1.木とその実
・イエスは「木の良し悪しはその実で分る」と言われた。イエスの例話は現実に即している。りんごの場合、良い実は張りがあり、色艶が良く、軸がしっかりして、ずっしり重みがある。良いりんごの実を育てるため、りんご農家は木の手入れに一年をかける。年の初めには、日光がよく当たるよう枝を剪定し、春先には樹皮を削って病害虫を駆除し、施肥する。夏にかけては木を消毒し、水やりはまめにして年中欠かさない。努力して良い木を育てることで、木は良い実を結ぶ。もし、イエスが悪霊によって悪霊を追い出しているなら悪い実を結ぶはずだ。「私の行為を、その実を見て判断せよ」と、イエスはファリサイ人を戒めているのである。
−マタイ12:33-34「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。
・ファリサイ人はイエスの悪霊払いを、ベルゼブルの仕業と非難した。「木と実」の例話は偽預言者の見分け方として、既にイエスが語ったことでもあった。イエスの業は世の弱者を救うための業であって、それ以外ではない。その業が良い実を結んでいることはすでに、癒された民衆の感謝と喜びで立証されているのに、ファリサイ人が非難攻撃するのは、イエスに対する妬みと、立場を失う不安から出ているのである。
-マタイ7:15-20「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」。
・蝮は夜行性の毒蛇である。イエスがファリサイ人らを「蝮の子らよ」と呼び捨てにするのは、彼らの言動が悪意という毒を含んでいるからである。イエスが悪霊つきの人を癒したのを、彼らは「ベルゼブルの力を借りて、悪霊を追い出している」と中傷するだけで、目の前にいる癒された者の喜びは、彼らの眼中にない。彼らの心には世の弱者を救う気持ちなどない。イエスが善い倉と悪い倉の例話で、ファリサイ人を戒めたのは、彼らがあまりにも利己主義で、あまりにも反省がないからである。
−マタイ12:35−37「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
2.人々はしるしを欲しがる
・しるし、証拠を求めることは当然であって間違いではない。しかし、ファリサイ人がイエスにしるしを求める動機が問題なのである。イエスはそれまでに数多くの奇跡を行い、十分なしるしを見せていたのに、彼らがさらにイエスにしるしを求めるのは、彼らの言い分にイエスを陥れる下心があるからである。彼らは何とかしてイエスを遣り込め、陥れようと機会をうかがっていた。イエスがどのようなしるしを見せたとしても、納得しないほど彼らの心は頑なになっていた。そんな彼らの要求を入れ、しるしを見せたとしても無駄なのである。イエスは彼らの邪な心を見抜き、ヨナと南の女王の例話を用いて彼らを戒めようとされた。
-マタイ12:38-39「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない』」。
・ヨナはアッシリアのニネベへの宣教を神から命じられたが拒み、逃亡したが果たせず、海に投げ込まれて、大魚に飲み込まれる。ヨナは三日三晩大魚の腹の中で沈思黙考し、悔い改め、ニネベへ赴き、宣教する。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改め、滅びを免れる。これが「ヨナのしるし」(ヨナ書1章)である。ヨナは一つの奇跡も行わなかったのに、ニネベの人々は信じた。ニネベの人々はしるしを見ず、ヨナの説教だけで悔い改め、救われたのである。それ比べイエスの時代の人々は、イエスの奇跡と説教を直接見聞しても悔い改めなかった。イエスの時代の人々はニネベの人々より悪いことは、悔い改めないことからも明らかである。「人の子は三日三晩大地の中にいる」は、葬られたイエスが三日後に復活することを暗示している。
-マタイ12:40-41「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子は三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」。
・南の女王は(列王記上10:1−10)、イスラエルの南、シバの女王のことである。彼女はソロモンの知恵を聞こうとして、地の果てからはるばる旅をしてエルサレムのソロモンのもとに来た。しかし、イエスの時代の人々は、「ソロモンよりもまさった」イエスを目の前にしながら、その宣教を聞こうとしなかった。裁きの日にはこの女王がイエス時代の人々の不実を裁くとマタイは記す。
−マタイ12:42「また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンに勝るものがある。」
3.汚れた霊が戻って来る
・この喩えは、イエスによって追い出された霊が、行く先を無くして戻って来ると勘違いしやすいが、そうではない。イエスの時代の人々が、信仰の迷いから、あのラビ、このラビと求め歩き、さらにバプテスマのヨハネに、あるいはイエスにと右往左往するが、どこへ行っても信仰に身が入らず、真の信仰を得られないまま終わってしまうという喩えである。砂漠は荒れ地で水も無く、落ち着く場所が無い。空き家は空っぽになった人の心の喩えである。そして、迷い迷ってすべての信仰を無くし、空き家のようになった心に、世の物欲や快楽が押し入り、人の心は前より悪い状態になる。「この悪い時代の者たちもそのようになろう」は、一旦はイエスの教えを聞きながら離れて行ったイエスの時代の人々のことなのである。
−マタイ12:43−45「汚れた霊は人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分より悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
4.イエスの母、兄弟
・人はここで、イエスとイエスの家族に対する既成概念を破られる。イエスと肉親の関係は一般の肉親概念からかけ離れているからである。ヨハネは「(イエスの)兄弟も、イエスを信じていなかった」(ヨハネ7:5)と記し、マルコでは家族が、イエスを「気が変になった」と思い、引き止めたと書いてある(マルコ3:21)。「私の母とはだれか、私の兄弟とはだれか」とイエスが言う。これだけでは、家族に気が変になったと思われるだけである。しかし、次の言葉がイエスの真意を伝えている「見なさい、ここに私の母、兄弟たちがいる。だれでも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。」イエスは信仰により結ばれた神の家族を教えている。もちろん、イエスが肉親の父母、兄弟姉妹を租末にせよと教えるわけはない。私たちが教会で、信仰の仲間を兄弟姉妹と呼びあう、信頼の関係をイエスは教えている
−マタイ12:46−50「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『私の母とはだれか。私の兄弟とはだれか。』そして、弟子たちを指して言われた。『見なさい。ここに私の母、兄弟がいる。だれでも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。』」