1.中風の人を癒す
・イエスは多くの癒しをされた。医学が未発達で病気の原因が不明だった古代においては、その癒しの業は病む者にとってかけがえのない救いであった。癒しは病める民への福音であった。
-マタイ9:1-3「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた」。
・並行個所マルコ2章はこの時の情景をより詳細に報告する。
-マルコ2:1-5「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」。
・中風とは「麻痺」、この人は脳卒中等の後遺症で体が不自由になっていた。この人は四人の男に担がれてここに来た。人を戸板に載せて担ぐのは重労働だ。男たちは汗びっしょりになって、イエスのおられた家まで病人を運んで来たが、家は戸口まで人があふれ、中に入ることは出来ない。四人の男たちは屋根に上り、それをはがして、病人をイエスの前に降ろした。イエスは、そこまでして癒しを求めてきた男たちの熱心さに、感動された。イエスは「その人たちの信仰を見て」、言われた「子よ、あなたの罪は赦された」。
・その場にいた律法学者はイエスの言葉を聞いて、つぶやく「神お一人のほかに罪を赦すことの出来るお方はいない。この男は神を冒涜している」と。
-マタイ9:3「ところが、律法学者の中に、『この男は神を冒涜している』と思う者がいた」。
・イエスはそれを悟って言われた「中風の人に『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて床をとって歩け』というのとどちらがたやすいか」。
-マタイ9:4-5「イエスは彼らの考えを見抜いて言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか』」。
・そして決定的な言葉「人の子は罪の赦しの権限を神から託されている」と語られた。
-マタイ9:7-8「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。」
・イエスは病の癒しに先立って罪の赦しを宣言される。「罪の赦し」と「病の癒し」は、どのように関係するのだろうか。人は病気や困難の現実の中で、現実を打ち破る力、病を癒し、困難を取り除く力を求めている。だから、シモンの家には癒しを求める人々があふれ、教会にも癒しを求めて人が訪ねて来る。私たちが求めるのは、「目に見えない罪の赦し」ではなく、「目に見える病や苦難の解決」だ。
・しかし、イエスは中風の人に、まず罪の赦しを語られた。当時のユダヤ社会では、病気は「罪を犯した人間に対する神の罰だ」と考えられていた。「因果応報」の考え方である。イエスはこれを否定された「あなたの罪は赦された」、あなたは神の怒りにより病気になったのではない」と言われた。イエスは神の愛を示すために、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。家に帰る、社会生活に復帰しなさいとの意味だ。イエスは別の箇所では、病の癒しを「神の御業が現れるため」(ヨハネ9:3)と言われた。「神の御業が現れるため」、神は人を罰する方ではなく、憐れまれる方である、その憐れみをあなた方が見ることができるようにと、イエスは病人を癒される。
2.取税人を弟子にする
・イエスは当時の社会から排斥されていた取税人マタイを弟子に招いた。
-マタイ9:9「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。
・並行個所マルコやルカでは取税人(徴税人)の名前は「レビ」とされている。
-マルコ2:13「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。
・徴税人は支配者ローマのために税金を集める仕事をしていた。人々は不浄な異邦人の手先として働く彼らを嫌った。イエスは嫌われていた徴税人に、「私の弟子となりなさい」と招かれた。ユダヤ教の教師は罪人とされた徴税人とは交際しないし、ましてや弟子に招くことなどありえない。通常はありえないこと、それなのにイエスは招かれ、彼は招きに感動してイエスに従う。招かれたマタイは感謝の会食会を催す。
-マタイ9:10「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」。
・ユダヤ教の教師たちは、「何故罪びとと一緒に食事をするのか」とイエスを責めた。
-マタイ9:11「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」。
・それに対してイエスは答えられる「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。
-マタイ9:12-13「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、生贄ではない』(ホセア6:6)とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
・イエスは「私が来たのは罪人を招くためである」と言われた。自らを正しいとする人は、「律法を守らない、あるいは守れない人」を排斥することによって、正しさを維持しようとする。現代のキリスト者の一部の人々は「キリスト者たる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考える。日本にキリスト教を伝えた宣教師の多くは禁酒禁煙のピューリタン信仰の伝統の中で育って来たゆえに言う「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのですか。あなたは本当に教師なのですか」とイエスに詰め寄ったファリサイ派と同じではないか。
・イエスはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えて「飲んで楽しみなさい」と言われた(ヨハネ2:11)。マタイたちの会食の場でもぶどう酒が振舞われ、イエスも飲んで楽しまれたと思われる。それなのにイエスに従う宣教師たちが、「お酒を飲む人々は地獄に堕ちる」と主張するのはおかしい。それをおかしいと思わないのが律法主義の怖さである。
3.断食問答
・断食問答は、「何故、あなたの弟子たちは断食しないのか」というヨハネの弟子からの質問で始まった。ファリサイ人は週二回断食し、ヨハネの弟子たちも同じように断食をしていたから、断食問答になった。
-マタイ9:14「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った」。
・それに対してイエスは答えられる「今はその時ではない」。
-マタイ9:15「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」。
・そして有名な革袋の喩え、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れよ」が語られる。
-マタイ9:16-17「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。』」
・イエスは断食を否定されてはいない。しかし「今は婚礼の時であり、断食をする時ではない」と語られる。このすれ違いは「神の国」に対する理解の違いから来る。ファリサイ人にとって神の国に入るのは律法を守っている人々であり、彼等は必死になって律法を守ろうとした。イエスにとって神の国に入る人は、神の招きに応える人だった。徴税人としてこれまで疎外されてきたマタイが、悔改めてイエスの招きに応じた。「今日はマタイが救われた祝宴の日ではないか、祝宴の日に何故断食するのか」とイエスは言われている。
・マタイに代表される徴税人や罪人たちは、自分自身を正しいとは露ほども考えていなかった。自分自身の罪を知りながら、しかし自分の力ではどうにもできず、苦しんでいた。イエスはそれゆえに彼を弟子に招かれた。ある牧師は語る「イエスがマタイを弟子として召されたのは、マタイが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただマタイが医者を必要としていた病人であったからだ」。この招きによってマタイの人生は変えられていく。