初は感謝するでしょうが、やがて当然になり、健康であるというだけでは心は満たされなくなります。私たちを満たすものは、私たちの心の変化です。そして、心の変化をもたらすものは「私たちが不信仰であることを知り、神に憐れみを求める以外に生きようが無いことを知る」ことです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12:9)、自分の弱さ、自分の不信仰を知る者の上に神の力は働くのです。それこそがパウロがローマ書において見出した真理なのです。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いの業・信仰によって義とされて(救われて)います。これが福音です。私たちはこの福音を宣べ伝える者であり、信仰や洗礼を強要すべきではありません。神の愛(アガペー)を知ること。神のすばらしさを伝えるそれに専念する信徒になりたいと思います。
祈ります。
「憐れみ深い真実の生命の神のみ名を賛美します。神が私たちをそのままの状態で愛していただいている恵みを感謝します。イエス・キリスト十字架の贖いにより私たちを義として救いの業を覚えありがとうございます。この良い知らせ・福音を隣人に知らせ続けます。私たちはこの福音を証しする者として洗礼を授けられました。信じる者は救われますが、信じない者も救われています。神の愛に対する応答(洗礼や信仰)を救いの条件にすることがありませんように。イエス・キリストのみ名によって祈ります」。