1.イエスは律法を廃止する為ではなく、完成するために来られた
・マタイ福音書・山上の説教を読み続けています。今日はその三回目、律法についての話です。5章から7章までの長い説教は、ある時に一度に語られたものではなく、イエスが、折々にお話しになったことが、後から集められ、編集されて、一続きの説教として記録されたと思われます。しかし、折々に語られたことが、ただ順不同に並べられているのではありません。山上の説教では、次から次へと教えが語られていきますが、そこにはしっかりとしたつながりがあります。本日は5章17~20節を読みますが、ここは、前後の教えとの内容的なつながりを持っています。
・前回学びました5章13~16節では、「あなたがたは地の塩、世の光である」という教えが語られていました。地の塩、世の光は、この世を腐敗から守り、闇を照らすという働きをします。そしてイエスはこの段落の最後に言われます「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(5:16)。イエスに従う信仰者は、人々の前で「立派な行い」をしていくのだと教えられた。それを受けて17節以下で「立派な行いとは何か」が語られていきます。
・17節でイエスは言われます「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。「律法や預言者」とは、旧約聖書を指します。旧約聖書の最初の部分、モーセ五書と呼ばれる部分が「律法」であり、イスラエルの歴史や預言者たちの教えを記した部分が「預言者」です。そこに語られていることに従って生きることこそ、神の前に正しい生き方だと誰もが思っていました。「立派な行いを人々に示せ」という教えを聞いた人々は、当然「律法を守って生きるように」をイエスが語られたと理解しました。
・当時、律法の教えに精通し、それを守っていると思われていたのが、「律法学者やパリサイ派の人々」でした。彼らは聖書を日夜学び、教えを守り、行っていくためにはどのように生活すべきかを研究し、人々に教えていました。「立派な行いをしなさい」ということは、「律法学者やパリサイ派の人々のようになりなさい」という意味だと聴衆は思いました。ところがイエスは「そうではない」と言われます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:20)。「義」とは、正しさです。あなたがたの正しさが、律法学者やパリサイ派の人々よりもまさっていなければ、天国には行けないとイエスは言われた。その内容を具体化する形で、21節以下の言葉が語られています。
・21節からの段落では、「殺すな」との戒めに対して、兄弟に対して腹を立て、「ばか」とか、「愚か者」と人をののしることも、殺すことと同じだと言われます。律法学者やパリサイ派の人々の義は、殺人を犯さなければ、「殺すな」という律法を守ることになります。しかしイエスは、「あなたがたは隣人に対する怒りの心をも抑えていくのだ、それが律法学者やパリサイ派の人々にまさる義なのだ」と語られます。27節から始まる姦淫の戒めもそうです。律法学者は「姦淫=不倫を犯さなければかまわない」という解釈ですが、イエスは「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(5:28、口語訳)と言われます。イエスはおもてに現れた罪(Crime)だけでなく、心の中にある罪(Sin)の思いをも神は見られる、それが出来なければ「律法学者やパリサイ派の人々の義にまさる義」とは言えないと語られます。
2.そもそも律法とは何か
・マタイ福音書におけるイエスの律法に対する態度は、一見矛盾しています。先ほど見ましたように、イエスは「律法を廃止するためでなく、完成するために来た」(5:17)、「あなた方の義が律法学者の義に優らなければ天国に入れない」(5:20)として、律法の遵守を求められます。他方、イエスは離婚に関するモーセ規定を否認し(5:32「離縁状を渡せばそれで良いとはされない」)、安息日に病人を癒し(12:13「安息日に良いことをするのは許されている」)、食物規定を否定されます(15:11「口に入るものは人を汚さない」)。律法に対するこのイエスの自由な態度はどこから来ているのでしょうか。
・イスラエルの律法は元来、神と民との契約として結ばれた条文です。エジプトから救い出された民はシナイ山で十戒を与えられます。万物を創り、統治される神の意思を示すものとして、神が呼びかけられ、民が応答して契約が結ばれ、その契約の条文が律法でした。律法とは、イスラエルを神の民として生活を秩序づけ、神の共同体として繁栄させるものでした。やがてイスラエルは国を滅ぼされ、律法はその基盤である共同体性を失い、個人主義化していきます。捕囚のユダヤ人は、「割礼を受けることがユダヤ民族の証し」であり、「安息日に礼拝を守る」ことを通して、民族の同一性を保もとうとします。特に重要視されたのが安息日規定で、宗教指導者たちは細かい規則を作って、安息日厳守を人々に要求しました。安息日には一切の仕事をすることが禁じられ、火をおこすこと、薪を集めること、食事を用意することさえも禁じられ、侵す者は「主との契約を破る者」として批判されるようになります。
・イエスはこの形骸化した律法の有様を強く批判されたのです。安息日に病人を癒されたのはその典型です。形だけ律法を守る律法学者やパリサイ人を、「自分の義を見られるために人前で行う」(6:1)、「人に見せるために祈る(6:5)と、その偽善を批判されました。イエスが教えられたのは本来の律法の持っている意味でした。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(5:21-22)。「隣人を愛する」ことこそ、神が求めておられることであり、「隣人を愛するとは隣人を憎まない(兄弟に腹を立てない)ことなのだ」と教えられました。旧約律法の新しい解釈であり、血が通わなくなって形骸化した律法に新しい命を吹き込む教えをイエスは説かれたのです。
3.イエスの業の応答としての律法の遵守
・イエスは、「殺すな」との戒めは、「心で兄弟を怒る」ことをも含むといわれます。兄弟に腹を立てるとは、怒りや憎しみの感情を相手に持つことです。その怒りや憎しみがやがて兄弟を殺すという行為にまでなります。創世記にありますカインとアベルの物語はその典型です。弟アベルに嫉妬したカインは怒りのあまり弟を打ち殺します。またイエスは「姦淫するな」との戒めは、「情欲をいだいて女を見る者は」(5:28)姦淫したのだと言われます。不倫は目から始まります。心の中にある情欲がやがては不倫にまで行きつきます。現代は「3組に1組が離婚する」時代で、離婚原因の筆頭は配偶者の不倫です。心の中にある情欲が家族を崩壊させるのです。私たちは、「人を殺すな」、「姦淫するな」という世の戒めを超える生き方が求められています。
・今日の招詞にローマ13:9-10を選びました。次のような言葉です。「人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」は代表的な律法の規定です。この規定は日本語では禁止命令ですが、原語のヘブル語では異なります。ヘブル語を直訳すると「姦淫しないであろう、殺さないであろう、盗まないであろう」となります。神の恵みの共同体に入れられた者が殺しあうことはないし、姦淫することはありえない。何故ならば神は全ての人を愛されており、お互いは兄弟姉妹だからです。そこにあるのはお互いを信頼し、お互いを尊敬(リスペクト)する精神です。この精神に生きよとイエスは言われるのです。
・神に愛された者は力の限りに神を愛し、神を愛する者は隣人に悪を行わない。だから盗むことも殺すこともしない。本来の律法とはこのようなものです。だからイエスは「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです。私たちはそのイエスに従っていくことを決意した者です。信仰による恵みとは、何もしなくても良いということではありません。恵みを生きる、「地の塩、世の光」としての実践を求められています。
・1984年のエチオピア大飢饉で100万人以上の死者が出た時、世界中からアーチストが集まり、「we were the world」コンサートを行い、飢餓に苦しむ子どもたちへの支援が呼びかけられました。その時「私たちは皆神の家族なのだ。だから苦しむ兄弟の支援を求める声を聴いて行動しよう。今必要なものは愛なのだ」と歌われました(以下原文「There comes a time when we hear a certain call. When the world must come together as one. There are people dying. And its time to lend a hand to life. ・・・ We are all a part of Gods great big family, And the truth, you know, Love is all we need 」)。イエスは「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」存在であれと言われています。私たちがイエスに従うという覚悟を決めた時、不可能だと思われたイエスの戒めが福音(良い知らせ)になっていきます。「愛は隣人に悪を行わない」、これこそがイエスの教えの精髄です。