1.「不正な管理人」のたとえ
・ルカ16章では、「不正な管理人のたとえ」と「金持ちとラザロのたとえ」が語られる。いずれも「富と信仰のありかた」を問うたとえである。前半の不正な管理人のたとえは1-8節に語られる。主人から解雇を通告された管理人がとった行為についてのたとえである。
−ルカ16:1-2「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない』」。
・当時はエルサレム等の都市に住む資産家たち(祭司や貴族たち)が地方の農地を所有し、小作人に耕作させ、小作料管理のために管理人を置いていた。問題の管理人は主人の資産の一部を着服し、ずさんな運用で主人に損失を与えており、誰かがその事実を主人に告げたのだろう。彼は解雇通知を受けて困惑する。
-ルカ16:3「管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。』」
・彼には肉体労働を行う体力もないし、物乞いするのはプライドが許さない。追い込まれた彼は自分に委託されていた主人の金を用いて人々に恩を売り、解雇後の生活のめどを立てようとした。
-ルカ16:4-7「『そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』。そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい』。また別の人には『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい』」。
・油100パトスはオリーブ油100樽、金額にすれば1000デナリオンになる(1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金、1000デナリオンは今日の1千万円に相当する)。小麦100コロスは小麦100石であり、価格的には2500デナリオン(同2千5百万円)になる。いずれもかなりの金額である。管理人は小作料を減免し、浮いたお金(いずれも500デナリオン)を農夫と山分けするつもりだったのかもしれない。主人は管理人の行動を知り、それを叱るのではなく、ほめた。何故ほめたのか、それがたとえの意味を解読する中心点だ。
-ルカ16:8「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」
・不正な管理人は使いこみと借用書の改ざんで、主人に二重の損害を与えた。主人は当然怒るかと思いきや彼を褒めた。勿論主人は彼の悪行を褒めたのではなく、不正な管理人の「毒食わば皿まで食う図太さ」と、「転んでもただでは起きないしたたかさ」に、半ば驚き呆れ、怒りを忘れて、感嘆した。光の子ら(イエスの弟子たち)は、この不正な管理人のしたたかさから学ぶべきであるとイエスは語られる。
・同志社大学・村山盛葦は「主人の視点に立てば管理人は不正であるが、不在地主の強欲に苦しめられている立場からすれば、管理人は称賛される」と考える。たとえの別の読み方である。
-村山論文から「たとえの聴衆の多くは、地主から土地を借り、農業を営む貧しい小作人であった。彼らは借地料として、一定額の穀物、金銭、あるいは収穫の一定割合を地主に支払う必要があった…日ごろから地主に虐げられている聞き手たちは、主人への敵意と同時に、窮地に追い込まれた管理人に対して同情を抱いたであろう。また自己防衛を講じる管理人を支持したであろう…主人の意向に反して借金を大幅に減額してくれる管理人は、聞き手である貧農小作人にとっては痛快なヒーローと映ったであろう。」(「不正な管理人のたとえ」、同志社大学神学部・基督教研究76巻、2014年6月)。
2.たとえの解釈
・イエスは不正な管理人をほめられた。9節以降はそれに対するルカの補足の言葉であろう。管理人は不正を行っても、残されたわずかな時を有効に用いて解雇に備えて「賢い」行動をとった。人間も神に対して、「どう生きたか」の決算報告書を出さねばならない。この管理人の熱心さは称賛に値するとルカは語る。
-ルカ16:9「そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
・ここで富を形成する手段が正しいか不正であるかは問われていない。問題はその富をどのように用いるかであり、隣人のために用いた時、その行為は称賛される。不正な管理人も小作人たちの負担を軽減した。
-ルカ16:10-12「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」
・不正な管理人が主人の金を使って友人を作り、失業した時その友人に受け入れてもらえるのだとしたら、正しい者はなおのこと自分の金で友人を作り、神が天国へ招いてくださるようにすべきである。そう考えればこの世のあらゆることが、その人物をみる試験であると考えられる。この世の富はその人のものではなく、神から貸し与えられているのだから、それをどう用いるかによって、その人は試されたうえで、本当の富である天の富の運用を任されるとしたら、この譬えはさらに多くの事を語っていることになる。
・結論としてイエスは言われる「あなたがたは神と富(マモン)に同時に仕えることはできない。イエスは富を絶対的な価値として追求する生き方を「マモンという偽りの神に仕える」として排除される。
-ルカ16:13「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
・これは経済活動の排除ではない、経済的な成果(富)を求めるあまり、人間の尊厳を損なう生き方が排除されている。1944年、ILOは「労働は商品ではない」と宣言した。それにも関わらず、「労働」があたかも「商品」であるかのように商取引の対象となり、使い捨てられ、摩滅させられている現実がある。現在はパート・アルバイト、派遣社員、契約社員など非正規雇用の拡大の中で、雇用が不安定化し、使いたい時に使い、切りたい時に切れる「商品」のような様相を呈している。また正規労働者においても、多くが労働時間や職場環境の面で過酷な状況におかれ、「肉体」や「人格」が傷つけられ、その結果、「過労死・過労自殺」が多発している。「労働力は商品であるが、労働者は商品ではない」。それを忘れた時、労働は奴隷労働になってしまう」(石田眞・早稲田商学、2011年3月)。
3.律法と神の国
・イエスが不正な管理人の譬えと教訓を語り終えたのを、傍らで聞いていたファリサイ派の人々が嘲笑した。嘲笑には悪意と侮蔑が含まれていた。ファリサイ人にとって富は善行の証しだった。ファリサイ人は善行を人々の前で見せびらかし、善行による物質的繁栄はその報いと信じ、誇りにしていた。
-ルカ16:14「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」
・今日ペンテコステ派が中南米やアフリカを中心に伸びているが、その基本は「繁栄の神学と神による癒し」である。人間は信仰に見返りを求める。繁栄の神学とは「信仰する者には健康面と経済面で豊かな祝福が臨む」する教えであり、ご利益宗教的な色彩が強い。しかしこれが人々の求めているものであり、だからこそ人気を呼ぶ。ファリサイ人も同じ立場に立っていた。イエスはそのような教えを退けられた。
−ルカ16:15「そこで、イエスは言われた『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』」。
・イエスの来られる前、ヨハネの時代までは律法と預言書が神の言葉を伝えるすべてであった。しかし、イエスが福音を述べ伝え始めて以後、一番福音にふさわしくないと思われる徴税人や罪人が、力ずくで福音にあずかろうとしているようにイエスのもとへ押しよせ、新しい福音の時代が始まった。
−ルカ16:16「『律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。』」
・しかし、新しい時代が始まったからといって、律法が廃れるようなことは決して無く、イエスは廃れることのない律法の例として結婚を取り上げられた。当時のユダヤ法では、女性は一人の人格とは見做されず、夫が妻を離婚する場合、離縁状を出せばいつでも妻を離縁できた。しかし、イエスは夫の都合だけで、妻を離縁し、他の女性と再婚する者は姦通の罪を犯すものだと戒められた。
−ルカ16:17−18「『しかし、律法の文字の一画が無くなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻とする者も姦通の罪を犯したことになる。』」