2015年3月8日説教(第二コリント13:1-10、壊すためではなく、造り上げるために)
1.三度目のコリント訪問計画
・昨年8月から28回に渡って、コリント書を読んできました。半年間以上、コリント書漬けでした。何故、コリント書を連続して読んできたのか、それは「教会とは何か」を考えるためでした。コリント教会はパウロが設立し、心血を注いで育てて来た教会でしたが、エルサレム教会からの巡回伝道者が来てパウロ批判を行うと、教会全体が反パウロ、反福音の方向にそれて行ってしまいました。パウロは教会をあるべき方向に戻すために、数回にわたって手紙を書き、訪問もしましたが、事態は改善しません。そのため、今、パウロは最後通牒とも言うべき手紙を書いて、その後にコリントへの三度目の訪問をしようとしています。今日はその手紙の締めくくり部分、第二コリント13章をご一緒に読みたいと思います。
・13章は12章14節から始まる文脈にありますので、最初に12章後半部分を概括して見たいと思います。パウロはこれから三度目のコリント訪問を計画していますが、コリント教会の大勢はパウロに批判的です。その批判の一つはエルサレム教会への献金運動に対する誤解でした。パウロがコリント教会から一切の報酬を受け取らずに活動していることを、教会の一部の人々は、「パウロが私腹を肥やすためにしている」と曲解していたようです。パウロは語ります「私が負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたから騙し取ったということに、なっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたを騙したでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたを騙したでしょうか」(12:16-18)。この文章から読み取れるのは、教会の人々は、「パウロや弟子たちが、エルサレム教会のために集められた基金に手をつけているから、彼らは私たちからの支援なしでもやっていけるのだ」という疑惑が広がっていたということです。伝道活動をするためにはお金が必要です。パウロは教会に負担をかけまいとして、天幕造り等の仕事をしながら自活伝道をしていたのですが、コリントの人々はそれを「胡散臭い」と見ていたのです。
・お金をめぐる問題はしばしば共同体の絆を壊します。例えば、現代の日本でも、原発避難をめぐるお金の問題が福島で騒がれています。放射能汚染で自宅が帰還困難や居住制限になった人々は近隣市町村に避難しましたが、彼らには東京電力から一人当たり月額10万円の補償金が支払われています。家族4人では月40万円になります。他方、津波で被災して避難した人々には何の補償金もなく、不公平だとの声が高まっています。さらに同じ帰還困難民でも、放射線量の違いにより住宅立退き賠償金の額が異なり、不満を持つ人々が東電に集団訴訟を起こしています。同じ福島の人々の中に、補償金や賠償金を巡って、対立が起きています。
・利害損得をめぐる争いが起きる、これが社会の現実です。そして、そのような出来事が教会でも起こったのです。そこにあるのは悪意や敵意です。パウロは教会の人々に書きます「私は心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたが私の期待していたような人たちではない・・・ということにならないだろうか。争い、妬み、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか」(13:20)。社会に存在する争いや妬みがあなた方の中にあるとすれば、あなた方がキリストに生かされているしるしはあるのかと彼は語るのです。同時にパウロは誤解を解く努力もしています「私はそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。私はあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、私の方はますます愛されなくなるのでしょうか」(12:14-15)。「あなたがたを愛すれば愛するほど、私の方はますます愛されなくなるのでしょうか」、パウロは涙を流しながら(2:4)、この手紙を書いています。
2.最後の勧告
・しかし同時にパウロは「自分は使徒である」という誇りを持っています。コリント教会に対して牧会者としての責任を担っています。コリント教会が正しい道からそれてしまったのであれば、連れ戻す責任があります。ですからパウロは手紙を閉じる前に、「今度、教会を訪問する時は、きちんと調査の上、処罰が必要な人は処罰します」と強い言葉を送ります(13:1-2)。処罰とは当事者の教会からの除籍を含む行為でしょう。前回のコリント訪問で、パウロは強く反論せず、エペソに戻ってきました。そのため教会の中に、「パウロは口ほどのことはない」と高をくくる者もいたようです。そのような人々にパウロは語ります「あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めています。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(13:3-4)。キリストは弱さの故に十字架で殺されたが、神はそのキリストを起こされた。「私も今あなた方の悪意や誤解で死にそうになっているが、神はこの私をも起こして下さる」とパウロは語ります。
・パウロは続けます「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」(13:5-6)。あなたがたは他者の意見に惑わされ、私の真実を疑い、批判した。そのことはあなたがたが真性な信仰に立っているかを逆に問うものだ。批判は個人の悪しき思いから出る、それは信仰に基づくものではないとパウロは語ります。
・パウロはかつて語りました「私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げた」(11:2)。しかし、あなた方は道を誤った。何とか最初のあなた方に戻ってほしいと。「私たちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それは・・・あなたがたが善を行うためなのです。 私たちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。私たちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、私たちは祈っています」(13:7-9)。キリストにある悲しみは人を命へと導きます。「必要があれば厳しい措置も取ることをためらわない。しかし、それはあなた方を壊すためではなく、造り上げるためなのだ」とパウロは手紙を締めくくります。「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、私がそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです」(13:10)。
3.祝祷
・今日の招詞に第二コリント13:11を選びました。次のような言葉です「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」。これまで厳しい言葉を連ねてきたパウロは一転して、祝福の言葉を述べ始めます。厳しい言葉もコリントを愛すればこそであったからです。招詞の言葉の中に、パウロは五つの祝福を述べます。最初は「喜ぶこと」、これは信徒の第一の条件です。何故なら、喜ばしい福音を受け入れた者が信徒になるからです。二番目は「完全な者になること」、信仰に成熟した者になることです。成熟していないから争いが生じます。三番目は「励ましあうこと」、相手の弱さを責めるのではなく、弱さを担っていくことです。四番目は「思いを一つにすること」、お互いが祈り合う時、思いは一つになります。最後に「平和を保つこと」、信徒はお互いを主にある兄弟姉妹と呼びます。相手が主にある兄弟姉妹であれば争いようがありません。そしてパウロは教会を祝福します。教会の交わりにおいては、どのようなことがあっても、最後は祝福の言葉が語られます。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(13:13)。
この祝祷は現代の多くの教会において礼拝式文として用いられています。
・最後に第二コリント書全体の総括をしたいと思います。エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちの言動により、コリント教会は混乱に陥りました。彼らは自分たちが霊の人であることを誇り、その霊が雄弁な説教や異言を語らせるとしていました。彼らにとって、見て触れることの出来る霊の現れが極めて重要でした。そのため、彼らはパウロの十字架の神学、「異言は自分を造り上げるが、預言は教会を造り上げる」(1コリント14:4)、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられた」(13:4)、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(12:9)という真理を理解できませんでした。しかし私たちが留意しなければいけないことは、これらの伝道者たちがパウロと異なる信仰を持ったから、彼らは異端であると排除してはいけないということです。いろいろな信仰の形がありうることを受け入れる必要があります。
・現代でもホーリネス教会やペンテコステ教会では、神癒(神の癒し)を強調します。ヤコブ書が語る「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(ヤコブ5:15)を重視するからです。彼らは私たちの信仰、「癒しと救いは異なり、癒されない恵みもある」、「人は苦難を通して神と出会う」という信仰に同意しないかもしれません。しかし、それはそれで良いのです。彼らのためにもキリストが死なれたからです。教会は世にあります。世の価値観が教会を揺るがすこともあります。その中で、キリスト者として生きることは何であるのか、そのことをコリント書から学べたことに感謝します。