1.イエスとサマリアの女の出会い
・ヨハネ福音書を読み続けています。今日はヨハネ4章「命の水」の物語です。イエス一行はユダヤからガリラヤに行かれる途上でサマリアを通られました。一行がサマリアの町シケムに着かれた時、郊外の井戸に一人の女が水を汲みに来ました。イエスはその女に「水を飲ませてほしい」と言われ、女は驚きます。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」(4:9)のに(ユダヤ人はサマリア人を汚れた民族として軽蔑していた)、そのユダヤ人イエスがサマリア人の女に声をかけられました。「もしあなたが、私がだれであるか知っていたならば、あなたの方から頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)。女は更にびっくりして言います「あなたは生きた水を与えることが出来るというのですか」。それに対してイエスは言われます「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13-14)。女は直ちに反応します「その命の水を私に下さい」(4:15)。「生きた水」とは流れの中にある水を指しますが、「命の水」とは何を指すのでしょうか。
・女は正午に、町外れの井戸まで水を汲みに来ています。水汲みは、普通は涼しい朝か夕方にします。しかし女はあえて暑い昼時に水汲みに来ています。他の女たちと顔をあわせることが出来ない事情があったからです。女は過去に5度の結婚に失敗し、今は内縁の夫と同棲しています。離縁の原因は、彼女の不身持のためかもしれません。イエスは女と話すうちに彼女の最大の問題は、「水の渇き」ではなく、「魂の渇き」であることに気づかれます。女は男から男へ頼るべきものを求めていきましたが、どこにも本当の満たしを見出すことが出来ず、今は「不身持の女」との評判が立てられ、周りの人々から排除され、人目を避けて暮らしています。女が新しくやり直すためには、まず現実を見つめることが必要でした。だから女の最も触れてほしくない部分に、彼女の生き方にイエスは触れられます。それがあなたの夫を此処に呼んで来なさい」という言葉でした(4:16)。夫のいない女には苦痛の言葉です。
・しかし、その「苦痛」の言葉を通して、女は自分の罪を悟らされ、「全てを知っておられる神がここにいます」ことに気づかされます。何とか、この罪から清められたいと女は願いました。彼女は礼拝からも排除されていました。エルサレムでの礼拝は彼女がサマリア人ゆえに締め出されており、ゲリジム山での礼拝は彼女の不身持のゆえに同胞から拒否されていました。彼女は魂の渇きを癒すための礼拝の場所がありませんでした。イエスは女に言われます「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:22)。「あなたは礼拝から疎外されている。でも、私があなたに礼拝の場所を与えよう。あなたが、どこでも、霊とまことを持って礼拝すれば、神は答えてくださる。神はあなたを疎外されない」。女はイエスの言葉によって回心します。彼女は「「生けるキリスト」に、「命の水」に出会ったのです。
2.渇く魂
・人は挫折や苦しみを通して、「自分の魂が飢え渇いている」ことを知らされた時、「命の水、生けるキリスト」を求めるようになります。サマリアの女はイエスの対話を通じて回心しますが、何故、こんなに突然に回心したのでしょうか。それは女の置かれていた状況を考えればわかります。女はサマリア人であり、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、道で遭っても口を利かないのが一般です。それなのに、ユダヤ人のラビであるイエスは女に声をかけてくれました。彼女は女であり、当時の女性は一人前とみなされず、教師であるラビが声をかけることはなかった。その彼女に、イエスは「父なる神はあなたを愛しておられる」と説かれました。彼女は不身持の女として周りからつまはじきにされていましたが、イエスはその罪を告発するのではなく、そのような生き方では幸せにはなれないことを女に示されました。これまで誰も彼女のことを真剣に受け止めてくれなかったのに、今ここに彼女のために語る方が現れた。しかも、この方は「自分はメシアである」と言明されている(4:26)。女は根底から変えられていきます。
・やがて町に出かけていた弟子たちが食べ物を買って帰ってきます。女はそれを契機に井戸を離れますが、その時、水がめを置いたまま町に急ぎます。水を汲みに来たのに、そのことを忘れてしまったほどに、イエスの言葉は彼女を捕らえました。彼女は町に戻ると、人々に告げます「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(4:29)。彼女は罪の女として町の人たちからのけ者にされていました。その彼女が自分の最も触れられたくない自分の罪(私が行ったことをすべて)を人々に示して言います「この人は私が犯した罪を全て知っていました。この人はメシアです」。町の人々は女の日常を知っていました。彼女は隣人を避け、隣人も彼女を避けていました。その女が今は人々の目を避けないで見つめて言います「私はメシアに出会いました」。
3. 命の水を共に
・今日の招詞にヨハネ4:42を選びました。次のような言葉です。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。サマリアの人々は女の証を聞いてイエスのもとに来て、イエスの話を聞きに来ました。ユダヤ人と敵対していたはずのサマリア人が、ユダヤ人であるイエスの言葉を聞き、救い主として認めました。その契機になったのは、罪人とされていた女の証しでした。自分の身持ちの悪さゆえに、隣人と顔を合わせるのを避けていた女が、今は人々の目を見つめて言います「私はメシアに出会いました」。村人は根底から変えられた女を見て、そこに何事かが起きたことを知りました。その出来事、出会いを今度は自分で見て信じ、叫びます「この人こそメシアだ」と。
・ここに二つの和解が成立しました。町の人と女の和解、そしてユダヤ人とサマリア人の和解です。何故和解が成立したのでしょうか。ユダヤ人は通常、汚れた地に立ち入らないためサマリアを迂回して旅をしました(マタイ10:5)。しかし、イエスはあえてサマリアを通られます。ユダヤ人はサマリア人と出会っても挨拶しないのに、イエスはサマリアの女に声をかけられました。イエスほどの教師は、何十人、何百人を相手に説教されるのが当然であるのに、イエスは全力を傾けてただ一人の女に話されました。そして、人が神からの招きを受入れた時に、憎しみを超えた世界が開けます。何故なら、神にとってはユダヤ人もサマリア人も共に愛しい子たちなのです。
・4章のテーマは「命の水」です。水は貴重であり、人は水なしには生きていけません。水が不足すると、身体はそれを警告するために、喉の渇きをもたらします。水の有無は人の生死を決定しますので、人は体の渇きには敏感です。しかし、魂の渇きに関しては、人は鈍感です。魂が渇いているにもかかわらず、それに気付かず、魂の死を招きます。日本では毎年3万人の人が自殺します。原因はいろいろでしょうが、究極的には、「魂の渇きによる死」と言いうるかもしれません。魂にこそ「生ける生命の水」が必要なのです。イエスはそのような私たちに、「渇いている人は私のところに来なさい。私が生命の水である聖霊をあなたたちに与える。聖霊はあなたに満ち、もうあなたは一人で生きるのではなく、私と共に生きるようになる」と招かれています。
・ヨハネ福音書が私たちに教えるのは、イエスを信じることにより、生ける水がその人から湧き出し、それは自分の渇きを癒やすだけではなく、その水は周囲の人をも潤していくということです。サマリアの女はイエスとの出会いを通じて、キリストの証人となり、同胞をキリストの下に導きました。私たちもキリストに出会い、生命の水をいただきました。今度は私たちが他の人々に生命の水を運ぶ番です。私たちが先週の元旦礼拝の献金を捧げたペシャワール会は中村哲医師を支えるために作られた会でした。
・中村医師は1982年に日本キリスト教海外医療協力会から派遣されてパキスタンで医療活動を始められましたが、診療に当たる日々の中で、自分の治療した患者のほとんどが栄養失調と水不足が原因であることに気づきます。中村医師は医師であると共に、技術者になることでこうした問題に対処しようとします。彼は2000年代初めから、灌漑用水路網の建設に取り掛かります。日本の古くからの用水路の設計をモデルにしたこれらの灌漑用施設の建設で広大な砂漠が息を吹き返し、何十万の人びとの命と生活が一変しました。2008年11月の参議院外交防衛員会で中村医師は次のように証言します「私たちは医療団体であるが、医療行為をしていても非常に虚しい。水と清潔な飲料水と十分な食べ物があれば、おそらくは八、九割の人は命を落とさずに済んだという苦い体験から、干ばつ対策に取り組んでいる」。
・30年近く中村医師を支援してきた作家の澤地久枝さんは語ります「日本がアメリカなどに追随し、戦争参加の名目として、集団的自衛権などと憲法を骨抜きにしようとするぎりぎりの時点で、中村医師は、武力は不要、無用、有害であり、丸腰の貢献こそ意味があるという、アフガニスタン平和復興のモデルを一つ作り上げた。『命の水でよみがえる復興アフガンである』」(澤地久枝、痛哭の記、中村医師のことから)。イエスは言われました「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13-14)、中村医師が証明してくれたことは、「命の水があれば砂漠さえも緑の野に変わって行く」という事実です。
・他方、アメリカ軍はテロとの戦いを旗印に2001年にアフガンに侵攻し、その後の18年間で、アフガンの市民や兵士の犠牲者は10万人を超え、米軍犠牲者も3,500人を超えました。先日、トランプ大統領は「これ以上の犠牲を出せない」として、残った米軍15,000人の撤退を発表しました。軍事力を用いたアフガン侵攻は多くの命を奪い去り、国内に荒廃をもたらしただけで、めぼしい成果も出せませんでした。他方「命の水」をアフガンの人びとのために持ち運んだ中村医師の活動は、多くの新しい命と希望を与えました。何が正しいかは明らかです。
・詩編は歌います「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」(詩編42:2-3)。私たちの周りで多くの人々が心を病み、魂の救いを求めてあえいでいます。社会の中で疎外され、「お前なんかいらない」、「お前なんか生きる価値がない」と宣言されて、打ちひしがれている多くの人がいます。水がないために渇きと飢餓で死んでいく人々がいます。中村医師はそのような人々に、「命の水」を持ち運び、多くの命を生き返らせました。私たちもまた、できる範囲でよいから、「命の水を持ち運びなさい」と神から託されているのです。