1.エフェソ書に見る家庭訓
・エフェソ書を読んでおります。エフェソ書では5章後半から6章前半に、「家庭訓」と呼ばれる教えが語られています。家庭における夫と妻、親と子、主人と奴隷の在り方を記したものです。なぜこのような家庭訓が生まれたのか、それは聖書の教えが必ずしも現実の救いになっていなかったからです。パウロは教会の人びとに語りました。「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。しかし、現実は違いました。
・ユダヤ人はギリシア人とは交わらず、奴隷と主人は教会の外に出れば、身分格差はそのままでした。妻は教会の中では「キリストにあっては男も女もない」という教えを聞きますが、現実の生活の中では夫に従属する者として、何の法的権利も持ちません。子どもの意思も尊重されません。当然に、妻や子や奴隷は不満を抱きます「教会で語られている事と現実が違いすぎるではないか」。だから牧会者は手紙を書き、「人と人の関係はどうあるべきか、教会を形成する基本単位である家族はどうあるべきか」を述べました。それがエペソ5章21節から6章9節にかけて展開されている箇所です。
・エフェソ書はまず妻に対して、「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」と語ります(5:22)。次に子供に対しては、「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」と語ります(6:1)。奴隷たちに対しては「奴隷たち・・・真心を込めて、肉による主人に従いなさい」と語ります(6:5)。ここには「従属の教え」が語られているように思えますが、そうではないことに留意すべきです。牧会者は妻に対して、「主に仕えるように夫に仕えよ」と命じますが、同時に夫に対しても、「キリストが教会の為に身を捨てられたように、妻を愛せ」と命じます。そこにあるのは従属関係ではなく、仕え合う関係です(5:22-25)。「与えられた関係の中で、互いに仕え合いなさい」と命じられています。同じ命令が父と子にも言われます。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい・・・父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(6:1-4)。その関係は主人と奴隷の関係にも適用されます。「主人たち奴隷を・・・脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」(6:9)。
・世の道徳は目下の者にのみ服従を要求しますが、エフェソ書は違います。夫も父も主人もまた神の支配下にある者として、神の服従の命令下にあります。神を信じて現実を見つめて生きよ、「無慈悲な主人、不信仰の夫、かたくなな父、このような現実から目をそむけるな、現実に立ち向かえ、現実を導きとして、信仰の視点から人間関係を見直せ」と語られています。この家庭訓は今日において意味を持つのでしょうか。人は言うでしょう「奴隷制はなくなった。婦人の経済的自立も進んだ。子どもの人格も尊重される時代だ。2000年前とは違う」。
・でも本当にそうなのか。奴隷主はいなくなりましたが、それに代わる企業や団体が専制的雇用主として働く人を縛っている現実があります。現代の過労死と古代の虐待死は同じです。また婦人の職業進出は進みましたが、既婚婦人の多くは税の配偶者控除の要件を満たす年収103万円以下の労働に従事しており、これでは自立は不可能です。現に、離婚したシングルマザーの大半は貧困に苦しめられています。現代の子どもたちには厳格な父親の代わりに、試験や偏差値で能力判定をされ、高校や大学を中退した者には職業選択の自由はありません。基本的状況は2千年前と何も変わっていない。このエフェソ5-6章は現代でも大事な意味を持っている規定なのです。
・エフェソ書の生き方をラインホルド・ニーバは現代化します「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを示して生きることなのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。置かれている所で精一杯咲くとそれがいつしか花を美しくするのです」。
2.悪と戦え
・6章後半から「この邪悪な時代にあって、悪に負けずに戦え」と言われています。戦うには武器が必要です。その武器は神の武具です。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(6:10-13)。
・身を護る神の武具とは真理・正義・平和であり、攻撃する武具は信仰・救い・御言葉です。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、即ち神の言葉を取りなさい」(6:14-17)。与えられた武具は全て人を傷つけるものではなく、人を生かすもの、唯一の攻撃道具は神の言葉です。神の言葉に信頼して戦え、善を持って悪に勝てと命じられています。
・イエスは私たちに「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と励まされました。私たちは世にある限り世に属し、世に属する限り悪や戦争をなくすことは出来ません。しかし、神には出来る。エフェソ書の著者は語ります「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(5:14)。私たちには「平和を実現する」ことは出来ない。しかし、「御心が天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈ることはできます。
3.善をもって悪と戦え
・イエスは私たちに「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と励まされました。それを受けた言葉が、今日の招詞ローマ12:20-21です「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。エフェソ書の言葉もこの流れの中にあります。初代教会は迫害の中にありました。教会員の中には復讐を誓う者もいました。彼らに対してパウロは語ります「復讐するな。敵の不義は神の裁きに任せよ。キリストも復讐されなかったではないか」と。
・2001年9月11日に無差別テロがアメリカを襲い、NY貿易センタービルが破壊され、2973人が殺されました。アメリカ大統領G.ブッシュは「テロとの戦い」を宣言し、アメリカ国内では「仕返しと報復を立法化せよと要求する怒りの声」が巻き起こり、町には星条旗があふれ、アメリカに忠誠を誓わない者はアメリカの敵だとの大統領声明が出されました。その中で教会はローマ12章を祈りました。「復讐を求める合唱の中で、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように。キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています。神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(「グランド・ゼロからの祈り」、ジェームズ・マグロー、日本キリスト教団出版局)。
・しかし怒りにかられたアメリカ国民は自分の手で報復します。アメリカ軍は報復としてアフガン・イラクを攻めました。それから20年、米軍死者は7000人を超え、アフガン・イラクに住む何十万人の人々が戦争で亡くなりました。また報復戦争の結果、アメリカは数十万人にのぼる戦争後遺症に悩む自国民を抱えました。さらにはアメリカによる攻撃への怒りからイスラム国が生まれ、多くの人が殺されていきました。3千人の報復のために数十万人が死に、後遺障害に苦しんでいます。人は愚かです。「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ28:52)とイエスが語られた通りです。「報復は、報復する人を滅ぼす」のです。
・マルティン・ルーサー・キングの説教「汝の敵を愛せよ」という説教を改めて聞きます(1963年)。当時、キングはアトランタの教会の牧師でしたが、黒人差別廃止運動の指導者として投獄され、教会に爆弾が投げ込まれ、子供たちがリンチに巻き込まれていました。その中で行われた説教です。キングは語ります「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくる人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」。アフガン・イラク戦争の結末を考えた時、「憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ」という言葉はまさに「神の言葉」ではないかと思います。
・「愛は贖罪の力を持つ」ことを私たちは知りました。知ったのであれば、私たちの安全、平和を神に委ねれば良いではないかと聖書は語ります。私たちはこの世が理想郷でないことは知っています。敵を愛するということは、危険を伴います。それでもそうすべきだとパウロは訴えます。敵意の隔てを崩すのはそれしかないことを聖書は教え、世界史は教え、生活上の体験も教えます。預言者イザヤは歌いました「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)。現実の政治に絶望する故に、イザヤは問題の解決を神に求めました。イザヤの言葉は、NYの国連ビルの土台石に刻み込まれています。第二次大戦の惨禍を経験した諸国は、「もう戦争はしない」と願い、イザヤの預言を刻みました。しかし言葉を刻んだだけでは平和は来ません。平和は人間が自分の限界、無力を知った時に、来ます。日本は1945年に戦争に負けました。もう兵器はいらなくなり、砲弾にするために兵器工場に集められた鉄が鋳られ、釜や鍬が作られました。戦争に負けたからこそ、日本人はイザヤの預言を実現できました。
・他方、戦勝国アメリカは戦争を繰り返しています。両者の違いは1945年にあるのではないかと思います。日本は1945年に戦争に敗北し、アメリカは勝った。勝った国においては戦争をやめることが出来ず、負けた国は戦争をやめた。このことは何かを示唆します。何よりも、私たちは神の護りの中にあり、必要な時には神が行為して下さることを信じ、祈り続けます。祈りこそ真の武具であり、大きな力を持つのです。最後にエフェソ書の最も大事な言葉を聞いていきます「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6:18)。