1.神を愛するとは人を愛すること
・ヨハネ第一の手紙を読んできました。今日が最終回です。ヨハネの手紙の主題は教会分裂です。ヨハネの教会では分裂騒ぎが起こり、一部の人々が教会を去って行きました。それから2000年、地上の教会は分裂を続けています。多くの宗派が立てられ、それぞれ異なる福音を伝えています。神によって建てられたはずの教会になぜ分裂が起こるのでしょうか。同じキリストを信じるバプテスマを受け、共に主の晩餐をいただいていた兄弟姉妹の間で、何故対立が起きるのでしょうか。
・ヨハネの教会では、グノーシスと呼ばれる、異なる信仰を持つ人々が、教会を割って出て行きました。手紙によれば、彼らはナザレのイエスが「救い主キリスト」であることを認めませんでした。彼らは言いました「イエスがバプテスマを受けた時に神の霊が降り、イエスはキリストとなられた」。仮現論(ドケティズム)とよばれる考え方で、彼らはイエスの受肉を否定し、神の霊がバプテスマの時に一時的にイエスに宿ったと考えました。彼らはキリストの受難も否定し、「イエスが十字架にかけられた時に、神の霊はイエスから出て行った」と主張します。「肉のイエスはメシアではない」と彼らは主張します。それに対しヨハネは反論します「イエスがメシア(キリスト)であると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」(5:1)。
・人は自分を生んでくれた親を愛し、同じ親から生まれた故に兄弟姉妹を愛します、これが自然な人間感情で、その関係が教会に集うお互いの間にも成立します。信仰によって新しく生まれた者は、生んでくれた神を愛し、その同じ神から生まれた教会の人々と、兄弟姉妹の関係になります。それをヨハネは説明します「このことから明らかなように、私たちが神を愛し、その掟を守る時はいつも、神の子供たちを愛します」(5:2)。ヨハネは続けます「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(5:3a)。
・イエスは弟子たちに言われました「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る」(ヨハネ4:15)。神の掟とは、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)というものです。神を愛する者は兄弟姉妹と愛し合う、それが神の掟です。その掟を守ることは難しくないとヨハネは言います。でも、本当にそうなのでしょうか。ヨハネでさえ、教会を出て行った人々を嫌っていることを、手紙の中で告白しています「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちの元に留まっていたでしょう。しかし去って行き、誰も私たちの仲間ではないことが明らかになりました」(2:19)。イエスは「敵を愛せ」と言われました。しかし、私たちは自分を非難する人や、自分に悪を行う人を赦すことは出来ないし、ましてや愛することは出来ません。それなのに何故、ヨハネは「兄弟姉妹と愛し合うことは難しくない」と言うのでしょうか。
・それは「敵をも愛する愛(アガペー)」は神から来るからです。本来の私たちは敵を愛することは出来ませんが、信仰がそれを可能にします。ヨハネは言います「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(5:4-5)。ヨハネにとって、世(コスモス)とは、神に背き、神に敵対する闇と死の領域です。その闇の支配から救い出されて、光と命の領域に移ることが救いです。ヨハネは、「世から救い出される」ことを、より積極的に「世に打ち勝つ」と表現しています。
2.十字架と復活の信仰に固く立つ
・私たちはイエスを信じる信仰によって世に勝つことが出来ます。イエスから力を与えられたからです。その力は十字架の死によって贖い取られたとヨハネは強調します。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです」(5:6a)。水とはバプテスマの水です。イエスはバプテスマを受けることを通して聖霊を与えられ、キリストとしての活動を始められました。そのキリストが十字架で血を流すことを通して、その活動を完成されたとヨハネは言います。「水だけではなく、水と血とによって来られたのです」。グノーシスの人々は「神の霊はイエスが十字架につけられる直前にイエスを離れ、十字架で苦しんだのはキリストではなく、人間イエスだった」と主張していました。そうではないとヨハネは血を強調します「神の御子が血を流された」と。「霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者は一致しています」(5:6b-8)。
・ヨハネは続けます「神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命を私たちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(5:10-12)。御子を信じる人には「永遠の命が与えられる」、ここに言われる「永遠の命」とは、死んで天国に行くことではありません。今ここで「神により生かされる命」のことです。神には平和がある故に、私たちも平和が与えられます。神には力があるゆえに、私たちにも世に勝つ力が与えられます。神は聖なる方であるゆえに、私たちの罪も赦されて聖なる者になることができます。神は愛ゆえに、私たちも兄弟を愛することができる。一言でいえば、御子を信じることによって、「世に打ち勝つ信仰」が与えられるのです。
3.世に打ち勝つ信仰
・今日の招詞としてヨハネ16:33を選びました。次のような言葉です。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。世はイエスを憎み、イエスを裁き、イエスを十字架で殺しました。しかし、神はそのイエスを死からよみがえらせて下さった。世は肉のイエスを殺すことは出来ましたが、それ以上は何も出来なかった。イエスは復活され、今、私たちと共におられる。「殺されたイエスは復活して世に勝たれた、その勝利をイエスは私たちにも与えて下さる」、それが私たちの信仰です。
・ユルゲン・モルトマンは説教集「無力の力強さ」 の中で、イエスの十字架死の意味を語ります。「キリスト教信仰の中心にはキリストの受難史が立っている。この受難の中心には、神に見捨てられ、神に呪われたキリストの神経験が立っている。私にとってはこれこそ真の希望のはじまりである。人間が希望を失う所、無力になってもはや何一つすることができなくなる所、そこでこそ、試練にあい、一人見捨てられたキリストは、そういう人々を待っておられ、ご自身の情熱に預からせて下さる。自分から苦しんだことのある者のみ、苦しんでいる人を助けることができる」。
・モルトマンは1926年ハンブルクに生まれ、18歳で軍隊に招集されて各地を転戦し、捕虜となり、祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えます。仲間の多くは死に、故郷は空襲で焼け野原となっています。彼は収容所の中で自問自答します。「なぜ私は生きているのか」、「神よ、あなたはどこにいるのか」。その彼がアメリカ軍チャプレンから一冊の聖書を贈られ、マルコ15章「わが神、わが神、何故私を見捨てられたのですか」とのイエスの叫びを聞いて、回心を体験します。同じ絶望をイエスもまた体験されたことを知ったからです。彼は語ります「私たちのために、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる。私たちを圧する絶望はこの御方と交わることによって、再び自由に開かれて希望となる」。イエスの十字架死からの復活は、私たちを絶望から蘇らせ、世に勝つ信仰を与えます。
・そして世に勝つ信仰を与えられた者は、「すべてが神の摂理に中にある」ことを信じることができます。思い通りにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果に終わることもあります。しかし「神は見ておられる」、そして「神は人の悪を善に変える力」をお持ちだということを信じた時、目の前にある不条理がやがて解決に向かい始めます。イエスの十字架死がそのままでは終わらなかったようにです。
・私たちはヨハネの手紙を4回にわたって読んできました。読んでよかったと思います。私たちの信仰の原点は、「イエスが私たちのために死んで下さった」、そのことに対する感謝であることを再確認できました。今日の応答讃美に、新生讃美歌363番を選んでいただきました。一番は歌います「恐れと破れの中に疲れを覚える時」、教会分裂は人々を「恐れと破れに」導きますが、教会は聖霊の導きにより、その危機を克服します(「我らを導き給え、主にある聖き交わりへ」)。二番は歌います「為すべき業と務めに、渇きを覚える時」、為すべきことをしていないとの自責の思いが、御言葉により潤されます(「我らを潤したまえ、命の生ける水を持て」)。そして私たちは「主イエスの御業により一つに結ばれる」(三番)のです。
・教会分裂を考える時、多くの示唆を与える言葉が、マタイ福音書、毒麦の譬えの中にあります。イエスは語られます「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」(マタイ13:24-26)。アウグスティヌスはこの譬えから、教会の中になぜ悪があるのかを考えました「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私たちにはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存しているともいえる。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように」(山田昌「アウグスティヌス講話」から)。教会を一つにまとめる知恵とは何か、それは「自分たちの正しさに固執しない」ことだと思います。自分の正しさに固執する人々が、教会を割って出て行ったのです。国際大学・山口真一氏の調査によれば、ネットで誹謗中傷を書き込んでいる人の70%が、「間違っていることをしている相手が許せなかった」という自分の正義感に基づいて書き込んでいるとのことです。その時、彼は自分の中にも毒麦があることに気づいていない。アウグスティヌスが語るように「自分の中にも毒麦があることを知るからこそ、相手の毒麦、悪を赦していく」ことが必要です。
・ヨハネの教会では分裂騒ぎがありました。人間の罪の故です。その分裂騒ぎがあったために、ヨハネの手紙が書かれ、後世の教会はそれを読むことができます。ここに偉大な神の摂理があります。ヨハネの教会を分裂させたものは人の悪ですが、その悪が「ヨハネの手紙」という善に変えられました。現代の教会の分裂騒動も、経済的な行き詰まりや人間的対立により生じる出来事ですが、その出来事を通して私たちはヨハネの手紙を読むように導かれ、信仰の原点を確認することが出来ます。篠崎キリスト教会も何度も教会分裂や教会内の対立を経験しました。それは私たちの信仰を精錬するための神の働きであったと思います。その悲しみを通して、「神は人の悪を善に変える力をお持ち」であることをわからせていただいたのですから。