2018年3月11日説教(マルコ14:1-11、最大のものを捧げる)
1.ベタニアでの香油注ぎ
・マルコ福音書は16章で構成されていますが、14章から受難週の日々の出来事が克明に語られていきます。マルコの受難物語は、「イエスを殺す計画」と、「ベタニアでの香油注ぎ」の二つの物語で始まります。14:1-2に「イエスをどうやって捕らえて殺そうか」という祭司長たちの相談があり、14:10-11にそれに答えるように、イスカリオテのユダが、イエスを「祭司長たちに引き渡す約束をした」旨の記事があります。このイエスの逮捕・殺害という枠に挟まれて、「ベタニアでの香油注ぎ」の物語が語られます。
・イエスはガリラヤ伝道を終えてエルサレムに来られました。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを伝統の教えを否定する異端者、民衆の扇動者として憎みました。そのイエスに対する憎しみが殺意にまで変わったのが、イエスの行われた神殿粛清の出来事でした。イエスは神殿で、両替商の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返され、こう言われました「私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった」(11:17)。神殿はユダヤ教信仰の中心であり、神聖な場所でした。その神殿を批判されたイエスを祭司長たちは許せません。マルコは記します「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(11:18)。
・「イエスをどのようにして殺そうか」、ユダヤ当局の謀議が始まります。マルコの受難物語はその記事から始まります「過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」(14:1-2)。その時、12弟子の一人ユダがこの動きに内応し、イエスを引き渡すことを祭司長たちに約束します(14:10-11)。イエスもこのような動きがあることを感じておられ、最後の時、死の時が来たことを予感されています。そのような時に出来事が起こりました。
・マルコは記します「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられた時、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(14:3)。異常な行為がここに描かれています。「重い皮膚病=らい病」は伝染病であり、神に呪われた不浄な病として、病人は人前に出ることを禁じられ、当然他者との会食等も禁じられていました。しかしイエスはあえて、らい病者シモンの招待を受けて、食事の席に着いておられます。戒律から自由なイエスがここにおられます。
・その食事の席に一人の女性が来て、香油をイエスの頭に注ぎかけます。この香油はヒマラヤに生えるナルドという植物から取られるもので、この香料をオリーブ油に混ぜて使います。非常に高価で、通常は一滴、二滴をたらして体に塗ったり、埋葬時に遺体に塗ったりします。価格は300デナリもしたと言われています。1デナリは労働者1日分の賃金、300デナリは、今日の貨幣感覚で言えば、200万円~300万円に該当するでしょう。その高価な香油を入れた石膏の壷を女性は壊し、全てをイエスに注ぎました。壷の蓋を開けて数滴を注ぐことも出来たのに、女性は壷ごと壊してしまった。もう使い切るしか無い。異常な状況の中で物語が進行します。
・部屋の中は香油の香りで一杯になり、そこにいた人々は唖然としました。人々は興奮して言います「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(14:4-5)。それに対してイエスは言われます「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」(14:6)。イエスは言われます「この人は出来る限りのことをした。前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(14:8)。
・今、祭司長たちはイエスを殺す計画を立て、弟子の一人であるユダはイエスを裏切ろうとしています。他の弟子たちは誰もイエスの最後の時が来ていることに気付きません。その中で、この女性は持っているもの全てを捨てて香油を求め、それを注いでくれました。この香油は、メシヤ=油注がれた者としての自分への戴冠だとイエスは感じられたのでしょうか。また、香油は死者の臭いを消す為に体に塗られますが、イエスは香油が自分の死への準備として注がれたと感じられたのかもしれません。この女性のひたむきな行為が死を前にしたイエスを慰めました。
2.一期一会の出会い
・この女性は誰だったのでしょうか。ヨハネはこの女性は「ベタニアのマリア」だったと言います(ヨハネ12:3)。ルカはこの女性を「罪深い女」と表現します(ルカ7:37)。マルコとマタイは女性の名前を記しません。「マグダラのマリアではないか」と考える人もいます。この女性は、以前は娼婦だったのではないかと聖書学者は想像します。ルカの記す「罪深い女」とは娼婦を指す言葉ですし、300デナリもする香油を普通の女性が買うことが出来ないからです。かつて娼婦として社会からつまはじきされていた女性を、ある時、イエスが人格を持つ人として対応してくれた。女性は震えるほどうれしかった。その時の感謝が女性にこの異常な行為をさせたのでしょう。
・女性は、イエスがシモンの家に滞在しておられる事を聞き、全財産をはたいてナルドの香油を求め、献げたものと思われます。女性の行為は愚かです。しかし、彼女は感謝の気持ちを表わすために持っている全てを投げ出してイエスに献げたかった。だから損得抜きに香油を求め、後先を考えずに全てを注いだ。イエスはこの女性の気持ちを受け入れられました。女性をとがめる弟子たちにイエスは言われます「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」(14:8)。
・ここに二組の人々が登場します。一組目の人々は祭司長や律法学者やユダたちです。彼らが用いる言葉は、策略、捕える、殺す、騒ぐ、お金、売る、とがめる、です。このグループは人間社会そのものです。人間社会における秩序は、力で捕え、金で売り買いをし、相手を殺し怒らせることです。彼らは常に損得を計算しますから、後先を考えない女の行為に腹を立てます。彼らは語ります「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。世の人々は行為から何らかの実益が生まれなければ、見るべき成果が上がらなければ、満足しません。3百デナリオンというお金で貧しい人たちが助けられるという見える実績が必要だったのです。
・他方、もう一組の人々がいます。イエスと香油を献げた女性です。彼らが使う言葉は、香油、すべて、注ぐ、施す、良いことです。第二のグループは神の国に属します。神の国の秩序は無償で与え、向こう見ずに無駄遣いをすることです。「愛の浪費」、愛は多すぎるとか、これで十分と言う計算をしないで、全てを与えます。この女性は自分の全てを投げ打って香油を求め、その香油を全てイエスに注ぎました。部屋はナルドの香油の香ばしい匂いで満ちました。やがてイエスも十字架につかれます。イエスに属さない人々はイエスに尋ねます「何故十字架で死ぬのか。あなたが十字架で死んで何が起きるのか。あなたがそれを愛だというならば、何故愛をそんなに無駄遣いするのか」と。しかし、イエスはあえて十字架につかれました。その十字架上でイエスの壷が壊され、キリストの香りが全世界に流れ出ました。
3.キリストの香りを放つ者に
・今日の招詞に第二コリント2:15-16を選びました。パウロがキリストの香りについて言及している個所です。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」ベタニア村で女性がナルドの香油の入った石膏の壷を壊してイエスに注いだことで、香ばしい香りが部屋中に漂いました。イエスが十字架で私たちのために死なれることによって、キリストの香りが全世界に広がりました。私たちはその香りを受けてキリストに従う者となりました。
・私たちがキリストに従う者として命の香りを放つ時、私たちに出会う人々はキリストの命に導かれ、他方、私たちがキリストに従う者にはあるまじき死の香りを放つ時、その人はキリストの命から離れていきます。私たちはキリストの香りを身にまとう存在なのです。キリストの香りを身にまとう者は、もうこれで十分とか多すぎるとかの計算をしません。ベタニア村で女性はナルドの香油の入った石膏の壷を壊し、高価な香油を全て献げました。エルサレム神殿で貧しいやもめは持っているもの全て、レプタ二つとも献げました。イエスに従うとはこういうことだと聖書は告げます。
・キリストの香りはどのような時に流れ出るのでしょうか。「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)の創設者である熊本市の慈恵病院院長・蓮田太二氏は語ります「私どもの病院では、たくさんの赤ちゃんが生まれ、育っていきました。その赤ちゃん、また育っていくお子さん、そして成人された方々に会いますと、命のひとつひとつが神様から頂いたかけがえのない尊いものだということを痛切に感じずにはおられません。しかし私たちの身近なところでも、18歳の少女が産み落としたばかりの赤ちゃんを殺して庭に埋めるという事件や、21歳の学生がトイレで赤ちゃんを産み落とし、窒息させ6年の実刑判決を受けるなどといった痛ましい事件が発生しました。神様から授かった尊い命を何とかして助けることができなかったのか、赤ちゃんを産んだ母親もまた救うことができたのではなかろうか、という悔しい思いをし、どうしても赤ちゃんを育てられないと悩む女性が、最終的な問題解決として赤ちゃんを預ける所があれば、母子共に救われると考え、開設しました」。
・それから10年、「こうのとりのゆりかご」は全国的な広がりを見せていません。24時間常駐できる医師や看護師が確保できないことと、行政の高くて厚い壁あるからだと言われています。採算に合わない行為なのです。「神様から授かった尊い命を何とかして助けたい」という祈りが行為を後押しし、キリストの香りを放つ存在になりました。慈恵病院はカトリック教会が設立した病院です。キリスト者しかできない無償の業なのです。旧約聖書に「逃れの町」の規定があります(ヨシュア記20:1-3他)。過って人を殺した者を血の復讐者から救う規定です。古代の駆け込み寺、慈恵病院は赤ちゃんを産み育てることのできない女性たちの駆け込み寺になりました。病院の元看護部長、田尻由貴子さんは語ります「多いとか少ないとかではなく、この10年間で130人の命がつながったということです。その事実を重く受け止めています。ゆりかごがなければ、つながらなかった命かもしれないので、それがつながってよかったという思いです」。
・イエスは十字架で私たちの罪のために全てを献げられました。それは、持っているもの全てを献げた貧しいやもめや、ベタニアの女性の行為と同じです。二組の人々がいます。一組の人々は損得を計算し、これくらいで十分だろうとして献げます。もう一組の人たちは、相手の苦しみを見て自分のはらわたがねじれるような痛みを感じ、持っているものすべてを差し出します。何故なら自分たちも苦しんでいる時に与えられたから、その感謝と喜びを示さずにはいられないのです。このひたむきな行為が信仰であり、その信仰によって行為する人々がいます。私たちもそういう存在でありたいと願います。そして私たちがそう願う時、私たちもキリストの香りを放つ者となるのです。