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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年2月25日説教(マルコ11:1-11、ロバに乗って入城される主)

投稿日:2018年2月25日 更新日:

2018年2月25日説教(マルコ11:1-11、ロバに乗って入城される主)

 

1.イエスのエルサレム入城

 

・受難節の時が来ました。イエスの十字架の意味を覚える時です。今年は2月14日(灰の水曜日)から受難節が始まり、今日2月25日は受難節第二主日になります。イエスはガリラヤで宣教活動をされていましたが、いよいよ神の都と呼ばれたエルサレムに入られます。ユダヤ教信仰の中心であるエルサレム神殿のある国の都です。イエスは過越祭の時に、エルサレムに入城されました。紀元30年3月から4月にかけてのことと思われます。その時、同行してきた弟子たちや人々は、棕櫚の葉を持って、イエスのエルサレム入城を祝ったと伝えられています。このことから受難週の第一主日は「棕櫚の主日」と呼ばれます。

・エルサレムを目指して、旅を続けて来られたイエス一行は、エルサレム郊外のオリーブ山のふもとまで進んで来られました。近くにベタニア村が見えます。イエスは二人の弟子に、「向こうの村へ行ってロバを借りて来なさい」と言われました。ベタニアであれば、イエスと親しかったマリアとマルタが住んでいますから、イエスの為にロバを用立ててくれるに違いありません。イエスは弟子たちに注意を与えて、遣わされました。「だれかが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」(11:3)と。

・弟子たちが村に行くと、表通りの家に子ロバがつないでありました。弟子たちは村人に断った上で、その子ロバを借り、イエスの元に連れてきました。イエスは子ロバに乗られて、エルサレムに入城されます。イエスに同行してきた群衆は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」(10:9-10)と叫びました。「ホサナ」、「主よ、私たちを救ってください」の意味です。「あなたはメシアです。このイスラエルから占領者ローマを追い出し、再びダビデ王国の栄光を取り戻して下さい」と群衆は期待して叫びました。その声の中を、イエスは一言も言われないで、進んで行かれます。

・イエスは「解放者としてのメシアを求める」人々の期待を知っておられました。その期待に応えるにはどのようにしたら良いのか、馬に乗って、威風堂々と入城する方法が普通です。ローマの将軍は4頭立ての戦車に乗って都に入りました。イエスがメシア=王であられるならば、その方がふさわしい。王は軍馬に乗って堂々と入城すべきです。しかし、イエスは馬ではなく、ロバに乗って、エルサレムに入られました。ロバは風采の上がらない動物で、愚鈍と卑しめられ、戦いの役に立たない動物です。王にふさわしい乗り物ではありません。しかし、イエスはあえて、ロバを選んで、エルサレムに入られました。

 

2.ロバの子に乗って入城された主

 

・イエスは何故、「馬ではなく、ロバに乗って」エルサレムに入られたのでしょうか。マルコ11章の平行箇所マタイ21章では、イエスがエルサレム入城時にロバに乗られたのは、聖書の預言の成就であったとして、ゼカリヤ書を引用しています。マタイは記します「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って』」(マタイ21:4-5)。

・通常、イエスは歩いて旅をされました。しかし、このたびのエルサレム入城においては、あえてロバに乗って、エルサレムに入られました。それは、イエスが、ゼカリヤ書に象徴されるような「柔和の主」である事を人々に示されるためでした。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に、都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、ロバの子に乗って、あなたがたのところに来た」という、イエスのお気持ちが、ロバに乗るという行為に示されています。

・当時ユダを支配していたローマ総督は、ユダヤの重要な祭日には、滞在するカイザリアから、戦車や軍馬、弓を連ねて、エルサレムに入城しました。過越祭の時には、全国から多くの巡礼者が集まって人口が通常の10倍ほどに膨れ、国民的な宗教的感情が高まり、征服者であるローマに対する敵意から暴動となりかねなかったからです。ローマ軍はカイザリアから、すなわち西から、軍事力を誇示しながら、エルサレムに入りました。それに対して、イエスは、オリーブ山から、すなわち東から、数人の弟子たちを従えて、「ロバに乗って」入城されます。イエスの行進は、都の西側で起こっているもう一つの行進に対して、意識的に対抗するものでした。イエスのエルサレム入城は「軍事力や権力」の誇示ではなく、「謙遜と非暴力」の表現です。イエスは行為を通して人々に語られます「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。あなたがたに本当に必要なものは戦いで勝利を勝ち取ることではなく、和解だ。人間同士、国同士の和解に先立って、まず神との和解が必要だ。しかし、あなたがたの罪がその和解を妨げている。だから私はあなた方の罪を背負うために来た」と。

・最近のアメリカでは銃乱射による死亡事件が繰り返し起こっています。2月14に起きた米国フロリダ州の高校での銃乱射事件では生徒ら17人が死亡しました。同じ学校に通う高校生たちは、銃規制強化を求めるデモ集会を開き、トランプ大統領ら規制に消極的な政治家らに「恥を知れ」と訴えました。他方、トランプ氏は大統領選挙中に、銃規制に反対する全米ライフル協会の支持と献金を受けて、規制には慎重です。2月24日の朝日新聞・天声人語は述べます「被害を抑えるため、教師に銃を持たせてはどうかとトランプ大統領が述べている。『銃には銃を』と考える層がいるからだろう。軍拡の論理である」と。ここに「銃を廃棄しようと訴えるロバに乗る平和の王」と、「自分を守るために銃は必要だと考える馬に乗る強い王」の対比があると思えます。ロバに乗るか、馬に乗るかは、私たちの生き方を決める問題でもあるのです。

・ロバは風采の上がらない動物で、戦いの役に立ちません。しかし、柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って、負います。イエスも重荷を負うために来たと言われます。しかし、人々が求めていたのは、栄光に輝くメシア、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、自分たちを敵から解放し、幸いをもたらしてくれる強いメシアであり、ロバに乗るメシアではありません。人々は、イエスが自分たちの求めていたメシアではないことがわかると、一転して「イエスを十字架につけろ」と叫び始め、それが金曜日の受難へと続きます。「平和の主」を拒否したエルサレムの人々は、やがてローマに対して武力による解放戦争を始めます。紀元66年に始まるユダヤ戦争です。その結果、エルサレムはローマ軍に占領され、市街は焼け野原となり、数十万人が殺され、神殿も崩壊します。「剣を取る者は剣で滅びる」のです(マタイ26:58)。

 

3.この方に従っていく

 

・私たちもイエスに様々な期待を寄せます。「神の子であれば私の病を治して欲しい、神の子であれば私を幸せにして欲しい」と。しかし、イエスは言われます「私が約束するのはそのようなことではない。私が何故ロバに乗って入城したかをまだ理解しないのか」。聖書は徹底的に、軍馬に頼る生き方を拒否します。イザヤ書は語ります「助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない」(イザヤ31:1)。

・馬は力の象徴です。馬に頼るとは、自分の力に頼り、他人を支配して生きていく人生です。しかし、馬は肉に過ぎず、倒れます。「倒れるものに望みを託すな」と聖書は言います。エジプトの軍馬に頼って国の安全を守るとは、現代の私たちがアメリカ軍の核の傘に頼って日本の防衛を考えることと同じです。マタイが引用したゼカリヤ書は語ります「私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリヤ9:10)。沖縄や横須賀の米軍基地の問題、日米安保条約の在り方等は、私たちが「馬を選ぶのか、ロバを選ぶのか」を選択する試金石です。私たちはこれらの問題を単なる政治的問題としてではなく、信仰の課題として受け止め、祈ることが求められています。

・馬ではなく、ロバに乗る人生とは、ただ主にのみ依り頼んで歩いていく人生です。ロバは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って、負います。イエスも私たちの重荷を、何も言わずに負ってくれました。その感謝が信仰です。今日の招詞に第一ペテロ2:21-24aを選びました。次のような言葉です。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました」。今度は私たちが行動する番です。

・イエスがロバを調達されたベタニアとは、「悩む者の家」あるいは「貧しい者の家」と言う意味です。この村でラザロは死からよみがえり(ヨハネ11:44)、マリアがイエスにナルドの香油を奉げ(マタイ25:12)、イエスはこの村から昇天されました(ルカ24:50)。私たちはこの教会をベタニア村のような共同体にしたいと願います。ロバのように、忍耐強く、愚痴を言わずに、黙々と他者の荷を負っていく。そのような共同体をここに創りたいと願います。ドローテ・ゼレという説教者は祈りました「キリストよ、私をあなたのロバにしてください」。この祈りにアーメンと唱和したいと願います。

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