1.ペトロの離反予告
・最後の晩餐の席上でイエスはペテロの裏切りを予告される。それに対して、ペテロは「主よ、あなたのためならば、死をも覚悟しています」と語った。
―ルカ22:31-34「『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願い、聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』するとシモンは、『主よ、ご一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております』と言った。イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うだろう。』」
・ルカはイエスが「危機が迫っている。今は剣が必要な時だ」と言って、剣を買うように命じられたとする。これは今までのイエスに似つかわしくないし、51節のイエスとも異なる。そこでのイエスは捕らえに来た者たちに対して抵抗されないし、戦いもされない。
−ルカ22:36-38「『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、「その人は犯罪人の一人に数えられた」と書かれていることは、私の身に必ず実現する。私に係わることは実現するからである。』そこで彼らが、『主よ、剣なら、この通りここに二振りあります』と言うと、イエスは、『それでよい』と言われた。」
・ペテロの裏切り予告はイエス逮捕時に実現した。その時、ペテロは泣いた。
−ルカ22:60-62「だが、ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
・ペテロはイエスを裏切った。ペテロは砕かれ、何も無くなり、ただイエスの言われた言葉だけが残った。「サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。ここにはつまずきの予告と同時に赦しの予告が為されている。
2.ゲッセマネの祈り
・イエスは厳しい試練が迫っているのを直感し、弟子たちと離れ、一人祈り始められた。
―ルカ22:39-40「イエスがそこを出て、いつものようにオリ−ブ山に行かれると弟子たちも従った、いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」
・若い体は生きることを求め、心は死を恐れた。「これが本当に神の御心なのか」、「死ぬことに意味があるのか」という疑問もあられたであろう。ルカはその苦しみを「汗が血の滴るように地に落ちた」と表現する。
−ルカ22:42-44「『父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください』。〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた〕」。
・43-44節は重要な写本にはなく、本文批評上の問題があるため〔括弧〕がつけられている。イエスが苦悶されたのは事実であろう。神の子さえ、「理解できないことを受入れること」が難しかったことは、私たちを励ます。しかしイエスは最後に勝たれた。「私の願いではなく、御心のままに行ってください」とは、キリスト者の祈りの中核だ。
−ヘブル2:18「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。
・そこにユダが神殿兵士たちを連れて来た。ペテロはイエスを守るため、剣をとって相手に反撃した。
−ルカ22:49-50「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」。
・ペテロの行為は勇敢であるが信仰から出ていない。物事を神に委ねず自分で打開しようとしている。彼は自分の力の限界を知る必要がある。だからイエスはペテロを止められた。
−ルカ22:51「そこでイエスは、『やめなさい。もうそれでよい』と言い、その耳に触れていやされた。」
3.イエスの逮捕
・人々はイエスを捕らえて大祭司の屋敷に連れて行った。ペテロはイエスを心配してついて行った。
−ルカ22:54-55「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした」。
・人々はペテロに「お前も仲間だ」と告発する。ペテロは三度イエスを知らないと否認する。
-ルカ22:56-60「女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペトロは『私はあの人を知らない』と言った・・・他の人がペトロを見て『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは『いや、そうではない』と言った・・・また別の人が『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言い張った。だが、ペトロは『あなたの言うことは分からない』と言った」。
・イエスは、私たちがいざと言う時には愛する人さえも容易に裏切る存在であることをご存知だ。イエスが全てをご存知であれば、私たちは嘘をつくことも、自分を良く見せることも、自分を正当化する必要もない。何よりも、私たちがイエスを捨ててもイエスは私たちを捨てられない。この赦しに接して、挫折からの回復が始まる。ペテロの涙は彼の洗礼の水だ。
−ルカ22:61-62「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
・イエスを裏切ったイスカリオテのユダは首をくくって死んだ。彼はイエスに絶望し、自分の力で何とかできると考え、破滅した。ペテロは自分に絶望したが、自分の弱さを泣き、主を求めた。ペテロが自分の弱さを認めて泣いた時、彼にイエスの言葉がよみがえる「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。主を求め続ける時、その悲しみは「救いに通じる悔い改めを生じさせ」、主に背を向ける時、その悲しみは「死をもたらす」のではないだろうか。
―?コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
4.最高法院で裁判を受ける
・最高法院での裁判が始まった。焦点は「イエスが自分をメシアと主張したのか、神の子としたのか」である。ユダヤ当局はイエスを騒乱罪でローマに告発するが、最高法院が問題にしたのは涜神罪であった。
−ルカ22:66-67「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った」。
・イエスは自分がメシアであることを否定されない。しかし誤解を避けるために「人の子」という言葉を用いられる。人々が期待したメシアはイスラエルをローマ支配から解放する政治的なメシアだったからだ。
−ルカ22:67-70「イエスは言われた『私が言っても、あなたたちは決して信じないだろう。私が尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る』。そこで皆の者が『では、お前は神の子か』と言うと、イエスは言われた『私がそうだとは、あなたたちが言っている』」。
・最高法院はイエスに有罪判決を下す。
−ルカ22:71「人々は、『これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ』と言った。」
・人々はイエスを嘲り、罵った。しかしイエスは一言も反論されなかった。後にペテロは証言する。
−第一ペテロ2:21-23「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」