2019年2月24日説教(ルカ10:38-42、必要なことはただ一つ)
1.マルタとマリア
・「マルタとマリア」の物語は、ルカ福音書だけが伝える物語です。客をもてなすために忙しく働くマルタが、ただ座ってイエスの話を聞いているマリアを「叱って下さい」とイエスに呼びかけ、それに対してイエスが「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタをたしなめられる場面です。
・物語はイエスが旅の途中にマルタの家にお入りになることから始まります。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(10:38)。マルタ、マリアの姉妹はエルサレム近郊のベタニア村の住人です(ヨハネ11:1)。ヨハネによればイエスはこれまで何度もマルタとマリアの家に来られています。彼女にはマリアという妹がいました。「姉のマルタは、一行のもてなしのためせわしく立ち働いていましたが、妹のマリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10:39)とルカは書きます。マルタは長女で、既に両親が亡くなっていた家を取り仕切っていたのでしょう。彼女は一行をもてなすために台所で忙しく立ち働いています。
・しかしマリアはマルタを手伝わず、イエスの足元に座って、話を聞いています。客のもてなしをしようとしないマリアの態度に腹を立てたマルタはイエスに言います「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(10:40)。マルタは、「女は客が来たらもてなすのが仕事だ、姉の自分がこんなに忙しくしているのに妹は手伝おうともしない」とマリアを批判したのでしょう。もしイエスの足元に座って話を聞いていたのが弟のラザロであれば、マルタは何も言わなかったかも知れません。「男は台所仕事をする必要はない、しかし女であれば手伝うべきだ」とマルタは考えたのでしょう。
・マルタは、イエスと弟子たちが長旅に疲れ、埃まみれであることを見て、手や足を洗う水を用意し、渇きをいやす飲み物を差し出しました。そして今、食事の支度に忙殺されています。しかし妹のマリアは食事の準備を手伝おうともせず、イエスの足元に座って話を聞いています。だから彼女はイエスに苦情を申し立てます。「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」。自分はこんなに忙しくしているのにマリアは何も手伝わない。自分の正しさが無視されている。そのことに対する腹立ちがマルタの言葉からにじみ出ています。
・同時にマルタは、手伝わないマリアをとがめようとしない、イエスの態度にも腹を立てています。マルタは献身的に家族のために尽くす一家の主婦でした。身を粉にして家族のために働いているのに誰も評価してくれない、その不満が爆発したのです。この不満は現代の日本においても、主婦の働きが正当に評価されず、多くの女性たちが不満を覚えているのと同じです。もし主婦が家事労働を外部に託し、家政婦やヘルパーに任せれば年間200万円から300万円のお金が必要です。主婦の働きによってそれぞれの家庭は維持されているのに、家族からは感謝の言葉もない。もう耐えられない、マルタの言葉に多くの女性が共感します。
・それに対してイエスは答えられます「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(10:41)。イエスはマルタの気持ちに気づいておられます。「マルタ、マルタ」、名前を二度呼ぶことの中に、イエスがマルタの気持ちを理解しておられることが読み取れます。ただイエスは彼女の問題点を指摘されます「あなたはあまりにも多くのことに、思い悩み、心を乱している」。そして語られます「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:42)。マルタは自分こそ正しいと思い込むことによってマリアを否定し、あまつさえマリアを容認するイエスを批判しました。「思い悩み、心を乱す」時に、他者の姿が見えなくなるのです。今日の応答讃美は新生442番「この世のつとめ、いとせわしく」です。「せわしくしているのはマルタだけではない」のです。
2.必要なことはただひとつ
・ルカは何故この物語を記したのでしょうか。ルカの教会は「家の教会」です。主日に家の教会に集まる人々にイエスの言葉が語られます。礼拝では、「御言葉を聴き」、その後に「主の食卓」が開かれます。当時の「主の晩餐式」は単に礼典としてパンとぶどう酒をいただくだけでなく、実際の食事をする愛餐会でした。ところが、集会の女性たちは、「食卓」の準備に忙殺され、御言葉を聞くことが出来なかった。女性がもてなしのために御言葉を聞くことができない、それは教会の在り方としておかしいとルカはここで警告しています。無くてならぬものはただ一つ、神の言葉を聴くことですから、誰からもその機会を取り上げてはなりません。女性を含むすべての人が十分に御言葉を聴く機会が与えられた上で、飲食が準備され、交わりが楽しまれなくてはなりません。
・イエスの言葉は、現代の私たちに語りかける「主」の言葉です。イエスは、多忙な生活の中で、「多くのことに思い悩み、心を乱している」私たちに語りかけておられます。イエスは言われます「本当に必要なことはただ一つだけである」。マリアがイエスの足もとに座って、イエスが語られる言葉にじっと耳を傾けたように、私たちも、すべての営みに優先してただ一つの「無くてならぬもの」、神の言葉に耳を傾け、御言葉に生きることを学ばなければなりません。どのように忙しくても、やるべきことがどれほど多くても、それを理由に御言葉を聴く機会を失ってはいけない。イエスを通して語られる神の言葉を聴いて、その言葉に生かされるようになることが、この多忙な現代社会に生きる人たちに必要なことなのです。
3.言葉を聞くことの大事さ
・今日の招詞にルカ8:14を選びました。次のような言葉です。「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」。イエスは大勢の人を前に、種まきの喩えを話されました「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。またほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカ8:5-8)。
・11節以降で喩えの説明がなされますが、その中の一節が今日の招詞です。「御言葉を聞くが、途中で人生の思いわずらいや富や快楽に覆いふさがれて成長しない」と言われています。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」とここでもイエスは語られています。イエスにより神の言葉を語られた、しかし福音の種は様々な理由により成長できない。道端に落ちた種は鳥に食べられ、石地に落ちた種は水分の不足で干上がり、せっかく発芽した種も茨に(人生の思いわずらいに)捕らわれてしまい、実を結ぶことができない。イエスは言われます「思いわずらうことをやめ、福音の種に水を与え、日に当たらせ、茨があれば取り除きなさい。そうすれば種は百倍の実を結ぶ」と。
・思いわずらい、世の様々な出来事が私たちの信仰の成長を妨げています。ルカ14:15-24、盛大な宴会の喩えは印象的な記事です。「主人が宴席(神の国の食事)に招待しようとしても人々が多忙を理由に断る。最初の人は『畑を見に行かねばなりません』と断り、次の人は『牛を買ったばかりなのでそれを見に行きます』と言い、別の人は『妻を迎えたばかりですので行けません』と答える。大貫隆氏は「イエスという経験」の中で語ります「日常の時間、つまりクロノスの根強さがここにある。仕事に追われて宴会どころではない。神の国、そんな話を聞いている暇はさらにない。イエスの『今(カイロス)』が、生活者の『クロノス』と衝突し、拒絶される」。私たちも心配事がある時や用事があるときは、主日礼拝を休みます。今週休んでも特段の支障はないと思うからです。でも本当に支障がないのか。
・映画監督の森達也氏は語ります「私たちはどこから来て、どこへ行くのか。私たちは何者か。いくら考えても正解などなく、考えることをやめる。それでなくとも忙しい、学校を卒業し、就職し、恋をして結婚する。やがて子供が出来て、小さな家を買い、会社で少しだけ昇進する。そのうち子どもは大きくなり、年老いた両親は介護が必要になる。考えなければいけないことは次から次へ出てくる」。そして自分の死の時を迎えます。しかしある時、立ち止まって考えることが必要です。「このまま死んでよいのか」、「人が人らしく生きるためにどうしても必要なものは何なのか」。それを考える機会を与えるのが御言葉の力です。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)。
・教会では多くの人が洗礼を受けますが、二年たち三年経つと、いつの間にか姿が消えます。世の思いわずらいや富や快楽への誘惑が、日曜日の礼拝よりも大きな力を持ち、人々の信仰を食い尽くすからです。イエスがマルタを通して私たちに語られることは、「あなたの忙しい仕事を一旦中断して、今は私の話を聞いたらどうか。パンも大事だが、命のパンはもっと大事なのではないか」ということです。「思いわずらいを一旦やめて、命のパン、神の言葉を食べよ。仕事を一生懸命にすることは大事だが、日曜日は主の日であり、仕事を一旦やめて礼拝に参加する、そして自分の人生の在り方と今後を考える。そうしないと魂が干上がってしまうのではないか」。イエスはそう語られています。