1.異邦人の招き
・エフェソ書を読んでおります。エフェソ書は紀元90年頃にパウロの弟子によって書かれたとされています。当時、教会内に異端の動きがあり、それに対してパウロの伝えた福音の原点に戻れとして書かれました。同時代に書かれたヨハネ黙示録によれば、エフェソ教会は次のように指摘されています「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ・・・私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった・・・(あなたは)ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。私もそれを憎んでいる。」(黙示録2:1-6)。教会内に異端(ニコライ派、グノーシス派)の動きが強まり、対立が生まれ、内部の敵との論争がエフェソ教会を最初の愛から離してしまったとヨハネは指摘します。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(黙示録2:4-5)。信仰の真偽を見分けようとする熱意が、度を越し、教会員が互いに批判的になり、愛し合うことを忘れた状態になったのでしょう。
・争いの根本にあったのは、ユダヤ人と異邦人の争いです。教会はユダヤ人とギリシャ人の混合教会でした。最初にユダヤ人たちが回心し、後に異邦人たちが集められた。手紙の著者は記します「初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によって私に知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、私がどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や"霊"によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました」(3:1-5)。
・秘められた計画、それは「異邦人もユダヤ人と共に、アブラハムに為された約束の相続者とさせられた」と言う奥義です。神の民ではない異邦人もユダヤ人と同じく神の子とされた。キリストにあって、ユダヤ人、異邦人の区別なく一つにされた。キリストを通して、新しい関係が結ばれたと著者は語ります「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」(3:6)。そして私はこの奥義をあなたがたに述べ伝えるために、召されたと著者は語ります。「神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者である私に与えられました。私は、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています」(3:7-9)。
・教会の頭はキリストであり、私たちはその身体を構成する手足として働きます。それなのに「なぜ民族を巡って教会内で争い合いをするのですか」と著者は批判します。「神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神が私たちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。私たちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」(3:10-12)。彼は続けます「あなたがたのために私が受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」(3:13)。
2.牧会者の祈り
・牧会者は膝をかがめて父の前に祈ります。「私は膝をかがめて、天上と地上で家族と呼ばれる全ての者の名の元である父の前に祈ります」(3:14-15)。牧会者は祈りを続けます。最初の祈りは「内なる人を強めたまえ」という祈りです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(3:16-17)。二番目の祈りは人々がキリストの愛を知り、その愛で満たされる事を求めます。「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(3:18-19)。教会が争い続けるとしたら、それは信仰の未熟さによるのです。
・神の御心は人智を超えています。だから今はわからないことも信仰によって受け入れていく。牧会者は語ります「私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(3:20-21)。
3.教会における一致を求めて
・エフェソ書が書かれた目的の一つは教会内に、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の争いがあり、両者が対立していたことです。人はキリストによって霊をいただいた後でも、異なる民族を自分の仲間として受け入れることが難しい存在なのです。ロシアとウクライナとの戦争においても、先祖を同じくする仲間であり、共にキリストを信じる信徒でありながら、民族の違いが強調され、争いが生じています。人は民族を乗り越えることが難しいのです。その隔ての壁を崩すものは信仰のみですが、実際には悔い改めたキリスト者もまだ罪人のままであり、その罪が争いや戦争を引き起こしています。
・私たちは、ウクライナでの戦争をどう考えるべきなのでしょうか。多くの人は悪いのは侵略したロシアであり、ウクライナは自衛のための戦争を戦っているとウクライナを評価します。しかしキリスト者としては、「自衛戦争であれば相手を殺しても赦されるのか」、「それはイエスが語られたこととは異なる」という問題に悩まされます。国境なき医師団に参加され、多くの紛争地で救護活動をして来た、看護師の白川優子さんは雑誌の投稿の中で語ります「私が見てきた戦争とは、権力者による陣取り合戦、政治戦略、そんなものではない。血と涙と叫び声にまみれながら、未来を奪われていく一般市民の姿、それが、私が見てきた戦争だ。戦争がなぜ悪いのか。それは人間の未来を破壊するからだ・・・2022年、いまでも同じ地球上で戦争が勃発し、人々の未来が奪われ続けている」(2022年06月21日、論座)。自衛も含めてあらゆる戦争は神の視点から見れば悪です。この事をしっかりと覚えたい。ではどうすれば、戦争を止められるのか。民族の融和しかありません。
・民族の対立をなくす智恵が聖書にあります。今日の招詞に選んだエフェソ2:14-16の記事です。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。
・初代教会の指導者ペテロはカイザリアでローマ人コルネリウスの回心をみて、彼に洗礼を授けましたが、エルサレムの教会員たちはそれを喜びませんでした。エルサレム教会の保守的メンバーは異邦人の回心を喜ぶのではなく、無割礼の異邦人との会食を批判します「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(使徒11:3)。民族の対立は解決が難しい根深さを持ちます。その後、シリアのアンティオキアに教会が生まれた時も、ペテロやバルナバでさえ、教会保守派を恐れて異邦人との会食をためらいます。パウロは記します「ケファがアンティオキアに来た時、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです」(ガラテヤ2:11-14)。民族の対立、キリスト者はこの問題を解決しなければいけません。
・不和の中にあるエフェソの教会に、牧会者は「キリストが十字架で死んで下さったのに、なぜあなた方は和解できないのか」と詰め寄ります。「主に結ばれて囚人となっている私はあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(4:1-4)。私たちは民族の隔ての壁を崩せと命じられています。
・しかし、現実の教会は、このような使命に消極的で、個人的な祝福だけを追い求めています。アメリカの神学者E・H・ピーターソンは著書「牧会者の神学」の中で、アメリカの教会の自己満足的な姿を厳しく批判しています。「現在、アメリカの牧師たちは、右から左にいたるまで、驚くべき早さで自らの役割を放棄しつつある。アメリカの牧師たちは『企業経営者』の一群に変容してしまった。…(中略)…それは『宗教という商店経営』であって、『商店経営』という点においては他の商売となんら変わることはない。目覚めている時、これらの企業家たちの心を占めていることはファーストフード店の経営戦略と同じような関心である。眠っている時、彼らが夢見ていることはジャーナリストの注目を集めるようなたぐいの成功である」。
・彼は続けます「こうしたあやまちの全責任を牧師に負わせるわけにはいかない。きわめて多くの人々が、祈り、聖書、霊的導きを生活の中から排除するという『共同謀議』に加わったのである。彼らが関心を寄せるのは牧師のイメージとか立居ふるまいについてであり、彼らの価値観で評価しうるものに対してであり、すばらしい教会建築計画や印象的な出席者の統計表であり、社会的インパクトと経済的存立に関することがらである。彼らはこうしたものにかかわる会議や予定で、牧師のスケジュールを満たすために全力を傾ける」。日本の教会も同じです。教会はキリストの体であり、私たちは使命に召されたのに、実際は「居心地の良い」、「満足できる」教会を求めて遍歴しています。それでは何のために「キリストは死なれたのか」かが問われています。キリストに出会って洗礼を受けたのに、生活は少しも変えられていない、どこにキリストがおられるのか。私たちは行為によって変わる必要があります。
・ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」によれば、福音書が書かれた紀元100年当時のキリスト教徒は数千人という小さな集団であり、紀元200年においても数十万人に満たなかった。その彼らが紀元300年頃から爆発的に増え続けます。ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、時には人口の1/3を失わせるほどの猛威を振るい、死者は数百万人にも上り、疫病の流行がローマの人口減少を招き、ついにはローマを滅ぼしたと考える歴史家さえいます。人々は疫病からの感染を恐れて避難しましたが、当時の記録では、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬したと伝えられています。何故ならば聖書がそうせよと命じ、教会もそれを勧めたからです。そしてこの「食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく」信徒の行為が、疫病のそれ以上の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせたとスタークは考えています。社会保障も健康保険もない中で、教会は信徒の奉仕という形でそれを提供したのです。「信徒の生きざまが人々を信仰に導いた」。私たちは神から召命を受けて信徒となり、神のために働くように教会に召されたのです。