1.王の誓約の詩編
・詩編101編は、王に即位した者が、神に忠実にその職務を遂行することを誓う、王の詩編である。彼はまず、日常生活において、悪を退け、完全を求めると誓う。
-詩編101:1-4「慈しみと裁きを私は歌い、主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。完全な道について解き明かします。いつ、あなたは私を訪れてくださるのでしょうか。私は家にあって無垢な心をもって行き来します。卑しいことを目の前に置かず、背く者の行いを憎み、まつわりつくことを許さず、曲がった心を退け、悪を知ることはありません」。
・この詩はソロモン王の即位式の祈りを想起させる。彼は自分が若輩で無知であることを知り、主の憐れみと励ましを求めた。
-列王記上3:7-9「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、私は取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません・・・民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」。
・またヨシヤ王の改革を想起する人もいる。ヨシヤはユダ王国の改革を行い、主の御心に沿った国を造ろうと決意した。
-列王下23:1-3「王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集めた。王は・・・すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった」。
・5節から、王は臣下には正しい者のみを集め、そしる者、高ぶる者は退けることを誓う。
-詩編101:5-7「隠れて友をそしる者を滅ぼし、傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。私はこの地の信頼のおける人々に目を留め、私と共に座に着かせ、完全な道を歩く人を、私に仕えさせます。私の家においては、人を欺く者を座に着かせず、偽って語る者を私の目の前に立たせません」。
2.しかし人は忠誠を誓い続けることはできない
・ソロモンは即位式で善悪を判断する知恵を求めた。しかし晩年のソロモンは王宮や神殿建設のために重税や賦役を民に課し、高価な馬やレバノン杉の購入に資金を浪費し、700人の王妃と300人の側室を抱えた。この結果、民の不満が高まり、彼の死後に王国は分裂する。列王記は「ソロモンは主に従い通すことができなかった」と記述する。
-列王記上11:6「ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった」。
・ヨシヤ王も熱心に改革を行ったが、エジプト王に無謀な戦いを挑み、敗れ、改革は挫折する。
-列王下23:29-30「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かってユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうとして出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギドで彼を殺した。ヨシヤの家臣たちは戦死した王を戦車に乗せ、メギドからエルサレムに運び、彼の墓に葬った」。
・ソロモン王の誓いもヨシヤ王の改革も挫折した。何故だろうか。自分に厳しい人は他者にも厳しく、人を裁くからだ。バプテスマのヨハネも挫折した。あまりにも厳しく人を糾弾したからだ。
-ルカ3:7-9「ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」。
・詩編101編の王も人に厳しい。彼は裁きをあくまでも公正に行うと宣言する。
-詩編101:8「朝ごとに、私はこの地の逆らう者を滅ぼし、悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます」。
・裁かれて無実を主張できる人は居ない。本当の改革は人の罪、弱さを知ることから始まる。イエスはその弱さを糾弾されなかった。マタイはそのイエスに主の僕の姿を見る(参照:イザヤ42:1-4)。
-マタイ12:17-20「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、私の選んだ僕。私の心に適った、愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない』」。
・聖書で信仰の人と言われる人々の殆どは、罪を犯し、泣いたことのある人だ。神は自分の弱さを知る罪人にその業を委託される。
-2007年11月11日説教から「聖書で信仰者と呼ばれる人は、決して品行方正の人ではありません。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、ダビデは過ちを通して自分が罪人である事を知り、新しい人間となりました。ペテロはイエスを否認した後、裁判の行われていた大祭司の屋敷を飛び出し、泣きました。その時の涙こそが、ペテロの洗礼の水です。パウロもそうです。ダマスコ途上での復活のイエスとの出会いが、パウロを迫害する者から迫害される者に変えました」。
3.詩編101編参考資料(2011年04月20日朝日新聞夕刊「(ニッポン人脈記)最も良き人は帰らない」)
・ビクトール・フランクルの『夜と霧』は、敗戦11年後の1956年8月15日に、みすず書房が出版した。250円。すぐ売り上げ1位となり、2カ月で12刷に届いた。その年9月の朝日新聞にはこんな広告が載っている。
〈ナチの強制収容所に一家ひとくるみ囚えられ、両親妻子ことごとくガスかまどで殺されつつ、己れ一人奇跡的生還をした凄絶きわみない体験記〉。当時はこのように伝えられていた。
・「夜と霧」(原題『一心理学者の強制収容所体験』)は日本独自の書名で、かつ、日本の読者の理解を助けるために、みすず書房が加えたものであった。ナチスの戦争犯罪についてイギリス軍の元法律顧問が書いた本からとった、長文の解説。強制収容所の死体焼却炉や、やせこけた裸の死体の山など、約 40枚の写真と図。そして、日本の中国侵略にも触れて「知ることは超えることであると信じたい」と訴えた「出版者の序」である。「今はナチスのしたことは常識だろうけど、当時は、ようやく紀伊国屋書店などに戦争犯罪を伝える洋書が入ってきて、写真が見られるようになったころだった」。戦後、みすず書房を創業した小尾俊人は言う。「タイトルもそのままでは売れない。簡潔で内容を伝える言葉がいい。そのころナチスの作戦名をもとにした映画の『夜と霧』が話題になっていたこともあって、私がつけた」。
・映画「夜と霧」は、フランスの監督アラン・レネが、いくつかのナチス強制収容所の記録映像に、戦後10年で廃虚のようになったアウシュビッツのカラー撮影を加えて、55年に制作した短編だ。翌年のカンヌ映画祭に出すと、西ドイツ大使館の反対で正式上映が見送られ、騒ぎになった。日本での一般公開は61年。遺体をブルドーザーで処理する映像などが残虐だとして、税関で一部カットされた。「夜と霧」とは41年12月のナチスの作戦名で、占領したフランスやベルギーで抵抗者を夜陰に乗じて拉致し、強制収容所に押し込んだ。映画は、この作戦で強制収容所に入れられたジャン・ケロールの詩をもとにしている。そういう意味では、この映画も「アウシュビッツでのユダヤ人虐殺」だけを描いたものではないのだが、日本では単純化して伝えられた。
・印象的な書名と、むごい事実を伝える資料で包んだ日本版『夜と霧』。だからこそ、これほどまでに広がったのかもしれない。新聞や雑誌が次々に取り上げた。「明るみに出た地獄収容所/毒ガス・火焙りで」とナチスの行為に焦点をあてた紹介の一方、「ナチの残虐行為の暴露本」のような仕立ては余計だと、異議を唱えるものもあった。遠藤周作、吉行淳之介、多くの評者は、ナチスの蛮行への戦慄と、そのなかでなお失われなかった精神性への感銘をつづった。この本を出したいと西ドイツから持ち帰った翻訳者の霜山徳爾は、97年にフランクルが亡くなった時、強制収容所を扱った多くの本のなかで『夜と霧』が残った理由を考えた。そして、〈『夜と霧』が人の心を打つのは、フランクルが『告発しない』ことによります〉という詩人石原吉郎の言葉を、追悼文に記している。
・石原は霜山が西ドイツに留学した53年、シベリア抑留から帰国した。『夜と霧』で、強制労働で疲れ果てた人たちがただ日没をながめ、「世界ってどうしてこう綺麗なのだろう」と問う場面がある。その「どうして」に石原は心ふるわせた。自分たちの不条理な現実との、あまりの対比。「最もよき人々は帰ってこなかった」(霜山訳)。この言葉を「疼くような思いで読んだ」と石原は書いた。「最もよき私自身も帰っては来なかった」と、同胞と命を犯し合うようにして生きたソ連での収容所体験を重ねている。