- ペテロの信仰告白
・マタイ福音書を読み続けています。今日与えられた聖書箇所はマタイ16:13-23です。イエスが「あなたがたは私を何者だと言うのか」と弟子たちに問われ、弟子を代表してペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白する場面です。この出来事を通して、主を告白するとは何か、その告白の上に立てられる私たちの信仰生活とは何かを考えていきます。
・イエスはガリラヤで伝道されていましたが、いよいよエルサレムに行く決意をされ、その前に弟子たちと北の地ピリポ・カイザリアに向かわれます。ガリラヤの北端、ヨルダン川はここから流れ出し,ガリラヤ湖に注ぎます。この小旅行の後、イエスはエルサレムに向かわれますが、そこはイエスに敵意を持つ祭司長や律法学者の本拠地であり、イエスは秩序を乱す異端者として、捕らえられ、殺される危険性がありました。しかし、イエスはそれでもエルサレムに向かわれます。神の都と呼ばれたエルサレムにこそ、迫り来る「終末」を伝え、彼らの悔い改めを求めなければ、「神の国」は来ないという使命感を持っておられたからです。
・イエスはエルサレムで待ち受けている苦難を弟子たちにあらかじめ伝え、彼らにも覚悟を求めたいと思われました。弟子たちに受難予告をされる前に、イエスはまず弟子たちに、人々は「私のことを何者だと言っているのか」と尋ねられます。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だなどと言っている」と答えました。イエスの力ある言葉と行いを見て、人々はイエスが「天から遣わされた者」と思っていました。その弟子たちに、イエスはさらに問われます「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」(16:15)。その問いに弟子たちを代表する形でペテロが答えます「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)。
・ペテロの告白した、「メシア」という言葉の背景には、「栄光のメシア」の待望があります。当時のユダヤ人は、自分たちをローマ帝国の支配から解放し、ダビデ・ソロモン時代の栄光を再び取り戻してくれるメシアを待望しており、ペテロの告白もその方向性の中にあります。そのペテロの告白に対して、マタイは17節以降でイエスの祝福の言葉を記します。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:17-19)。
・このマタイ16:17-19はマタイが基本資料としたマルコ福音書にはなく(マタイ福音書の50%はマルコ福音書から取られている)、並行するルカ福音書にもない(マタイとルカは30%が同じ記事)ことから、マタイが独自に編集して挿入した言葉だと聖書学者たちは指摘します。イエスは人々に悔い改めを求められましたが、それは「私の教会」(16:18)を形成するためではなく、終末を前に準備をするためのものでした。しかしイエスは志半ばで十字架にて殺され、その後復活され、そこに「イエスは主である」と告白する教会が生まれてきました。この言葉「あなたはメシア、生ける神の子です」はペテロ個人の告白ではなく、マタイ教会の信仰告白の言葉です。
2.ペテロを叱責されるイエス
・イスラエルの宗教指導者たちはイエスに敵対し、迫害の度を強めています。エルサレムに行けば受難は避けられない、しかしそれが父なる神の御心であればあえて受けようとイエスは決心しておられます。だからイエスは「自分はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されるだろう」(16:21)と弟子たちに告げられます。弟子たちは耳を疑いました。「神から遣わされたメシアが殺されて死ぬ」、そんなことがありえようか。マタイは「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(16:22)と記します。ペテロは言います「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。それに対してイエスは「サタン、引き下がれ」とペテロを激しく叱りつけます(16:23)。
・人はいつも「栄光のメシア」を求めます。イエスはガリラヤで多くの癒しを行い、力強い言葉で神の国の福音を説かれました。イエスの行く所、どこでも大勢の民衆が押し寄せました。弟子たちは「この人に従っていけば、自分たちも人から賞賛される存在になる」と期待して従ってきました。彼らはイエスがエルサレムで王位につかれ、自分たちも相応の地位を与えられると期待していたのに、「死ぬためにエルサレムに行く」とイエスは言われます。「とんでもない」という思いが、ペテロの激しい言葉を引き出しています。そのペテロにイエスは「サタンよ、引き下がれ」と激しく叱責されました。
・この出来事からわかることは、イエスの生前、弟子たちはイエスの真実を理解出来ず、本当の信仰告白もできなかったという事実です。ですから、彼らは、イエスが捕らえられた時には逃げ去り、「お前はイエスの仲間だ」と告発されると、「そんな人は知らない」と否定します。その彼らが復活のイエスとの出会いを通して変えられていきます。ヨハネ21章は、イエスの十字架死の後、失望した弟子たちがガリラヤに帰り、もとの漁師に戻った事を伝えますが、その彼らに復活のイエスが現れ、共に食事をされます。食事の後で、イエスはペテロに三度聞かれます「あなたは私を愛するか」(ヨハネ21:15~17)。ペテロは三度イエスが「私を愛するか」と問われたことで、悲しくなりました。ペテロは告白します「私は三度あなたを裏切りました。あなたに従うことが出来ませんでした。でも心からあなたを愛しています。そのことをわかって下さい」。ここに初めて真実の信仰告白がなされました。悔い改めたペテロにイエスは言われます「私の羊を飼いなさい」。復活のイエスが弟子たちに委託した言葉「私の羊を飼いなさい」が、マタイ16:9「私はあなたに天の国の鍵を授ける」という言葉に示されています。
3.その委託の言葉がマタイ16:17-19にある
・今日の招詞にヨハネ20:22-23を選びました。次のような言葉です「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。復活されたイエスが弟子たちに命じられた宣教命令の言葉です。この言葉を読む時、私たちはそこにマタイ16章と同じ言葉が語られていることに気付きます。マタイは記しました「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:19)。それはヨハネが伝える「あなたがたが赦せば、その罪は赦される。あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と同じ意味です。マタイ福音書16章17-19節に挿入されていたイエスの祝福の言葉は、復活のイエスが弟子たちに語った委託の言葉なのです。
・生前のイエスは、「神の国が来る」と宣教されました。「神が新しい世をお造りになる。だから悔い改めて待て」と。そのイエスが十字架で死なれ、復活して弟子たちに現れ、弟子たちはイエスが神の子であったことを知りました。復活されたイエスに弟子たちは告白します「あなたこそメシア(ギリシャ語キリスト)、生ける神の子です」(16:16)。その告白に対して、復活のイエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」(16:17)と祝福しておられるのです。
・歴史学者は語ります「イエスは神の国を宣教され、弟子たち(教会)はイエスが神の子であったと宣教した」。復活のイエスは弟子たちに言われます「私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(16:18)。「陰府の力もこれに対抗できない」、十字架で死んだ私が復活して帰ってきたではないかとイエスは言われます。そして言われます「私はあなたに天の国の鍵を授ける」(16:19)。「天の国の鍵が教会に与えられている」、それは教会が権力を握って、ある人を天の国に入れ、ある人を入れないということではありません。すべての人に天の国は解放されています。教会は人々にイエスの言葉を伝え、信仰に導くことによって、天の国の門を開ける役割を持つという意味です。
・ただ問題があります。地上を生きる私たちは、本当の意味での信仰告白をすることが難しいという事実です。ペテロの信仰告白にしても当初は見当違いの信仰告白であり、「サタンよ、退け」とイエスに叱責され、裏切りと挫折を経て復活のイエスに再会して、本当の信仰告白にたどり着きました。私たちの所属する日本バプテスト連盟には全国に319の教会があり、登録信徒数は3万3千人ですが、礼拝に参加する方(現在会員)の数は1万3千名にすぎません。「イエスに従います」として洗礼を受けられた信徒の六割以上の方は、今は礼拝に参加せず、教会から離れておられるのです。何故でしょうか。それは私たちの信仰が、「自我の業としての信仰」にとどまっているからだとクリスチャンの精神科医赤星進氏は語ります「自我の業としての信仰とは、救われるために神を信じる信仰だ。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、私たちは教会の門をたたき、聖書を読み、バプテスマを受ける。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失う。なぜならば、自我の業としての信仰は、要求が受け入れられない時には、崩れていく」。復活のイエスに出会う前の弟子たちの信仰と同じです。赤星氏は語ります「神の業としての信仰を持て」と。「それは赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼だ。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができず、一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていく。イエスが示されたものはこの信仰、神への基本的信頼の信仰ではないか」。弟子たちは復活のイエスに出会うことによってこの信仰を与えられ、イエスのために死を恐れない者とされたのです。
・多くの人が教会から離れていきます。しかし、教会はいつでも離れて行った人々の立ち返りを待ち、迎える準備をしています。「一匹の羊が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行きなさい」(マタイ18:12)というイエスの言葉を教会は大事しているからです。教会は、立ち帰ってきた人々に対し、「たとえ過去に何があったとしても、主は今あなたを赦されている」と語ります。それが「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」という意味です。私たちは、信仰告白をして洗礼を受けても、いろいろな出来事の中で、教会につまずき、教会を離れ、信仰を無くしてしまう存在です。しかし、キリストはいつでも帰還を待っておられ、キリストの弟子たち(教会)はいつでも歓迎の準備をしています。今教会にいる私たちも失敗し、挫折し、教会を離れたことがあるからこそ、教会を離れている友を「迎える」ことが出来ます。ペテロの体験は私たちの体験なのです。