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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年9月12日祈祷会(列王記上12章、王国分裂(レハブアムの愚かさとヤロブアムの罪))

投稿日:2019年9月12日 更新日:

 

1.ソロモンの子レハブアムの愚かさ

 

・ソロモンが死んだ後、子のレハブアムが王位についたが、王国は彼の時代に南北に分裂する(前922年)。歴史的に見れば、ソロモン王の重税と強制徴用、及びユダ民族偏重に対する不満が、非主流派イスラエル10部族の独立の形をとった。

-列王記上12:1-4「すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来るというので、レハブアムもシケムに行った。ネバトの子ヤロブアム・・・を呼びに使いが送られて来たので、彼もイスラエルの全会衆と共に来て、レハブアムにこう言った。『あなたの父上は私たちに苛酷な軛を負わせました。今、あなたの父上が私たちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたにお仕えいたします』」。

・レハブアムはヤロブアムの要請を断ったため、王国から、イスラエル10部族が離脱した。記者はそこに神の意思をみる。

-列王記上12:13-16「王は彼らに厳しい回答を与えた・・・こうなったのは主の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。イスラエルのすべての人々は、王が耳を貸さないのを見て、王に言葉を返した『ダビデの家に我々の受け継ぐ分が少しでもあろうか。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。ダビデよ、今後自分の家のことは自分で見るがよい』。こうして、イスラエルの人々は自分の天幕に帰って行った」。

・レハブアムは和解のために労役監督のアドラムを派遣するが、激高した人々はアドラムを撃ち殺した。もはや和解はなくなった。

-列王記上12:17-18「レハブアムは、ただユダの町々に住むイスラエル人に対してのみ王であり続けた。 レハブアム王は労役の監督アドラムを遣わしたが、イスラエルのすべての人々は彼を石で打ち殺したため、レハブアム王は急いで戦車に乗り込み、エルサレムに逃げ帰った」。

・レハブアムは軍を集めてイスラエルを征伐しようとするが、主は預言者を通してこれを止められる。イスラエル10部族の戦力はユダ2部族を上回り、勝敗は明らかだ。レハブアムは主の言葉により、出来事が主の御心であることを知らされた。

-列王記上12:21-24「レハブアムはエルサレムに帰ると、ユダの全家とベニヤミン族からえり抜きの戦士十八万を召集し、イスラエルの家に戦いを挑み、王権を奪還して自分のものにしようとした。しかし、神の言葉が神の人シェマヤに臨んだ・・・『上って行くな。あなたたちの兄弟イスラエルの人々に戦いを挑むな。それぞれ自分の家に帰れ。こうなるように計らったのは私だ』。彼らは主の言葉を聞き、主の言葉に従って帰って行った」。

 

2.反逆者ヤロブアムの罪

 

・ヤロブアムはユダ王国に対抗するために、シケムに祭壇を築く。彼が祭ったのは偶像の牛であった。

-列王記上12:25-29「ヤロブアムは心に思った『今、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。この民が生贄をささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう』。彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った『あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である』。彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた」。

・ヤロブアムの背信は忌まわしいもであった。北王国はこの背信ゆえに前722年にアッシリアに滅ぼされ、民は別の地に移され、その後に異民族が移される。ここ混血民族がサマリヤ人であり、ユダヤ人とは敵対関係になった。

-列王記下17:20-23「主はそこでイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、侵略者の手に渡し、ついに御前から捨てられた。主がダビデの家からイスラエルを裂き取られた時、このイスラエルの人々はネバトの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムはイスラエルを主に従わないようにしむけ、彼らに大きな罪を犯させた。イスラエルの人々はヤロブアムの犯したすべての罪に従って歩み、それを離れなかった。主はついにその僕であるすべての預言者を通してお告げになっていたとおり、イスラエルを御前から退けられた。イスラエルはその土地からアッシリアに移され、今日に至っている」。

・金の子牛を作って人々に拝ませたヤロブアムの罪は、偶像礼拝を象徴する忌まわしいものであった。それは出エジプトで犯された罪の再現であった。

-出エジプト記32:1-6「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言うと、アロンは彼らに言った。『・・・着けている金の耳輪をはずし、私のところに持って来なさい』。民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、『明日、主の祭りを行う』と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた」。

 

3.王国分裂とその後(History of Israelから)

 

・ソロモンが紀元前922年に没した時、彼の息子レハベアムは、さしたる困難もなく、都市国家エルサレムとユダ王国の王位を継承した。北の諸部族においては、世襲的な王制という考えは定着しておらず、その都度新しい統治者を指名し、契約に基づいて王に従属するという考えが強かった。彼らは、レハベアムを自動的に自分達の王と認めることはせず、レハベアムと交渉し、一定の条件が満たされれば、彼を王として承認しようとした。ソロモンの宮廷の奢侈や豪華な建築事業のためになされた重税や強制労働に、北の諸部族はかなり不満を抱いていた。そこで、交渉によって、新しい王にはこれらのことを軽減してもらおうとした。ところが、レハベアムは、経験豊かな顧問官の助言を無視して、この提案を冷淡にはねつけた。そこで北の諸部族は、ダビデ王家との関係を断ち切った。彼らはその代わりに、ソロモンに謀反を起こしエジプトに亡命していたヤラベアムを王に即けたのである。

・ここにダビデが打ち立てた南北の統一王国は終わり、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、再び統一されることはなかった。それ以後両王国は、西オリエントの大国の狭間にあって、ほとんど政治的重要性を持たない小国家として存在していくことになる。ユダ王国は、ダビデ王朝がずっと王位を継承していくが、イスラエル王国は次々と王朝が交替していく。イスラエル王国の王に即位したヤラベアムは、最初シケムに王宮を建てたが、やがてヨルダン東岸にあるヤボク川下流ペヌエルに遷都し、さらに最終的には、シケムの北15キロにあるテルザに落ち着いた。テルザは、それ以後数十年間、北王国の首都であった。王国分裂後も、北王国の人々はエルサレム神殿に巡礼を続けていた。

・政治的な分離にもかかわらず、エルサレムの神殿は、依然として共通の祭儀的中心地と考えられていた。そこに十二部族の中央聖所を意味する契約の箱が置かれていたからである。そこでヤラベアムは、北の人々の心をエルサレムから断ち切ろうとして、昔から聖所とされていた北の二つの町ダンとベテルを国家の聖所と定め、そこに金の子牛像を建てた。この牛の像は、本来神そのものではなく、神の王座を運ぶ台座と考えられたが、礼拝の対象と捉えられていった。列王記の記者は、ダンとベテルに金の牛の像が建てられたことを、おぞましい偶像礼拝で、ヤハウェ信仰からの逸脱だとして非難している(列王紀上12.30)。

・これ以後の時代においても、ユダ王国ではダビデ王朝の支配に異議が唱えられることはなかった。王位継承の問題は、世襲的王権の原理によって、最終的な決着がついていたからである。これに対して、北王国では数十年間にわたって安定した王朝が建てられることはなかった。選任王制と世襲王制という二つの原理が絶えず対立葛藤を続け、北王国の政情は極めて不安定なものとなった。王たちは、王朝を形成することによって自分の家の権力を強固なものとしようと絶えず努力した。しかしこの際、王の政治的、宗教的反対者であった預言者が登場しては、別の人物を王に指名するということが何度も起こった。当然、現在統治している王とその子孫は、王権を手放そうとはしない。そこで指名されたものは、暴力的手段を用いて支配権を手中に収め、自己の権力を確保するために、先王の一族すべてを根こぎにする。このようなことが何度も繰り返された。イスラエル王国の不安定性は、北王国の王19人のうち、8人までが暗殺されているという事実に端的にあらわれている。三代以上にわたって王位が継承されたのはオムリ王朝とエヒウ王朝だけであった。王国分裂後40年間、オムリの時代に至るまで、イスラエルとユダの間には常に争いが絶えなかった(列王紀上15.7、16)。

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