1、故郷シオンを偲ぶ歌
・詩編137編はバビロンに捕囚されたユダの詩人が、川の岸辺で故郷を偲んで歌った歌である。捕囚民たちはバビロニアのニップル近くに住まわせられた。彼らは戦争で荒廃した地域の復興のため働かせられた。川のほとりで、運河の補修工事の使役につかされていたのであろうか。
-詩編137:1-4「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って私たちは泣いた。竪琴はほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が、歌を歌えと言うから、私たちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか。主のための歌を異教の地で」
・人々は故郷エルサレム(シオン)を思って泣いた。作者は神殿の歌い手であろうか。捕囚の身とはいえ、神を崇め歌うシオンの歌を、異教の民の座興に歌う気にはならない。詩人は竪琴弾きゆえに、エルサレムを忘れるくらいなら右手が萎えて竪琴を弾けなくてよい、舌が上顎にはり付き歌えなくなっても良いと叫ぶ。
-詩編137:5-6「エルサレムよ、もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよい。私の舌は上顎にはり付くがよい、もしもあなたを思わぬ時があるなら、もしもエルサレムを私の最大の喜びとしないなら。」
・第一次バビロン捕囚は紀元前597年に起こった。バビロニア王軍の攻撃を受けたユダ王エホヤキンは降伏し、王族を始め、貴族、聖職者、軍人等、重だった人々はバビロニアに連行された(第一次バビロン捕囚)。その後ユダは、ゼデキヤ政権が立てられ、半独立国となるが、ゼデキヤ王はバビロニアに反旗を翻し、ユダ王国は攻められて滅び、再び捕囚となる(第二次バビロン捕囚)。
2、詩人は嘆き歌う
・詩人はバビロニア軍に同調してユダを攻めたエドム人を呪う。イスラエル民族の始祖アブラハムの子イサクは二人の子を持った(兄ヱソウ、弟ヤコブ)。そのヱソウの子孫がエドム人である。両者は兄弟民族なのに、エドム人はバビロニア側についてユダを攻めた。
-詩編137:7「主よ、覚えていてください、エドムの子らを、エルサレムのあの日を、彼らがこう言ったのを、『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。』」
・詩人はバビロニアの人びとを呪い、幼子を岩にたたきつけ殺したいと叫ぶ。仕返しとはいえ、あまりに残酷過ぎようが、それほどの嘆きと恨みをバビロニアに対して詩人は抱いていた。
-詩編137:8-9「娘バビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちを、お前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」
・注解者月本昭男は述べる「ここに見られる怨念と復讐願望に旧約の限界を見る人もいようが、不当に攻撃されれば、報復は人の常である。旧約聖書はそうした人間的な思いを隠さない。エレミヤさえも敵への復讐を神に願い求めている。当然の怒りなのである」(月本昭男「詩編137編注解」)。
-エレミヤ15:15「主よ、私を思い起こし、私を顧み、私を迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて、私が取り去られるようなことがないようにしてください。私があなたのゆえに辱めに耐えているのを知ってください」。
・しかしユダの信仰者はその報復を自らの手で行うのではなく、神に委ねた。そこに信仰がある。
-エレミヤ20:12「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。私に見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを。私の訴えをあなたに打ち明け、お任せします」。
3.詩篇137編の黙想(バビロン捕囚の歴史を回想する、History of Israelから)
・紀元前598年の第一回捕囚ではエホヤキン王をはじめ3023人がバビロニアに連れて行かれた(エレミヤ52章28節)。その中には、上級官吏や貴族、専門技術者がいた。ユダ本国においては、エホヤキンの叔父にあたるマッタニヤ(ゼデキヤ)が王となった。ゼデキヤ王の時代、バビロニアに服従するか、あるいはエジプトに頼ってバビロニアに反抗するかで国内は二分された。預言者エレミヤは、バビロニア王ネブカデネザルの介入をヤハウェの裁きの行為と解し、ネブカデネザルに服従することを主張した。
-エレミヤ25:9-11「お前たちが私の言葉に聞き従わなかったので、見よ、私は私の僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる」。
・エジプトは救助を約束しユダを扇動し、ゼデキヤはバビロニアへの朝貢を中止し、臣属関係を破棄した。ネブカデネザルは、ゼデキヤの第九年(前590年)にエルサレムを包囲した。エジプト王は軍隊をエルサレムに送ったが、助けるだけの力はなかった。エルサレムは兵糧攻めにあい、ゼデキヤ第11年(前586年)に、城壁に突破口があけられ、バビロニア軍に侵入された。ゼデキヤは、エルサレムを脱出して逃げたが、エリコで捕らえられ、ネブカデネザルの本営に護送された。ネブカデネザルはゼデキヤの目の前で彼の息子たちを殺し、ゼデキヤの両眼をえぐって、鎖につないでバビロンに送った。
-列王記下25:1-8「ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った・・・王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとで裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上で彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った」。
・エルサレム征服の一カ月後、ネブカデネザルの命令によって、神殿とエルサレムの町に火がつけられて、エルサレムは壊滅した。再び上層階級が捕囚としてバビロニアに連れて行かれた(第二回捕囚)。ネブカデネザルは、ユダを属州としてバビロニア帝国に編入したが、かつてアッシリアがしたように外国の上層階級をユダに移すということをしなかった。そのためにユダは国家としては滅亡したが、そこに住む者はユダヤ人としてのアイデンティティを保つことが出来、捕囚後はユダヤ教団として存続していくことになる。
・四百年続いたダビデ王国が終焉し、不滅だと信じられていた神の都エルサレムは破壊され、神の住まいであった神殿も破壊された。出来事を目の当りに見た申命記的歴史家は、この結果をもたらしたのはイスラエルが絶えず神に逆らってきたという視点から歴史を叙述した(ヨシュア記から列王記までの「申命記的歴史書」)。
・バビロン捕囚は、合計三回行われた。人数は累計4600人である。これは本国に残された人から見ると少数であったが、指導者層の多くが移されたため、その後の歴史においては捕囚民の影響が大きくなる。捕囚民は、強制労働にも駆り出されたが、自分たちの住む集落をもっており(エゼキエル3・15)、家を建て、庭園を造り、収穫物は自由にでき、結婚もできた(エレミヤ29・5、6)。しかし彼らは、この地は「異質の国」であり(詩篇137・4)、「汚れた国」(エゼキエル4・13)であると思った。神殿から離れ、祭儀行為ができなくなったので、安息日と割礼とが神との契約のしるしとして重要になった。祭司を中心として、イスラエルの過去の伝承を収集するという作業が活発に行われた。そのような中で、五書(トーラー)が形成された。
・この捕囚の地で活動した預言者に、エゼキエルと第二イザヤがいる。エゼキエルは捕囚地で預言者の召命を受けた(全593年)。彼は、エルサレムが陥落する(前586年)までは、イスラエルの不信仰に対する厳しい裁きの預言をなしたが、エルサレム陥落の報が届いた(33・21-22)後は、捕囚の民に希望の預言を語るようになった。第二イザヤはイザヤ書40-55章の預言を記した預言者で、捕囚末期に捕囚の地で活動した。彼は捕囚の民に、慰めと希望を与えるために召された。この時代、バビロニアは衰退期に入り、新興ペルシアが徐々に勢力を伸ばしていた。彼は前半において、ペルシア王クロスがヤハウェに遣わされた使者であって、やがて捕囚の民を解放するという預言をした。
-イザヤ45:1「主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」。
・ペルシア王クロスは、中央アジアから小アジアに至るまでの北辺をすべて支配下においた。バビロニアはクロスの進撃の前に屈し、バビロニア帝国は滅亡した(前539年)。ペルシア帝国は、多くの諸民族を支配したが、その政策は以前の支配者よりも寛大であった。特に諸民族の固有の生活・習慣や伝来の宗教を守ることには寛容であった。前538年クロスはバビロンに捕囚になっていたユダヤ人たちの故国帰還を許可した。
・クロスはエルサレムの神殿の再建を許可し、ネブカデネザルが没収していた神殿の器物を返還することも命じた。このエルサレム帰還の指導者としてセシバザルが任命された(エズラ記1:11)。木田献一氏によると、このセシバザルは、バビロンに捕囚になっていたエホヤキン王の第四男であり、イザヤ書53章などに歌われている「苦難の僕」のモデルになった人物である。
-イザヤ53:7-8「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」。