2015年7月5日チャペルコンサート・奨励「足あと(Footprints)」
・「足あと」という有名な詩があります。「ある夜、私は夢を見た、私は、主と共に、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足あとが残されていた。一つは私の足あと、もう一つは主の足あとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は、砂の上の足あとに目を留めた。そこには一つの足あとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。『主よ、私があなたに従うと決心した時、あなたは、すべての道において、私と共に歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生のいちばんつらい時、一人の足あとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません』。主は、ささやかれた『私の大切な子よ、私は、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に、足あとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた』」。
・ここには神が「共におられる方」、「苦難の時には私たちを助けて下さる方」として歌われています。神共にいます=インマヌエルは聖書の中心的な思想です。使徒パウロは手紙の中で書いています「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(2コリント1:10)。これが私たちの信仰です。しかし人生の現実の中で、私たちはいつも「神が助けてくれるとは限らない」ことを知っています。2011年3月11日の大津波で2万人の方が亡くなりましたが、その中には多くのクリスチャンの方もおられました。クリスチャンだから命が助かるわけではないのです。またクリスチャンだから病気が治るとか、不幸に会わないとかいうこともありません。私たちは「人生は時には苦痛に満ちたものであり、物事は私たちが望む方向に進むとは限らない」ことを知っています。それぞれの人が与えられた十字架を背負って生きています。すべての人が死ぬ存在である限り、人生が悲しみや苦しみに満ちているのは当然なのです。それなのに何故「足あと」のような賛美が歌えるのでしょうか。
・トルストイの描いた民話に、「靴屋のマルチン(愛ある所に神あり)」という物語があります。物語の主人公、靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、辛い出来事の中で生きる希望も失いかけています。ある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと持ってきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父が預けていった聖書を読み始めます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。キリストがおいでになるのを待っていると、今度はおばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。
・一日が終りましたが、期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが夢の中に現れて語ります「マルチン、今日私がお前の所に行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は、雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後に言葉が響きます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。私たちは人々との出会いの中で、「インマヌエルなる方、神」と出会います。
・小説家の三浦綾子さんは主婦でしたが、彼女は「氷点」や「塩狩峠」等、多くのベストセラーを書き、彼女の本を読んだ人々が教会の門をたたくようになりました。三浦さんに何故このような働きが出来たのか、彼女が弱かったからです。彼女は病気のデパートと呼ばれるほどの闘病体験をしています。人生の三分の一は入院しています。病気が彼女に人生とは何かを教え、彼女を偉大な作家にしました。ここに苦難の意味があります。苦難を通して人は弱さを教えられ、その弱さが神を求める叫びになり、その叫びに応じて、神は人に力を与えるのです。三浦綾子さんは大腸がんになった時、次のように語りました「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ・・・神を信じる者にとって、神は愛なのである・・・神の下さるものに悪いものはない、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。病も障害も死も当然の出来事であり、すべての出来事には意味があると思う時、現実が変わってきます。この時、私たちは「思いのままにならない人生を喜んで生きていける」存在に変わります。これが「足あと」に描かれた信仰です。
・「思いのままにならない人生を喜んで生きていける」のは、十字架の悲しみが復活の喜びに変わる体験を信仰者はするからです。子供の時の病気で、生涯寝たきりになった水野源三氏は、「まばたきの詩人」と言われました。全身不随の中で目だけが動かせる、そのまばたきを用いて意思疎通を行い、多くの詩を残しました。次のような詩があります「三十三年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」。「悲しみは喜びに変わる」、それを信仰者は経験します。平安とは悩みのないことではありません。そのような平安は悩みが来ればすぐに崩れます。真の平安とは悩みの中で平静を保ち、その悩みが喜びに変えられることを知ることです。そのような平安にみなさんも招かれています。