1.感謝と憎しみ
・詩篇9編と10編は元々一つの詩であった。いわゆる「いろは歌」で、各行の冒頭の言葉がヘブル語のアルファベット順に配置され、それが10編にも続いていく。最初に義なる神が裁きの座について、正しく裁いてくださることへの讃美が歌われる。
-詩篇9:2-4「私は心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう。いと高き神よ、私は喜び、誇り、御名をほめ歌おう。御顔を向けられて敵は退き、倒れて、滅び去った」。
・出エジプト以来、主なる神はイスラエルを導き、異邦人から守って下さり、その結果、自分たちが今ここにいることへの感謝を詩人は歌う。
-詩篇9:5-7「あなたは御座に就き、正しく裁き、私の訴えを取り上げて裁いてくださる。異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし、その名を世々限りなく消し去られる。敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り、あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った」。
・祈り手はどのような不条理の中でも、主は貧しい者、虐げられている者を救われると確信する。
-詩篇9:8-11「主は裁きのために御座を固く据え、とこしえに御座に着いておられる。御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる。虐げられている人に主が砦の塔となってくださるように、苦難の時の砦の塔となってくださるように。主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」。
・主は貧しい者の叫びを必ず聞いてくださると祈り手は歌う。
-詩篇9:12-13「シオンにいます主をほめ歌い、諸国の民に御業を告げ知らせよ。主は流された血に心を留めてそれに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない」。
2.個人の嘆きと民族の嘆き
・イスラエルの歴史は、大国の攻撃と抑圧に翻弄されてきた。預言書や歴史書は、諸大国の軍事攻勢に、罪を犯したイスラエルの民に対する神の審判を読み取ってきた。預言者たちは、正義を踏みにじり、社会的弱者を虐げるイスラエルの指導層や富裕層に向かって、剣と飢饉と疫病の災いを預言してきた。
-アモス2:6-15「主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、私は決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている・・・見よ、私は麦束を満載した車が、わだちで地を裂くように、お前たちの足もとの地を裂く。そのときは、素早い者も逃げ遅れ、強い者もその力を振るいえず、勇者も自分を救いえない。弓を引く者も立っていられず、足の速い者も逃げおおせず、馬に乗る者も自分を救いえない」。
・その裁きがイスラエルの亡国と、民のバビロン捕囚だ。国を滅ぼされた民は嘆く。バビロン軍に包囲されていたエルサレム城内では、食糧がつき、自分の子供食べる人々も出た。
-哀歌2:20-21「主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか。女がその胎の実を、育てた子を食い物にしているのです。祭司や預言者が主の聖所で殺されているのです。街では老人も子供も地に倒れ伏し、おとめも若者も剣にかかって死にました。あなたは、ついに怒り、殺し、屠って容赦されませんでした」。
・そこから発するうめきは、自分たちを苦しめた敵の滅びだ。自分が罪を犯したことはわかっていても敵を恨まざるを得ない。
-哀歌3:64-66「主よ、その仕業にしたがって彼らを罰してください。彼らの上に呪いを注いで、彼らの心を頑にしてください。主よ、あなたのいます天の下から彼らを追い、御怒りによって滅ぼし去ってください」。
・他方、捕囚になった民は、屈辱の中で、罪もない敵の幼子さえも殺したいほど憎むと歌った。それが人間の自然だ。
-詩篇137:1-9「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が歌をうたえと言うから、私たちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ。いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」。
・だから、詩編9編に、敵を呪い、敵の滅びを願う気持ちが満ち溢れていても当然だ。人間は敵を愛せない存在だ。
-詩篇9:16-18「異邦の民は自ら掘った穴に落ち、隠して張った網に足をとられる。主が現れて裁きをされるとき、逆らう者は自分の手が仕掛けた罠にかかり、神に逆らう者、神を忘れる者、異邦の民はことごとく、陰府に退く」。
・戦争や飢饉で最初に痛みつけられるのは、常に社会的弱者である。だから詩人は弱者の救いを祈る。
-詩篇9:19-21「乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず、御顔を向けて異邦の民を裁いてください。主よ、異邦の民を恐れさせ、思い知らせてください。彼らが人間にすぎないことを」。
3.不条理を超える救いを待ち望む
・亡国の悲惨を歌った哀歌の作者は主の救いを確信する。主は懲らしめてもまた憐れんでくださる。「人の子を苦しめ悩ますのは、救済のためである」と信じるゆえだ。
-哀歌3:28-33「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない」。
・「主は決して私たちを見捨てられない」との信仰が、希望を持ち続ける信仰をもたらす。神が壊されたのなら、また神が再建してくださると預言者は信じ、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌としよう」と諸国に呼びかける。
-イザヤ2:2-5「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。
・曽野綾子「哀歌」は旧約聖書・哀歌をベースにした小説だ。そこにおいても信仰が行為を変えていく。
-鳥飼春菜は所属する修道会に命じられて、部族対立の続くルワンダへ赴任し、現地人の修道女たちと協力しながら、子どもたちの世話をする。ルワンダの部族対立が激化し、多数派フツ族の民兵は軍を後ろ盾に少数民族ツチ族への暴行や虐殺を開始し、その混乱のなかで修道院にいた春菜は暴徒にレイプされ、妊娠する。彼女は身も心も疲弊しきって日本に帰国するが、修道会は妊娠した修道女を受入れない。春菜は、最初は子どもを中絶しようとする。中絶さえすれば、何事も無かった」ように生きていくことが出来る。しかし相談した神父の言葉「神は御自分で為されたことには必ずその結果に対して何らかの責任をお取りになるだろう」が彼女を変え、彼女は与えられた子と共に生きていくことを決意する。