1.アダムとキリスト
・私たちの中には、自分ではどうしようもない罪=原罪がある。それは「アダムが罪を犯したように、全ての人も罪を犯したからだ」とパウロは言う。原罪はカトリックが教えるように、遺伝によってアダムから伝えられたものではないだろう。しかし人の中に厳然として罪の支配があることは明らかだ。三浦綾子はそれを「氷点」と名付けた。
−ローマ5:12「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
・パウロは罪と死が一体となって人を支配すると語る。しかしユダヤ人は納得しない。ユダヤ人は「罪はモーセを通して律法が与えられたから生じたもので、守るべき律法が与えられる前から、すべての人が罪人とはいえない」と反論した。ユダヤ人は罪を「律法の違反」として意識する。
−ローマ5:13「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪は罪と認められないわけです。」
・罪は律法が与えられる前から存在したが、罪の認識が生まれたのは、律法以降であり、パウロは「人間が神に背いていることを明らかにするために律法が与えられた」と理解する。なぜなら「律法を守ろうとしても守り切れない」ことは明らかである。
−ローマ5:14「しかし、アダムからモーセの間にも、アダムと同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」
・アダムの犯した罪は創世記3章に記されている。神が食べてはいけないと命じた木の実を食べてしまったアダムに神は罰を宣言された。ここに罪が生まれたとパウロは理解する。
−創世記3:17-19「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る』」。
・アダムはヘブライ語で「人」を指す。アダムという人類の始祖が罪を犯したというよりも、アダムに代表される人間が「罪を犯し続ける存在」であることを示すために、創世記は物語化された。以降、人間の罪の問題を「アダムの堕罪の結果」とする原罪論が広く承認され、パウロもこの流れの中にいる。その後アウグスティヌスの唱えた「アダムによる性行為を通じて、全人類に罪がもたらされた」という「生殖-遺伝説」が定着するようになる。
・人は過去から現在に至るまで、死の虚しさから逃れようと様々な努力を重ねてきた。不老不死の薬を求めて山野や孤島を探し、精神的な充実を求めてきた。しかし、人生の価値を認めれば認めるほど、それを失う死の恐ろしさと虚しさは増すばかりとなった。その努力が銅像や記念碑となって死後に残されたとしても、死の虚しさは拭いきれるものではなかった。
2.恵みの賜物
・死への虚しさだけを語るのがパウロの目的ではない。死の絶望から立ち直るための、恵みの賜物を語るために彼は死の虚しさを語ったのだ。
−ローマ5:15-16「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵み賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」
・罪の裁きは、ただ一つの罪でも有罪の判決となるが、その罪が神の恵みで打ち消されると無罪の判決が下される。
−ローマ5:17「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」
・一人の人アダムの犯した罪がすべての人間の罪とされたのに代わり、それとはまったく逆に、神の恵みと義、正しさを豊かに受けたイエス・キリストを信じて生きようとする人は、罪から解放され、豊かな恵みの下に生きていけるとパウロは力説する。
−ローマ5:18「そこで、一人の人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて、命を得ることになったのです。」
・一人の人アダムの罪により、すべての人が有罪とされ、死に定められたように、人は一人の正しい人イエス・キリストの正しさによって救われ、すべての罪が赦され、新しい命に生かされる。それは神への反逆者パウロが、生けるキリストに出会って自分で体験したことであった。だから彼は確信を持って語る。
−ローマ5:19「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
・律法が人の世に入ってきたので、人の罪が明らかにされ、人の罪は増し加えられた。しかし、罪が増し加えられたからこそ、赦しの恵みは満ち溢れるほどになったとパウロは語る。
−ローマ5:20「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」
・イエス・キリストが世に遣わされる前は、罪が死を支配していたが、イエス・キリストが世に遣わされた今は、イエス・キリスによる義と恵みにより、私たちは永遠の命を約束されている。
−ローマ5:21「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」
3.パウロのアダム・キリスト論をどのように考えるか
・人間の罪は人類の始祖「アダムの罪」から始まったとパウロは考える。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(5:12)。「一人の人によって罪が世に入った」とパウロは創世記から論述する。パウロは創世記に描かれたアダムに「人間の原型」を見て、彼の神への背きこそが「罪と死」をもたらしたと考えた。2千年前に生きたパウロにとって、アダムはまさに人類の始祖であった。しかし現代の私たちはアダムを人類の始祖とは考えない。人類は地球上に生命が発生してから何億年という長い時間をかけて進化し、人となったと理解する。その意味で創世記のアダム物語は神話である。しかしその神話の中に深遠な真理が示されていると理解する。
・「人とはどのような存在か」、「人はなぜ罪を犯し続けるのか」、を探求し、物語るものが創世記である。その書かれた目的は世界を科学的に説明するためではなく、神がいかにして人を救済するのかを物語る。パウロは「罪とは神から離れ、神に背き、自分を神として、自我の欲望のままに生きることだ」と語る。罪の結果、神と人の関係が断絶し、神との平和な関係はなくなり、人は神の敵となる。死はその神と敵対している人に与えられる罰であり、その死は肉体の死ではなく魂の死を意味している。
・人がアダムであった時=人間の本性に従って生きている時、そこは罪が支配する死の世界であった。神に背いているという人の在り方(sin)が、多くの個々の罪(crimes)を生んだ。
−青野太潮「十字架の神学」から「パウロが語る時には、『罪』を常に単数の hamartia で語っており,パウロが律法違反の罪のように数え上げることができ、それゆえに複数で語ることができるような罪ではなく、もはやそれ以上は分割することのできない根源的な倒錯としての罪、すなわち神を神として認めることをしない神の前における人間の傲慢を考えている」。
・しかしキリストにあっては、恵み(カリス)が支配する。人はキリストの贖いの業によって、罪の世界から恵みの世界に移される。それを受け入れることが信仰なのである。
−ローマ5:20-21「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」