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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年4月13日祈祷会(詩編146編「天地を造られた主を賛美せよ」)

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1.人にではなく、神に頼れ

 

・「詩編」全150編の最後は「ハレルヤ詩編」(146編から150編)で締めくくられる。ハレル・ヤ、ヘブライ語で「ヤハウェ(主)を讃えよ」の意味である。146編からの五編は最初が、ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる。146編1-2節は命が長らえる限り、主のほめ歌を歌うと詩人は語る。

-詩編146:1-2「ハレルヤ。私の魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、私は主を賛美し、長らえる限り、私の神にほめ歌をうたおう。」

・三節から「君候に依り頼んではならない」と歌う。君侯でさえ、死ねば土に帰るだけの存在に過ぎない。第二神殿時代の詩編であるから、ここでの君侯はペルシャやシリアの権力者を指しているのかもしれない。

-詩編146:3-4「君候に依り頼んではならない。人間には救う力はない。霊が人間を去れば、人間は自分の属する土にかえり、その日、彼の思いも滅びる。」

・君侯もまた人間に過ぎず、霊が去れば死んでしまう存在に過ぎない。それを強調したのが預言者イザヤだ。イザヤ31章はアッシリアの攻撃におびえて、エジプトの助けを求めたユダ王ウジヤに語られた預言である。

-イザヤ31:1-3「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし、御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家、悪を行う者に味方する者を攻められる。エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。」

・頼るべきは神であり、人ではない。現代の日本はアメリカとの軍事同盟を基盤に国の防衛を考えるが、それでよいのだろうか。現代において、「主に寄り頼む」とは具体的に何だろうか。

-詩編146:5-6「いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人、天地を造り、海とその中にあるすべてものを造られた神を。」

 

2.人を生かすものは神である

 

・神はその力で敵を倒されるが、同時に「社会的な抑圧や搾取に苦しむ人を助け、障害を負った者たちを励まし、寄留者や孤児、寡婦をいたわる」方であると詩編は歌う。

-詩篇146:7-9「とこしえにまことを守られる主は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまって人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。」

・「寄留者や孤児、寡婦を大事にしなさい」という教えは、律法にも繰り返し語られる。

-出エジプト記22:20-24「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなたが私の民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない」。

・この規定はまるで今日の社会保障法のようだ。3千年前においてこのような人権保護法を造りえたユダヤの民はまさに神の民としか思えない。彼らがこのような法を造りえたのは彼等もまたエジプトで奴隷であり、主が彼らを解放してくださったことを覚えるゆえである(あなたたちはエジプトの国で寄留者であった)。

-出エジプト22:25-26「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼が私に向かって叫ぶならば、私は聞く。私は憐れみ深いからである」。

 

3.詩篇146編の黙想(あなたが神のために働け)

 

・第三イザヤはこの考え方をさらに推し進め、行動する神を描く。

-イザヤ61:1-3「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、

シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」。

・この第三イザヤの使信を生涯の課題として宣教されたのが、ナザレのイエスであった。

-ルカ4:16-21「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。

・出エジプト記22章は「寄留者や孤児や寡婦を保護せよ」と教える。大事な教えである。しかし法律や規定ができても、それが守られない社会がある。どうすれば良いのか。ヨブはそれを告発する。

-ヨブ記24:9-12「父のない子は母の胸から引き離され、貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き、麦束を運びながらも自分は飢え、並び立つオリーブの間で油を搾り、搾り場でぶどうを踏みながらも渇く。町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」。

・「神が人間の行為に介入されないとしたら、それを是正することこそ、信仰者の役割ではないか」とユダヤ教ラビ・レヴィナスは語る。神は人間の歴史に神は介入されない。第二次大戦中のホロコースト後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていた。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきた。その時、レヴィナスは、それは「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語った。

-レヴィナスの言葉「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである。」(レヴィナス「困難な自由、ユダヤ教についての試論」内田樹訳、国文社(2008))。

・今日でいえば、在留外国人が寄留者であろうか。しかし私たちの国は彼らに冷酷である。その中で教会は何をすべきか、何ができるだろうか。この世において、イエスに従うとは何なのか。

-マタイ25:35-40「『お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」

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