- キリストにある者としての生
・エフェソ書を読んでおります。教会の中に、周囲の異教世界からの圧迫と誘惑の中で、キリストの福音から逸脱する異なった教えが入り込み、使徒たちの伝えた福音ゆがめてしまう状況になったため、地域のキリスト教会に責任を持つ牧会者が、キリストの教え(福音)を再度、確認し、危機を克服しようとして筆をとったのがエフェソ書とされています。エフェソ書の後半4‐6章ではキリスト者として、「どのように世を生きるべきか」が語られています。私たちは、「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、信じて、約束された聖霊で証印を押された」存在です。キリストが成し遂げてくれた贖いのおかげで、私たちも、救いを約束する福音を聞きバプテスマを受けた存在です。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」(4:1)と言われています。肉に従ってではなく、霊に従って生きる、キリストの霊がそれを可能にすると著者は強調します。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(4:4)。
・教会では「霊による一致」が説かれます。それは各人が与えられたそれぞれの賜物を生かして一つになることです。違いを持ったままの一致、自分の思いではなく、神の思いが大きくなればそこに自然に一致が生じる、そのような一致です。著者はそれを「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(4:16)と語ります。「お互いが争い合っているならば、キリストの体は分裂し、世に対して証しする存在とはなり得ないではないか」と著者は語ります。
・4章17以降で語られているのは、その具体化です。それは古い生き方、肉に従う生き方を捨て、新しい衣を着る生き方です。私たちもかつては異邦人のように生きていました。その時、私たちの「知性は暗くなり、彼らの中に、無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知らない」(4:18-19)状態でした。「肉の思いは死を招く」ことを知りながら、それから解放されることはなかった。「しかし、あなたがたは、キリストに出会って、新しい人にされたのですから、新しい人として生きなさいと語られています。「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(4:22-24)。
- 光の子としての生き方
・新しい人としての生き方とは「隣人と共に生きる」生きかたです。4章25節以下にそれが具体的に語られています。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは、互いに体の一部なのです」(4:25)。具体的には「隣人に対して怒ることがあっても翌日までその怒りを持ち越すな」(4:26)、「正直に働き、収入の一部を貧しい人に分け与えよ」(4:28)、「人を悲しませるのではなく、人を造り上げる言葉を語れ」(4:29)と語られます。「キリストが私たちを赦してくださったのだから、私たちも赦していく」生き方です。
・そして、今日の中心的な御言葉が語られます。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(5:1)。「倣う」とは、真似るということです。神の真似をしろということです。自分が神になろうとする時、自分を中心に世界は回るという思いが出てきます。すると、他者を貪る心が出てきます。神は神であり、人は人です、神に倣うものを目指す者になる手本として、神はイエスを与えて下さいました。神は御子を死なせるほどの愛を持って私たちを愛された、だから私たちも他の人のために死ぬ存在に変えられていきます。他の人のために死ぬ者は自己主張から解放されています。だから異なる者たちが集められる教会に置いても、一致が可能になります。著者は語ります「あなた方も愛の中に歩みなさい。愛の中にある者が、淫らな思いや汚れた思いを持ち、それを言葉にすることがあろうか、あるはずではないか」、「淫らな者、汚れた者、貪欲な者はキリストと神の国を受け継ぐことは出来ないの」(5:5)のです。
・5章の8節以下ではそれが「光の子」と言う言葉で示されます。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(5:8)。あなたがたは、今は主に結ばれて光となっている。光そのものとなっていると言われます。イエス・キリストに結ばれることにより、私たちが光とされるということです。しかし、私たちが光の子になっているといっても、神に守られて、何でもうまくいくということではありません。「自分のどこが光となっているのだろうか」と私たちは考えます。自分がどんなに変わったかということよりも、主に結ばれているかどうかということが問題です。自分に何の変化がなくても、すでに主に結ばれて光とされていると著者は語ります。
・人は信仰の証しとしてバプテスマを受けます。「バプテスマを受けても何も変わらない、クリスチャンになっても罪を犯し続けている」と歎く人がいますが、実は根底的な変化は見えない所で起きています。クリスチャンになって罪が見えるようになったから、心の葛藤が生じているのです。罪の悩みが生じるのはクリスチャンになったしるし、キリストが共におられるしるしなのです。「もう光とされている。だから、光の子として、光の子らしく生きなさい。光の子らしく生きるということは何が主に喜ばれるかを吟味しながら生きる」ということです(5:10)。
・日本では親に「自分の子どもはどんな人間になって欲しいか」と聞くと、大概の親は「人に迷惑をかけない人間」になって欲しいと答えます。それに対して、イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にする」(マタイ7:12)存在になりなさいと言われます。イエスは「これをしてはいけない」と禁止されるのではなく、「これをしなさい」と命じられています。「人に迷惑をかけるな」という消極的な生き方ではなく、「相手が喜ぶことをする」積極的な生き方をしなさいと語られています。人は人に迷惑をかけずに生きることはできません。私たちは、いろいろな人に迷惑をかけながら、世話になりながら生きています。自分も人に迷惑をかけている、だから自分も人から迷惑をかけられることを受け入れていく、そのような生き方です。「何かをしないことではなく、何かをすることを目指していく」、それが光の子としての生き方です。
- ルカ福音書から光の子の在り方を学ぶ
・聖書の中で、「光の子」という言葉が、四カ所用いられています(ルカ16:8,ヨハネ12:36,エフェソ5:8,第一テサロニケ5:5)。その中の一つが今日の招詞ルカ16:8です。光の子とは何かを考える示唆に満ちています。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあります。この「不正な管理人の喩え」は、難解な喩えです。物語そのものは難しくありません。「ある管理人が主人の金をごまかし、不正が露見しようとした時に、主人に負債のある者たちを呼び、その負債を免除することによって人々に恩を売り、自分が免職になった時に助けてもらおうとする」物語です。人間の常識では、この管理人は不正をしている、ずるい男です。しかし、イエスはこの男をほめておられます。不正を犯した者が何故ほめられるのか、それが判らないから、この箇所は難しいとなります。
・譬えの管理人は、主人の金をごまかしていました。それが明るみに出て、管理人は首を言い渡されます。彼はどうしようかと考え込みます「主人は管理人の地位を取り上げるに違いない。その時どうするか。肉体労働をする体力は私にはない。物乞いをして生きるのは、地位と誇りが許さない」。困った管理人は窮余の策として、大胆な行動をとります。彼は主人に負債のある者たちを呼び出し、その負債を減免するという思い切った行為に出ます。オリーブ油100バトスの債務者に対しては、50バトスを免じます。油100パトスはオリーブ油100樽、金額にすれば1000デナリオン(1000万円)になります。1000万円の負債を500万円に減額したのです。小麦100コロスの債務者には、20コロスを免除しました。小麦100コロスは小麦100石であり、価格的には2500デナリオン(同2千5百万円)になり、減免額は500万円になります。負債の減免を通して相手に恩を売り、再就職に役立てようとします。
・管理人が行った事は不正です。彼は主人の金を誤魔化して自分の物にした上に、今度は主人の財産を勝手に処分して、債務者に恩を売ろうとしたのです。彼は二重の不正をしましたが、それにもかかわらず主人は、つまりイエスは、この管理人をほめられます。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば、金がなくなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ 16:8-9)。
・管理人は主人から解雇されそうになった時、これからのことを真剣に考え、残された可能性を十分に活用して何とか生き残ろうとしました。世の子らのこの熱心さこそ、光の子らは学ぶべきなのです。世の子らは金や地位や利益を求めて熱心に活動します。もしあなたが同じ熱心さを持って神の国を求めたらどんなに良いだろうとイエスは言われます。あなたは仕事の付き合いやスポーツや趣味に多くのお金と時間を払うが、教会のためには小さなお金と時間しか支払っていない。あなたは自分の仕事のために多くの時間と関心を払うが、自分の魂のためにはそれだけの時間と関心を払わない。それは何故か。「蛇のように賢く、鳩のように素直に従え」(マタイ10:16)という私の言葉を、どう聞くのかとイエスは問いかけられます。
・人はそれぞれ能力が異なり、高い賜物を与えられた人は多くのお金を稼ぎ、そうでない人は少しのお金しかもらえません。もし多くのお金を稼いだ人が「このお金は私が自分の能力によって得たものであり、どう使おうと私の自由だ」と思う時、その人は思い違いをしています。「あなたの高い能力、それは誰が与えたのか。あなたか、私か。もし、あなたが、この能力は私が獲得したもので神は関係ないと言い張るならば、私はそうでないことを示そう。私があなたの健康を打ってあなたに病を与えたら、あなたは明日から働けなくなり、あなたはこの管理人と同じく失業する。あなたは私からの賜物を預かっている管理人なのだ。その賜物を自分の物と思い込む時に、あなたはこの不正な管理人と同じ事をしているのだ」とイエスは言われているのです。「管理人は自分が不正をしていることを認識していた。あなたは自分が不正をしていることを認識していない。とすれば、この管理人の方がまだ良いではないか」。
・物を所有する、財産を持つ、それ自体は何ら罪ではありませんが、大きな責任を伴っています。イエスは言われます「あなたがこの世で所有しているものは、本当はあなたのものでなく、あなたに委託されたものだ。死んだ時、あなたはそれを墓場に持っていくことが出来ない。それはただあなたに貸与されているだけであり、あなたはそれを管理する管理人なのだ。それは、その性質からいって、永久にはあなたのものになれないものだ。他方、天国においては、永遠に、本質的にあなたのものになるものを与えられるだろう。しかし、天国で何を得るかは、あなたが地上のものをどう用いるかにかかっている」。「光の子として歩む」とは、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」生きることであり、自分には何ができるか、何をすべきかを模索して生きる生き方です。「あなた方は光であるキリストを知ったのだから、光の子として歩め」と勧めています。それは「キリストならどうされるか」(WJWD=What Jesus Would Do)を生活の基準にする事です。