2016年1月17日説教(ヨハネ4:46-54、あなたの息子は生きる)
1.役人の息子の癒し
・ヨハネ福音書を読み続けています。先週、私たちはイエスがサマリアで一人の女と出会われ、その出会いを契機にサマリアの人々の悔い改めが起きたことを学びました。イエスはサマリアに二日滞在され、それからガリラヤに戻られたとヨハネ福音書は記します。そのガリラヤで起こった出来事を今日はご一緒に聞いていきます。サマリアと同じく、ここでも決定的な出会いにより、家族の救いが生じています。イエスが故郷ガリラヤに戻られた時、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」(4:45)とあります。ガリラヤの人たちは過越祭りの時にエルサレムに巡礼に行き、そこでイエスが為された数々の癒しの業を見ていたからです。そのため、イエスは「奇跡行為者」、「病の癒し人」として評判を集めるようになります。うわさは、ガリラヤの中心であるカペナウムにも聞こえ、ヘロデの王宮に仕える一人の役人が、そのうわさを聞いて、イエスがおられたカナの地まで会いに来ました。彼の息子が重い病気にかかり、いろいろ手を尽くしたが治らず、最後の頼みとして、イエスに癒していただくために、30キロの道のりを歩いて来たと福音書は記します。
・役人はイエスに、「カペナウムまで下って息子を癒してくれる」ように頼みますが、イエスの返事は冷たいものでした「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4:48)。イエスは癒しだけを求める人々の信仰にうんざりされていたのです(2:23-24)。イエスは役人の男に「あなた方は癒しだけを求め、何が神の御心であるかは求めようとしない、あなたもそうか」と問われたのです。しかし、役人はあきらめません。息子の命がかかっているからです。彼はくじけずに訴えます「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)。彼はイエスを「主よ」と呼びます。自分の子供の命が今イエスの手の中にあるとの信頼の表明です。イエスは父親の熱心な懇願に感動して言われます「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)。父親は、イエスが来てくれないので半ばがっかりし、でも「あなたの息子は生きる」と言われたので半ば期待して、帰りの道につきます。彼は「帰れ」と言われたから帰りますが、息子が本当に生きるのか、疑心暗鬼の中にあります。その途中で、迎えに来た召使たちと出会い、息子が良くなったことを聞かされます。息子の熱が下がった時間を尋ねると、昨日の午後1時で、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと、同じ時間であることを知り、「彼も彼の家族もこぞって信じた」(4:53)とヨハネ福音書は記します。
2.必死の求めにお応えになる主
・彼は王宮に仕える役人でした。ガリラヤ湖西岸のティベリウスにはガリラヤ領主ヘロデ・アンテイパスの王宮がありましたから、彼はヘロデに仕える役人であったと思われます。役人と訳されているバシリコスという言葉は身分の高い役人を意味しますし、召使がいることからも、相応の身分の人だったと推測されます。その彼が、イエスの前に頭を下げました。カナの人々はその有様を見て、びっくりしたでしょう。政府の高官が大工の息子の前にひれ伏したのです。しかし、役人はかまいませんでした。死につつある息子を思う気持ちが、地位や名誉や体面をかなぐり捨てさせます。この必死な願いがイエスを動かしました。
・マルコ5章にある会堂司ヤイロの娘の癒しも状況は同じです。会堂司というユダヤ教の指導者が、体面をかなぐり捨てて、娘のためにイエスの前にひれ伏しました(5:22)。この熱心が娘の癒しにつながります。本当に大事なものを救うためには、見栄や外聞はどうでも良くなるのです。イエスは多くの病の癒しを為されましたが、その大半は求め手の信仰に促されて為された癒しです。長い間出血に悩まされていた女が、癒しを求めておずおずとイエスの衣に触れた時、イエスは言われます「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(ルカ8:48)、エリコの町で盲人バルテマイが癒しを求めて叫び続けた時、イエスは言われます「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ18:42)。癒すのはイエスですが、その癒しを引き出したのは懇願者の信仰でした。
・イエスは誰かを信じさせるために、あるいは自分の力を示すために、奇跡を行われた事はありません。奇跡が起きる時には求める者の必死の願いと、それに対するイエスの憐れみがそこにありました。この役人はイエスの拒絶にくじけず、求め続けました。もし彼が拒絶に怒ってそこを去っていたならば、奇跡は起きなかったでしょう。このことは、もし私たちが本気でイエスの憐れみを求め続ければ、それは与えられることを意味します。
3.あなたの息子は生きる
・今日の招詞にヨハネ11:25-26を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。この言葉はイエスがラザロの遺体を前にして言われた言葉です。イエスはベタニア村に行かれましたが、病気のラザロは既に4日前に死んでいました。ラザロの姉マルタはイエスにつぶやきます「もっと早く来てくだされば、弟のラザロは死ななくても良かったでしょうに」。それに対してイエスは言われた言葉が、「私を信じる者は死んでも生きる」です。
・イエスは「ラザロは死んだが復活する」と言われたのですが、この「生きる」という言葉がギリシャ語の「ザオー」と言う言葉で、ヨハネ4章でイエスが言われた言葉「あなたの息子は生きる」と言う言葉にも同じく「ザオー」というギリシャ語が用いられています。ギリシャ語で命を表す言葉には二つの言葉があります。一つは「ビオス」、生命体として生きることを指すます。それに対して「ゾーエー=動詞ザオーの名詞形」は、人を生かしている原動力や生命力を示し、霊的に生きることを指します。イエスは父親に「あなたの息子は生きる」と言われたことに注目すべきです。「助かる」ではなく、「治る」でもなく、「生きる」です。病気が治っても人は死にます。役人の息子はその時は元気になりましたが、やがて死んでいきます。本当に大事なものは死んでも死なない命をいただくこと、ビオスではなくゾーエーの命をいただくことだとヨハネは語ります。この物語の主題は、死に直面した息子が癒されたことよりも、父親が息子の癒しを契機に信仰者に変えられたことです。そして父親の回心が家族全体の回心を招いたことです(4:52)。ここに本当の奇跡の意味があります。
・彼は宮廷に仕える役人であり、その後の生涯は苦難に満ちたものになったと推測されます。彼が仕えていた王ヘロデ・アンテイパスは、自分を批判したバプテスマのヨハネを処刑し、その亡霊に悩まされています(マルコ6:16)。ヘロデ・アンテイパスはこの世の快楽を追及し、その治世は血に満ちており、イエスは彼を「狐」と呼ばれました(ルカ13:32)。キリスト者になった王の役人が、そのヘロデに仕えるには、多くの困難があったかも知れません。しかし、イエスが与えてくれたものを見て信じた彼は、もはやそれらを気に留めなかったでしょう。ルカ8章にイエスに従う女性たちの名前がありますが、そこに「ヘロデの家令クザの妻ヨハンナ」と言う名前があります(ルカ8:3)。この「クザ」が、子供を癒された役人の名前かもしれません。息子の癒しを契機に、父親は信仰に入り、妻も、また息子もイエスを信じたのかもしれません。彼らは「永遠の命=ゾーエー」をいただいたのですから、もはやこの世の冨や名声には縛られていません。
・聖書の信仰とは神の言葉の力を認めることです。アブラハムは「父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」(創世記12:1)という神の言葉に従い、行き先も知らずに旅立ちました。モーセは「私があなたをファラオの元に遣わす」(出エジプト記3:10)という神の言葉に従って、一本の杖を持って、絶対権力者エジプト王の許に向かいます。それぞれ何の不安もためらいもなしに神の言葉に従ったとは思えません。心のどこかに「本当にこの道で良いのか」、「本当に神は守ってくださるのか」という疑いを持ちながらも、最終的には、神の言葉に従って歩み、その結果、素晴らしいものをいただきました。
・王の役人も一抹の不安を抱えながら帰って行きました。関田寛雄先生はこの個所について次のように語られます「一抹の不安を残しながら帰る父親、私は信仰の世界というのは生涯、一抹の不安、信じえないという部分が残り続けると思います・・・マルコ8章に『信じます。信仰のない私をお助けください』という言葉があります。信じるとは、一抹の不安が残り続けるから信じるのです。先行きはわからないと思いながらなお信じていく・・・そしてやがて信仰の奥義が顕わになる時が来る」(2012年7月8日代々木上原教会・説教から)。
・現実の世界には、どのように祈っても病が癒されず、願いがかなわない時もあります。内村鑑三の娘ルツは17歳の時に重い病気に罹り、内村は必死に祈りますが、ルツは死に、内村の信仰は根底より揺るぎます。しかしやがて彼は新しい信仰に包まれます「私の娘の場合においても、私の祈祷が聞かれなかったのではない。聞かれつつあるのである。終わりの日において、イエスがすべて彼を信ずる者をよみがえらしたもう時に、彼は私の娘に向かっても、『タリタ・クミ(娘よ、起きなさい)』と言いたもう・・・わが娘は癒さるるも、癒されざるも、最後の癒し、すなわち救いを信じ、感謝してその日を待たねばならない。われら、愛する者の死に面してこの信仰をいだくははなはだ難くある。されども神はわれらの信なきを憐れみたもう。『主よ、信なきを助けたまえ』との祈りに応えたもう」(内村鑑三聖書注解全集十五巻ガリラヤの道三十六「ヤイロの娘より」)。
・内村鑑三は娘の死を通して、癒しを超える救いの恵みを見ました。マルコやヨハネは神の国のしるしとして、病気の人が癒され、死者がよみがえる記事を書きました。その記事を読んで、多くの人が励まされました。一人の信仰者は自分の娘の死を見て、死の意味を深く捉え、「死は敗北ではなく眠りである」との信仰を与えられました。ここに信仰の業があります。「信じる者の信仰は報われる」、その報われ方がある人は病の癒されることを通して、また別の人は病の癒されないことを通して与えられます。信仰というものは、その人の人生が終わるまで「信じられない」ということが残り続けます。でも「信じられない」と思ったことが、繰り返し、繰り返し違った形で、必然性をもって心によみがえり、「信じる者に変えられていく」。そして「信じる者」は死やこの世の煩いから解放されていく。信仰は恵みなのです。