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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年3月3日説教(ルカ11:1-13、求める者には与えられる)

投稿日:2019年3月3日 更新日:

2019年3月3日説教(ルカ11:1-13、求める者には与えられる)

 

1.主の祈り

 

・ルカ11章は主の祈りを紹介しています。ルカは記します「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った」(11:1)。その弟子たちの要望に応じてイエスが祈り方を教えてくれました。それがルカ11:2にあります「主の祈り」です。「そこでイエスは言われた。『祈る時には、こう言いなさい。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように』」。主の祈りはマタイ6章にもありますが、マタイの祈りは礼拝で用いられた祈りであり、ルカの祈りはマタイに比べると簡潔です。おそらく、ルカの祈りが、イエスが教えられた原型であり、マタイはそれを元にして作られた教会の礼拝での祈りを紹介しているとされます。私たちが通常唱える祈りはマタイ版ですが、今日は主の祈りの原型とされるルカの祈りを共に学びます。

・主の祈りは、簡潔で要点をすべて含んでいます。まず神が「父よ」と呼びかけらように語られます。願う相手は「父なる神」です。私たちは「神」を「父」と呼ぶことが許されている、そして父であるから私たちの祈りに耳を傾けて下さると語られています。次に「御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈られます。主の祈りは共同体の祈りです。共同体の第一の願いは、「神の国が来ますように」との願いです。この世は悪に満ちています。しかしいつかは愛と正義の神の支配がこの地上に来る、その希望に教会は生きます。闇の中にある者は、光を求めます。詩編記者は歌います「私の魂は主を待ち望みます、見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」(詩編130:6)。困難な人生の中であなたなしには生きて行けない、だからどうぞ「主よ、来てください(マラナタ)」、「あなたが生きて、共にいて下さることを経験させてください」と祈ります。

・次に日毎の糧を求める祈りが祈られます「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい」(11:3)。当時の人々は食べることのできない貧しさの中で生きていました。「養って下さい」という祈りは切実な祈りでした。伝道に出かける宣教者は「何も持たずに行け」と命じられます。他人がもてなしてくれない限り、彼らは食べることが出来なかった。その厳しさの中で「今日を生きるための糧が与えられますように」と祈られます。またこの祈りは「私たちの祈り」です。私だけではなく、隣人も共に食べられることを待望します。

・最後に「罪の誘惑に負けないように」と祈られます。「私たちの罪を赦して下さい、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないで下さい」(11:4)。私たちは弱い存在であり、常に誘惑に負けて罪を犯します。だから「罪の誘惑に合わせないで下さい」と祈られます。「誘惑に負けて信仰を失うことがないように」、祈ることが求められています。

・私たちの人生は試練と苦難の連続です。人は苦難があれば神を疑い、幸福な時には神を忘れます。箴言30:7-9に旧約版の「主の祈り」があります。「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないで下さい。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけて下さい。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養って下さい。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。まさに私たちの祈りです。

 

2.求めなさい

 

・主の祈りに続いて、イエスは「求める」ことを教えられます。祈りは願い求めることだとイエスは教えられます。「弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、真夜中にその人の所へ行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友だちが私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません』」(11:5-7)。普通の人はここであきらめるでしょう。しかし、信仰者はあきらめません。友であれば、固いかんぬきを開け、家族の安眠を妨げても、何とかしてくれるはずだと信じているからです。そして願いは応えられます。「しかし、言っておく。その人は友だちだからということでは起きて何か与えることはなくても、執拗に頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』」(11:8)。神の救いを求める者は、閉じられた門が開かれるまで、しつこく門を叩き続けるのです。

・たとえの主人公が置かれている状況は厳しいものです。友人が来てくれたのにパンがない、だから友人のパンを求めて、夜中に人を訪ねています。この友人とは放浪する伝道者であろうと思われます。当時は宿屋等の宿泊設備ありません。さらに受け入れた人も明日自分の家族が食べるパンもない状況で受け入れています。イエスが言われたように、「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」(マタイ25:36-36)という状況の中で、必死に求めているのです。このような必死の求めを神が拒絶されることはあり得ないとイエスは言われるのです。「神に迷惑をかけてまでも求めてよい、父なる神はそれを受け入れて下さる」のです。今、多くの教会で、「子供食堂」の働きが始められています。今日の豊かな時代でも、十分に食べることの出来ない子供たちがいるからです。私たちが子供たちの父になるのです。

・イエスは語られます「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(11:9-10)。願い求める者には父なる神は必ず応えて下さる。その確信をイエスは示されます「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」(11:11-13)。

・子供が高熱を出せば、親は日曜日だろうと夜中だろうと医者のところに行き、開けてくれるまで戸をたたくでしょう。子供が死にそうなのです。医者が起きてくれることが必要なのです。人間の医者が応答するのに、父なる神が応答されないことがあろうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この確信が信仰なのです。

 

  1. 求める者には与えられる

 

・今日の招詞に使徒言行録2:17を選びました。次のような言葉です。「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。イエスの復活後、弟子たちはエルサレムに集まり、「これからどうしたら良いのか」を求めて祈っていました。もうイエスはおられない、自分たちだけではどうしたらよいのかわからない。その時、弟子たちに聖霊が与えられ、聖霊を受けたペテロが語った言葉が招詞の言葉です。この言葉はヨエル書の中にあります。ヨエル書は捕囚から帰還した人々を襲ったいなごと干ばつの災害を前にして、落胆する民に、ヨエルが語った言葉です。ヨエル時代にユダを襲ったいなごの害は史上まれに見る悲惨なものでした。数億匹のいなごが大量発生し、地上の穀物や木々を手当たり次第に食べ尽くし、ぶどうの実はもちろん、その樹皮さえも食われ、ぶどうの木は立ち枯れ、もうぶどう酒を作ることもできません。小麦や大麦の畑の実りも食い尽くされ、農夫たちは泣き叫び、人々は絶望の声を上げました。その絶望の中で「主の名を呼び求めよ、主はあなたたちを見捨てられない」とヨエルは預言します。

・初代教会の人々は、自分たちへの聖霊降臨こそが、ヨエルの預言成就だと受けとめました。「イエスが復活された、自分たちに聖霊が下った。今まさに主の日が来ている」との高揚感の中で、ペテロは説教を始めます。使命感にあふれた説教は人々を動かし、その日だけで3千人が受洗したと言われています。ここに夢と幻という言葉が使われていますが、夢とは将来に対する希望です。キング牧師は「私には夢がある」(I have a dream)という説教しました。「いつの日か、白人と黒人の子どもたちが差別なく一緒にテーブルにつくことができる日」を夢見るという説教です。その夢は実現し、やがて黒人のオバマが大統領になりました。ヨエル書で言われている夢もこれと同じで、将来の希望という夢です。

・幻も、幻想という意味ではありません。英語訳聖書はこの幻を、ビジョン(vision)という言葉で訳します。ヨエル書で預言されている事柄も、ビジョン、将来に対する希望です。今、日本の教会は苦難の中にあります。新来者が減り、受洗者も減少し、教会員の高齢化が進み、60歳以上の比率が教会員の50%を超えるようになり、教会は将来の絶滅が予想される「限界集落」になったと叫ぶ人もいます。この流れは全世界的であり、人々は神の存在を疑い、宗教的な組織や施設に懐疑的な目を向け、教会の礼拝に参加する人が減少しています。

・それにも関わらず、私たちは毎週日曜日に教会に集まり、礼拝をしています。神が教会形成に必要な方を与えて下さると信じるからです。人々は豊かになりましたが、心は満たされていません。魂は渇いています。人々は福音を求めており、求めている人たちを、いかに教会に招くのかが私たちの課題です。「若者は幻を見、老人は夢を見る」、今、教会に必要なものはまさに、この「夢」と「幻」なのです。私たちが夢と幻を持ち、「この目であなたの救いを見た」という確信を持てば、神は必要な人をお与え下さり、教会は再生します。

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