1.「お前たちの神はどこにいるのか」と嘲笑されるイスラエル
・詩編115編は捕囚帰還後の困難な時期に、「お前たちの神はどこにいるのか」と嘲笑する異邦人に対して、「私たちの神は天におられる」と答える詩である。
-詩編115:1-3「私たちではなく、主よ、私たちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって。なぜ国々は言うのか『彼らの神はどこにいる』と。私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」。
・イスラエルはバビロン捕囚から帰還したが、神殿再建もままならず、エルサレムの城壁修復もはかどらなかった。周囲の異邦人はイスラエル人の困窮を見てあざ笑った「お前たちの神はどこにいるのか」と。
-ネヘミヤ2:19-20「ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いて私たちを嘲笑い、さげすみ、こう言った『お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか』。そこで私は反論した『天にいます神御自ら、私たちにこの工事を成功させてくださる。その僕である私たちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない』」。
・詩人は異邦人の嘲笑に対して「私たちの神は天におられる」と答える。ネヘミヤが答えたように、である。個人の勢いが衰える時、その信じる神を嘲笑するのが人間の常である。イエスも十字架上で嘲笑された(マタイ27:43)。神はなぜご自身の民を救われず、嘲笑に任せられるのか。ある人は言う「神の能力の欠如だ」。信仰者は答える「神がより偉大なことをされるためだ」と。
-イザヤ53:3-4「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」。
2.「私たちの神は天に」と答えるイスラエル
・詩人は異邦人に反論する「お前たちの神は偶像の神、人の手で造られたもの、口があっても話せず、耳があっても聞こえず、手があってもつかめず、足があっても歩けないではないか」と。
-詩編115:4-8「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」。
・私たちの神はそのような神ではない。神は苦しむものの叫びを聞き、行動される。私たちの神は生きて私たちを見守っておられる。
-詩編115:9-11「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。 主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾」。
・アロンの家=エルサレム神殿の祭司たち、主を畏れる人=異邦人改宗者を指す。主は私たちを心に留め、私たちを祝福して下さる。この方に祈れと詩人は語る。
-詩編115:12-13「主よ、私たちを御心に留め、祝福してください。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福してください。主を畏れる人を祝福し、大きな人も小さな人も祝福してください」。
・14節から祭司の祝祷が始まる。この詩篇は神殿で歌われた応答歌であろう。
-詩編115:14-15「主があなたたちの数を増してくださるように、あなたたちの数を、そして子らの数を。天地の造り主、主が、あなたたちを祝福してくださるように」。
・旧約の人々は、神は天にいまし、人は地に置かれ、死後に行く陰府の世界(沈黙の国)は神との交わりが断たれた所と考えた。だから地上の生涯において人は神を知らねばならない。
-詩編115:16-17「天は主のもの、地は人への賜物。主を賛美するのは死者ではない、沈黙の国へ去った人々ではない」。
・新約においても同じである。「私を信じる者は、死んでも生きる。あなたは信じるか」という問いかけに答えることを通して、私たちは死後のことを神に委ねて死んでいく。
-ヨハネ11:25-27「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』。マルタは言った『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております』」。
3.詩編115編の黙想~偶像礼拝をどう考えるか
・偶像はこの世界に存在する被造物の模倣である。「被造物が神ではありえないとすれば、その模倣たる偶像はなおのこと、神にはなりえない」と月本昭男は詩編注解で述べる。
-ローマ1:20-23「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです・・・滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」。
・偶像はいかに精巧かつ美麗であろうとも、それは職人が様々の素材を加工して造り上げた人間の手の業に過ぎない。
-イザヤ44:15-17「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。・・・木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると、「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたは私の神』と」。
・偶像には人を救う力はない。何故なら、単なる造形物に過ぎないからだ。
-イザヤ44:9-13「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない・・・無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべてその仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず、皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが、飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く」。
・日本人は仏像に惹かれる。興福寺・阿修羅像はその一つで、三つの悲しみに満ちた顔が多くの人を魅了している。それは美術品として多くの人々の心を打つが、救いの対象にはなりえない。
-阿修羅像は天平6年(734年)、光明皇后が造像した。藤原家出身の光明皇后は自分の子を天皇にするために自分の兄弟たちと争う。阿修羅像の三顔の内右側には皇位継承権を持つ大津皇子・長屋王等のライバルを打倒する顔であり、左側は甥である広嗣の乱や四兄弟の天然痘による死などの度重なる災害を見る苦悩の顔であり、正面は懺悔して仏に縋り、悲田院や施薬院を設立して一門の安寧を願う姿だと言われる。人は罪を犯さざるを得ないが、その罪を贖う存在を持たない人々は偶像に頼るしかない。しかし、いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んだとしても罪の赦しは来ないのではないか。