1.神の怒りと憐れみ
・パウロはローマ教会にあてた手紙の中で、「自分にとって最も悲しい出来事は、同胞イスラエルが神の恵みを拒絶したことだ」と述べる。何故、イスラエルは信じないのか、それは誰の責任なのか、彼らはこのまま滅びるのか。これはユダヤ人パウロにとっては最大の心配事だった。「神は、なぜ御意のままに人を憐れみ、またかたくなにされるのだろうか」。「神が自分の思いのままにされたのなら、神はなぜ人を責められるのか」。しかしパウロはその考え方は間違いだと語る「造られたものが造り主に、どうしてこのように造ったのかと言えるだろうか」と。
−ローマ9:19−20「ところであなたは言うでしょう。『ではなぜ、神は人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が、どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」
・パウロは陶器師に造られる陶器の喩えを語る。神と人の関係は造られる陶器と、造る陶器師である。造られる陶器がどう造られようと、陶器師に文句を言えるわけがない。すべて陶器師の考え次第である。人がどのように造られるか、そのすべては陶器師である神の御意次第である。しかし、神の御意は深く広い。たとえ怒りの対象となって、滅ぼされることに決まっていても、憐れんで救おうとされているのである。
−ローマ9:21−23「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっている者たちに寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」
・神は、私たち信じる者たちを、憐れみの器として、ユダヤ人や異邦人の中から選び出して下さった。
−ローマ9:24「神は私たちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけではなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」
・異邦人を救うために、ユダヤ人をかたくなにされたのであれば、今度は異邦人の信仰を通して、ユダヤ人を救われるに違いない。パウロはホセアの預言「私は自分の民でないものを私の民と呼び、愛されなかった者を愛されたと呼ぶ」の意味を考えた。ホセアは妻を娶ったが、彼女は夫を捨て、愛人に走り、二人の子を産んだ。ホセアは姦淫で産まれた最初の子をロ・ルハマ(愛されぬ者)と名づけ、二人目の子をロ・アンマ(わが民でない者)と呼んだ。やがてホセアの妻は愛人に捨てられ、奴隷にまで落ちた。ホセアは彼女を買い戻し、再び妻に迎えた。ホセアは自分の家庭に起きた出来事を通して、背き続ける妻をなおも愛される神、自分の子でないものを自分の子として迎えられる神を知った。ホセアの妻は夫が姦淫の子を自分の子として受け入れ、裏切った自分さえも買い戻す愛に悔い改めた。同じようにイスラエルも、裏切った自分さえも赦される神の愛を見て、悔い改めるだろう。神はその時を待っておられる、神はイスラエルを見捨てておられない。パウロはホセアの言葉を通して、この確信を持った。
−ローマ9:25−26「ホセアの書にも次のように述べられています。『私は自分の民でない者を自分の民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。「あなたたちは、私の民ではない」と言われたその場所で彼らは生ける神の子と呼ばれる。』」
・その時、ユダヤ人の中でも少数は福音を受け入れたことが思い起こされた。「万軍の主が私たちに子孫を残されなかったら、私たちは滅び去っただろう」と言うイザヤの言葉を通して、パウロは神が残してくれた、この少数のユダヤ人キリスト者から新しいイスラエルが生れていく未来を見た。
−ローマ9:27−29「また、イザヤはイスラエルについて叫んでいます。『たとえ、イスラエルの子の数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。』それはまたイザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。『万軍の主が私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう』」
2.神は全人類の救いを求めておられる
・信仰による義を求めていなかった異邦人が、救われて信仰による義を得、信仰による義を求めていたイスラエルは救いを得られなかった。それは、神が御意のままに、ユダヤ人の中、異邦人の中から、救われる者を選ばれたからである。
−ローマ9:30−31「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。」
・なぜ、そうなったのか。それはイスラエルが信仰による義を求めないで、行いによる義を求めたからである。彼らは自ら、つまずきの石につまずいたのである。
−ローマ9:32「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」
・イザヤ8:14に書かれているように、イエス・キリストは彼らイスラエルにとって神が置いた、つまずきの石であり、妨げの岩になった。しかし、その石や岩を乗り越えて信じる者は失望することはない。
−ローマ9:33「『見よ、私はシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く、これを信じる者は、失望することがない。』と書いてあるとおりです。」
・ユダヤ人には十字架に吊るされた者は神に呪われた者であり、救済主(メシア)であるなど信じることが出来なかった。しかし十字架の言葉は信じる者には神の恵みである。
−第一コリント1:23-25「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
3.家族の救いを願う者にとって
・神は何故ユダヤ人をかたくなにされたのか。パウロは自分の伝道を考えた時、そこに一筋の道が見えてきた。エルサレムで生まれた教会は同胞への伝道を始めたが、ユダヤ人はこれを受け入れず、教会を迫害した。信徒はエルサレムを追われ、その結果、福音がエルサレムの外へ、異邦世界に伝えられていった。異邦世界においてもユダヤ人の拒絶により、パウロは異邦人伝道に向かった。ユダヤ人の拒絶を通して福音は拡がって行った。もし母国のユダヤ人が福音を受け入れたら、福音はユダヤ教の一分派、パレスチナだけの教えに終わっていただろう。もし異国のユダヤ人が福音を受け入れたら、福音はユダヤ社会の中に留まっていただろう。そこまで考えた時、パウロは神の経綸がおぼろげに見えてきた。神は、ユダヤ人の不服従を通して、異邦世界に福音が伝えられ、異邦人が救われるようにされたのだ。
・パウロの同胞ユダヤ人はキリストを殺し、現在に至るまで、キリストを信じない。パウロは神がユダヤ人を捨てられたのかと歎いたが、そうではなかった。神はユダヤ人を不従順にし、その不従順を通して福音を異邦人に伝え、今は異邦人の従順を通して、ユダヤ人を救おうとされている。異邦人の救いが満たされた時、同胞ユダヤ人の救いが始まり、神の国が来る。神は全人類を救うために、今ユダヤ人を不従順の牢獄に閉じ込められた。そして「その牢獄の鍵を開けられるために私を立てられた」とパウロは語り、キリストを十字架につけたユダヤ人に対しても希望を失わなかった。
・ある宣教者は言う「信ぜよ、信じない者は地獄に落ちる」。それは一面においては正しい。神は義であるから罪人を救うことは出来ない。しかし、神は憐れみであり、人が滅ぶことを望んでおられない。「神は全ての人を不従順の状態に閉じ込められたが、それは、全ての人を憐れむためだった」。神の御心は人が滅ぶことでなく救われることだ。そのために御子を十字架につけられたことを知る私たちはもう「信じない者は地獄に落ちる」とは言えない。審きさえも神の経綸の中にあることを、ローマ書を通じて知ったからだ。
・パウロはイスラエルの救いを神に祈り続けた。「彼らが救われるのであれば、私は地獄に落ちても良い」とさえ言った。私たちも同じ状況にある。日本でも99%の人はキリストを拒絶する。私たちの子や兄弟たちもキリストを信じていない。彼らは滅びるのか、兄弟姉妹が滅びるのであれば、自分だけ天国に行っても何の喜びがあろう。私たちの願いもパウロと同じだ。その時、パウロの言葉が私たちを神の思いに導く。−ローマ11:32「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」