1.友の裏切りを嘆く
・詩編55篇は友の裏切りを嘆く歌である。詠い手は襲い掛かる悲嘆と苦悶の中で嘆きの声をあげ、神に救済を祈る。詠い手は「神よ、私の祈りに耳を傾けて下さい」と祈り始める。
-詩編55:2-5「神よ、私の祈りに耳を向けてください。嘆き求める私から隠れないでください。私に耳を傾け、答えてください。私は悩みの中にあってうろたえています。不安です。敵が声をあげ、神に逆らう者が迫ります。彼らは私に災いをふりかからせようとし、憤って襲いかかります。胸の中で心はもだえ、私は死の恐怖に襲われています」。
・「私は悩みの中にあってうろたえています」、原文では「気が狂いそうです」。敵の攻撃の中で詠い手は心身ともに疲れ果て、気が狂いそうになっている。彼は夢想する「翼があればこの場から逃れることができるのに」と。
-詩編55:6-9「恐れとわななきが湧き起こり、戦慄が私を覆い、私は言います『鳩の翼が私にあれば、飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて、荒れ野で夜を過ごすことができるのに。烈しい風と嵐を避け、急いで身を隠すことができるのに』」。
・しかし、詠い手は告発者のいる都に留まる。逃げれば悪人との対決を放棄し、この地を敵対者に委ねることになる。詩人は敵を滅ぼして下さいと祈る。都では、言葉の暴力がはびこり、不法と争いと搾取に満ちている。
-詩編55:10-12「主よ、彼らを絶やしてください。彼らの舌は分裂を引き起こしています。私には確かに見えます、都に不法と争いのあることが。それらは昼も夜も、都の城壁の上を巡り、町中には災いと労苦が、町中には滅びがあります。広場からは搾取と詐欺が去りません」。
・詩人にとっての問題はこれまで同志として親しく語り、共に礼拝をした友が裏切ったことだ。本来の敵であれば、忍ぶこともできる。しかし、信頼していた友が裏切って、今は迫害者となっている。「友に裏切られた」という苦い思いの中に詩人はいる。
-詩編55:13-15「私を嘲る者が敵であれば、それに耐えもしよう。私を憎む者が尊大にふるまうのであれば、彼を避けて隠れもしよう。だが、それはお前なのだ。私と同じ人間、私の友、知り合った仲。楽しく、親しく交わり、神殿の群衆の中を共に行き来したものだった」。
・預言者の多くも友の裏切りを経験する。
-ミカ7:5「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ」。
-エレミヤ20:10「私には聞こえています、多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』と彼らは言う。『共に彼を弾劾しよう』と。私の味方だった者も皆、私がつまずくのを待ち構えている。『彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう』と」。
2.あなたの重荷を主に委ねよ
・詩編41篇も友に裏切られた悲しみを詠う詩篇だ。
-詩篇41:10「私の信頼していた仲間、私のパンを食べる者が、威張って私を足げにします」。
・ヨハネ福音書はユダの裏切りを、詩編41篇を通して叙述する。イエスもこの苦しみを知っておられる
-ヨハネ13:18-26「私は、あなたがた皆について、こう言っているのではない。私は、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『私のパンを食べている者が、私に逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない・・・イエスは、『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった」。
・敵からの迫害、友の裏切りの中で、詠い手はもはや祈り続けることさえできなくなり、ただ呻く。その呻きの中で、呻きを聞いて下さる神を彼は見出していった。
-詩編55:16-20「死に襲われるがよい、生きながら陰府に下ればよい・・・悪を蓄えている者は。私は神を呼ぶ。主は私を救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、私は悩んで呻く。神は私の声を聞いてくださる。闘いを挑む多くの者のただ中から、私の魂を贖い出し、平和に守ってくださる。神は私の声を聞き、彼らを低くされる」。
・誰でもない、まさに友が裏切った。その悲しみは深い。最後に詩人は叫ぶ「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えて下さる」と。関根正雄をこの詩を「神への逃亡」と呼ぶ。まさに私たちは絶望の淵から神へ逃亡するのだ。
-詩編55:23「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」。
・主の救いを確信した詠い手はもはや自分で復讐しようとはしない。詩人は裏切った友への報復を主に委ねる。
-詩編55:21-24「彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。口は脂肪よりも滑らかに語るが、心には闘いの思いを抱き、言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい・・・神よ、あなた御自身で、滅びの穴に追い落としてください、欺く者、流血の罪を犯す者を。彼らが人生の半ばにも達しませんように。私はあなたに依り頼みます」。
・イエスも裏切られ、捨てられたが、敵を赦された。旧約は敵の赦しを知らないが、新約は知る。故に報復を主に委ねると同時に、その敵のために赦しを祈っていく。
-第一ペテロ2:22-24「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました・・・そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」。
3.詩篇55編「友に裏切られた時」、黙想
・矢内原忠雄は1937年「国家の理想」を発表し、日中戦争を批判したために、東大教授の席を追われた。彼は詩編55篇の注解で書く「戦前、私を大学から追うに力があったのは、私と同じ教授会に座ったものだった。浅見仙作翁の検挙の端を作った者は同じ祈祷会に座った者の密告であったといわれる」(矢内原忠雄全集11巻)。まさに友が裏切る体験を彼らもした。
・内村鑑三が不敬事件により一高教師を解職された時、世間と歩調を合わせて内村を批判したのは、当時の教会指導者だった。内村は「基督信徒の慰め」で語る「今やこの頼みに頼みし国人に捨てられて、余は帰るに故山なく、求むるに朋友なきに至れり、天の下には身を隠すに家なく、他人に顔を会し得ず、孤独淋しさ言わん方なきに至れり」(「基督信徒の慰め」より)。彼はそこから出発した。無教会主義を唱え、日露戦争では非戦を唱える。「戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」(万朝報記事より)。戦時中にこの発言ができる彼の強さは、試練を乗り越えたところから来る。艱難は人を育てるのだ。
・榎本保郎は語る「人間はみな自己中心的であり、自分に益のあることはするが、益のないことはしない。だから私たちが益のある間は、人も私たちを愛してくれ、親切にしてくれるが、人々の役に立たなくなると疎んじられる。美しい花も枯れてくるとごみ箱の中に放り込まれる。それが世の常である」(新約聖書1日1章p523)。多くの人は「人生はそんなものだ」と割り切るか、詩篇55編の作者のように「見捨てることない神」を求めていく。しかしそうできない人たちは傷つき、社会と切断し、引きこもって行く。引きこもり者数が日本では100万人を超えている。詩編55編はそのような人々に届けたい詩である。