2016年6月8日祈祷会(ルカによる福音書8:1-21、種を蒔く人の譬えと神の家族)
1.婦人たち、奉仕する
・イエスは宣教の旅を続け、付き従う人々はだんだん増えていった。ルカは十二人の弟子の他に多くの女性たちが従ったことを報告し、その中から代表的な三人を紹介している、イエスに七つの悪霊を追い出してもらったマグダタラのマリア、ヘロデ王の家令の妻ヨハナ、スサンナ。迫害側ヘロデ王の家令の妻が、イエスに付き従っていたのは意外だが、それだけイエスの包容力が大きかったことを示している。
−ルカ8:1-3「その後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒だった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」
・イエスの十字架死に立ち会ったのも女性たちであった。また復活のイエスに最初に出会ったのも女性たちだった。初代教会において女性は大きな役割を果たしている。
-ルカ23:55-24:11「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け・・・週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると・・・主イエスの遺体が見当たらなかった・・・婦人たちは墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。
2.「種を蒔く人」の譬え
・イエスは、当初はユダヤ教会堂(シナゴーク)で宣教されたが、律法学者やパリサイ人はイエスを敵視するようになり、会堂の扉を閉じた。そのため、イエスは弟子たちを連れて巡回伝道に出られた。イエスの周りには大勢の群集が集まってきた。その群集に、イエスは譬えで話をされた。イエスは譬えを通して、宣教の現実を語られた。大勢の群衆がイエスの周りに押し寄せるが、彼らは病気が癒されると立ち去り、イエスを顧みようともしない。ファリサイ人や律法学者らは、敵意をむき出しにしてイエスに迫る。しかし必ずイエスの言葉に耳を傾ける人が出てくる。イエスはそれを信じて宣教を続けられた。
−ルカ8:4-8「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスは譬えを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気が無いので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」
・11節から譬えの意味が解説される。この部分はイエスの言葉ではなく、初代教会がイエスの喩えをどのように聞いたかが記されているのであろう(御言葉=福音はイエス以後の初代教会の伝道に用いた言葉)。弟子たちの目には宣教の成果が見えてこない。気落ちしがちの弟子集団にこの喩えが示すのは、「収穫は必ずある」という使信である。ある種は道端に落ちて鳥に食べられ、ある種は土の薄い土地に落ちて育たず、ある種は茨に覆われ枯れてしまう。農夫も蒔いた種が全部発芽するとは思ってはいない。農夫にとって、どんなに種の無駄があっても、種蒔きは止められない、収穫は必ずあると信じているから種蒔きに励める。この「種蒔きの喩えの解説」は福音の種を蒔く者、伝道者への励ましなのである。
−ルカ8:11-14「『この譬えの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去られる人たちのことである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉は聞くが、途中で人生の思い患いや冨や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。』」
3.「ともし火」の譬え
・イエスは続いて「ともし火の譬え」を話される。御言葉を聞いて信仰を与えられた者は、それを隠しておくのではなく、進んで他人の前に現せと命じられる。主の働きの証し人になるのだと。その志を持っている者はさらに信仰を与えられ、志を持たない者は持っていると思っていた信仰さえも取り去られる。
−ルカ8:16-18「『ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来た人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。』」
4.イエスの母、兄弟
・ルカはイエスの母と兄弟たちがイエスに会いに来たが、イエスは会おうとはされなかったと述べる。
-ルカ8:19-20「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった」。
・ルカはこのエピソードを種蒔く人の譬えのすぐ後に置き、「神の言葉を聞き、行う人は、神の家族になるのだ」と意味づけている。
-ルカ18:21「するとイエスは、『私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」。
・最初に書かれた福音書の著者マルコはこの話を別の文脈に置き、家族に受け入れられなかったイエスの悲しみの言葉として記す。歴史的事実としてはマルコが語るように、イエスの宣教活動は生前の家族には理解されなかったと思われる。
-マルコ3:20-35「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来・・・た。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである・・・イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『私の母、私の兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここに私の母、私兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」
・生前のイエスは肉の家族を持たない者として生きられ、弟子たちにも家族を捨てるように求められた。ルカはその寂しさを訴えられるイエスの肉声を伝えている。
-ルカ9:58「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。
・しかしイエスの復活後、家族もイエスが「キリスト」であることを認め、礼拝の場に参加している。十字架と復活の出来事が、肉の家族の頑なだった心を砕き、肉のつながりを超える新しい家族を形成するという出来事が起こった。
-使徒言行録1:14「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。
・イエスの弟ヤコブはやがてはエルサレム教会の指導者となり、紀元62年にはユダヤ教徒の迫害の中で殉教していく。かつてはイエスに激しく反発していた弟ヤコブが、「イエスの名」のために死んでいく者になった。彼は教会にあてた手紙の中で告白する「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」(ヤコブ1:1)。