2018年11月25日説教(イザヤ65:17-25、新しい天と新しい地の幻)
1.求められることを待ち望む神
・11月はイザヤ書を読み続けています。今回がイザヤ書の最終回です。イザヤ書の背景にあるのは、バビロンから故国に帰った人々が体験した苦難です。彼らが喜び勇んで帰国してみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がエルサレムをエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンに留まった方が良かったと民は言い始めているのです。
・それに対して預言者は、「主はあなたたちが呼び求めるのを待っておられる」と反論します。「私に尋ねようとしない者にも、私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」(65:1-2)。「父なる神は常に私たちと共におられる。私たちにそれが見えないのは私たちが神を求めないからだ」と預言者は語ります。イエスはそれを放蕩息子の帰還という形で私たちに示されました。「息子はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。しかし息子が異国の地に留まり続け、父の元に帰らなければ父の本当の姿を知ることはなかったことは事実です。
・預言者は「救いがないのはあなたたちの罪の故だ。あなたたちは主を無視して異教の神々に礼拝を捧げ、墓場で死者の霊を呼び出し、禁止された豚肉さえ食べている」と批判します。バビロニアでは豚肉は広く食され、祖先礼拝も当たり前でした。50年の捕囚の間に民はバビロニア化され、信仰が異教化していたのです(65:3-5)。それを悔い改めて主のもとに帰れ、そうすれば主は豊かに報いて下さると預言者は呼びかけます。しかし異教化した群れに中にも正しい信仰を求める者は必ずいます。その者たちは祝福すると主は言われます。その時、不毛の地シャロンの湿地も、砂漠のアコルの谷も、羊や牛が群がる豊かな地に変えられるとの希望を預言者は歌います「私はわが僕らのために、すべてを損なうことはしない。ヤコブから子孫を、ユダから私の山々を継ぐ者を引き出そう。私の選んだ者らがそれを継ぎ、私の僕らがそこに住むであろう。シャロンの野は羊の群がるところ、アコルの谷は牛の伏すところとなり、私を尋ね求めるわが民のものとなる」(65:8-10)。
・ただ留意すべきことを預言者は語ります。祝福は全ての人に与えられるのではなく、主の教えを守らない者には祝福がないことが伝えられます。11節以降は求める者への救済と、悔い改めない者への審判が交互に繰り返される二重告知になっています。「お前たち、主を捨て、私の聖なる山を忘れ、幸運の神(ガド)に食卓を調え、運命の神(ニメ)に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。私はお前たちを剣に渡す・・・私の僕らは糧を得るが、お前たちは飢える。見よ、私の僕らは飲むことができるが、お前たちは渇く。見よ、私の僕らは喜び祝うが、お前たちは恥を受ける」(65:11-13)。具体的には、死者を呼び出し、神託を求める等の行為が非難されています。神に頼るのではなく、迷信や占いで将来を知ろうという行為は主を信じる者の行為ではありません。信仰とは「求める者は与えられる」(マタイ7:8)ことを信じることです。しかし求めない者には救いは与えられない、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」のです。今日、この礼拝に招かれた人も、「主に従って生きる」と決心した時、救いが与えられるのです。
2.新しい天と新しい地の幻
・イザヤは「主の名を呼ぶ者に主は必ず答えられる」と語りました。主から与えられた応答こそ、新しい天地創造の幻です。荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムが創造される幻をイザヤは見ます。苦難は過ぎ去り、救いの時が来るとイザヤは歌い始めます。「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(65:17-18)。
・神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなるとイザヤは語ります。「私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(65:19-20)。
・これまでは家を建てても敵に強奪され、畑を耕してもその実りは敵が収奪していました。しかし、これからはそのようなことはない。また生まれた子どもが死ぬこともさらわれることもないと宣告されます。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」(65:21-23)。「今の困難は必ず神が良くしてくださる、その時を希望を持って待て」と預言者は語ります。イエスが語られた「神の国は近づいた」(マルコ1:15)という言葉も、「神が行為して下さるから、神の国の到来を待て」との希望の預言です。
3.幻を持つことの力
・最後にイザヤは究極の幻、神の国の幻を見ます。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(65:25)。狼は小羊を追い回し、獅子は牛を殺して食べる、弱肉強食のこの世界が平和と安全の世界に変えられるとイザヤは預言します。そのイザヤの預言を継承したものが、ヨハネ黙示録です。今日の招詞にヨハネ黙示録21:3-4を選びました。次のような言葉です「そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。ヨハネはイザヤの預言を自分たちの時代の中で読み直して歌います。
・これは幻であって現実ではありません。イザヤの時代にはイスラエルはペルシャ帝国の植民地であり、帝国に逆らう者は弾圧されました。バビロンからの帰国を導いた指導者たちの多くも殺されていったとみられています(イザヤ57:1-2)。黙示録のヨハネの時代も、ローマ皇帝からの迫害の中で多くの人々が殉教していった時代です(黙示録6:10-11)。しかし先見者が幻を見ることによって、現実社会も動いていきます。キング牧師の「私には夢がある」という演説はその典型です。1963年に彼は語りました「私は同胞に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。・・・将来いつか、幼い黒人の子どもたちが幼い白人の子どもたちと手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が」。
・この幻こそ、信仰がもたらすものです。神が行為される故に私たちも行為していく時、幻が現実化します。キングが夢見たように50年後のアメリカでは、黒人と白人の敵意の壁が低くされ、黒人であるバラク・オバマが大統領に選ばれています。幻、あるいは黙示とはどのような状況の中にあっても希望を失わない、神に呼びかけに答える行為なのです。そして神はそれを聞き届けると約束されます「彼らが呼びかけるより先に、私は答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(65:24)。
・創世記の初めには「地は闇に覆われていたが、神が光あれと言われると光があった」とあります(創世記1:1-3)。私たちはともすれば現実の中で可能性を見つけようとし、見つからない時、もう駄目だと思います。しかし「どのような闇に覆われていても、神が「光あれ」と言われるとそこに光が生じる」、その神に望みを託して生きるのが私たち信仰者です。使徒言行録は聖霊降臨の日にペテロの行った説教を記しています「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る・・・主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒2:17-21)。幻(vision)を見る力が使命(mission)を与え、信仰者を生かす希望(hope)となる。この神から与えられる希望がキリスト者の生き方を愛に導きます。パウロが語るように、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13:13)のです。