1.人を裁くな
・イエスは「人は神の裁きの下に置かれ、赦されて存在しているのに、人を赦さないのであれば、神はあなたを裁かれる」と言われる。他人を裁くときの尺度がそのまま自分にも適用される。
-マタイ7:1-2「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。
・並行個所のルカは、「赦しなさい。そうすればあなたがたも赦される」とより明確に語る。
-ルカ6:37-38「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される・・・あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。
・イエスは独善的な裁きをする者を偽善者と呼ばれる。自分を過ちのない者とするからだ。過ちは誰にもあることを理解すれば、私たちは人を裁けなくなる。ヨハネ8章で姦淫の女を裁こうとした者たちも、イエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が石を投げよ」との言葉に立ち去った。
-ヨハネ8:7-9「彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』・・・これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った」。
・人は自分が量ったその秤で、量り返される。
-マタイ7:3-5「あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおがくずを取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取り除くことができる」。
・後の教会は罪を犯した教会員に「除名」という公的処罰を与えた。共同体を維持するためには規律が必要であり、違反した者の裁きが必要になる。「裁く」という言葉はマタイ福音書には2回しか出てこないが、パウロ書簡には28回も出てくる。イエスの言葉からの乖離をどう理解すべきか、難しい問題である。
-マタイ18:15-17「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい・・・それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。
2.求めなさい
・マタイは山上の説教の締めくくりとして「求めよ」というイエスの言葉を紹介する。「求める者には与えられる」、「祈りは必ず聞かれる」とイエスは言われる
-マタイ7:7-8「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。
・人間でさえ、求める子には食べ物を与える。ましてや天の父は、求める者に良い物をくださらないはずはない。
-マタイ7:9-11「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
・求めれば与えられる。正しい祈りは必ず聞かれる。旧約、新約の数多い証人たちもそれを証しする。
-イザヤ49:15「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない」。
・しかし私たちの経験は聞かれない祈りもあることを教える。遠藤周作「沈黙」は、聞かれない祈りを主題にしている。500年前のキリシタン迫害時代、日本では10万人を超える殉教者が出た。信仰ゆえに殺された多くの人々は、「主よ、何故あなたは私たちを捨てられたのですか」と叫んだ。何故神は祈りを聞かれない時があるのか。イザヤは祈りが聞かれない時の多くは私たちに原因があると語る。
-イザヤ1:15-17「お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いを私の目の前から取り除け・・・搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。
・祈りは必ず聞かれる。しかしそれは私たちが望むものではないこともある。イエスはゲッセマネで祈られた「この杯を私から取りのけて下さい」(マルコ14:36)。しかし神は沈黙を守られ、イエスが十字架にかけられることを許容された。イエスは十字架上で叫ぶ「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。しかし神はそのイエスを死から蘇らせた。神はイエスを捨てられなかった。
-使徒2:32-33「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」。
・パウロもまた、「聞かれない祈りに意味がある」ことを証しする。
-第二コリント12:7-9a「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」。
・パウロの祈りもまた聞かれなかった。しかし、聞かれないことを通して、「力は弱さの中でこそ発揮される」という生きる力が与えられた。パウロの体験は、「聞かれない祈りこそ、神に出会うための大事な祈りなのだ」ということを私たちに教える。
-第二コリント12:9b-10「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。
3.黄金律
・マタイは山上の説教の締めくくりとして、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」と語る。この言葉は人間の倫理的規範のすべてを要約する原理として「黄金律」と呼ばれている。
-マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。
・ルカ版黄金律は「敵を愛せよ」という文脈の中で語られる。
-ルカ6:31-36「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか・・・あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。
・パウロの愛の賛歌はこの黄金律の具体化であろう。
-第一コリント13:4-7「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。